14平米にスーベニアとはどういう意味か、考える あるいは久川凪のアイデンティティ形成
久川凪のソロ曲“14平米にスーベニア”の視聴が公開されている。この曲は今のところ、おおむね新生活応援や、凪のアイドルになってからの心境についてポジティブに語るものと見られているらしい。でも私は、この曲からどことなく寂しさや悲しさのようなものを感じた。まだ前半しか分かっていないが、それに強すぎる思い入れを感じてしまい、それを形にしたくて、以下の文を綴る。先取りすると、この曲は、久川凪のアイデンティティのあり方を語っていると思う。筆者が、ネットネタに強い凪でも猫には勝てないのか、と思ったことをきっかけの一つとして始めた考察の一つであることも先に書いておく。
この曲は14平米の部屋から始まる。14という数字は凪の年齢であるし、この部屋は凪の心の中のメタファーとしてみてよいと思う。まっさらな部屋で1人暮らしが始まる、ここに何を持ち込むのか、凪の心は何によって構成されることになるのかが曲の主題とみようと思う。スーベニアとは、自分のためのお土産のことだ。
凪は買い物に出るが、何でもかんでも買えるわけではない。凪はその理由をお小遣い制に求めた。でも私はそれに引っ掛かった。一人暮らしを始めたなら、アイドルのお給料を使って自由に物を買うことだってある程度自由にできるのではないか。でも、お小遣い制というルールにしたがわなければならないと思っている。なぜか。買い物で持って帰るものとは、凪の心を構成するパーツだ。買えるものに制限があるとは、凪はある制約のもと心を構成していく必要があるということだ。どんな制約か。親に代表される、自分以外の、幼い自分より上位の存在である。直後に配された、自分の部屋は自分だけのもので、自分が好きなように作るんだという内容と対照的である。
先をみる。「季節外れの桜咲かせ」は要注意フレーズと思う。桜を「咲かせ」ている誰かが匂わされている。自然を主語にしてもよいが、次の文と繋がりが悪い。後に凪がここで写真を撮ることが語られることから、主語を凪と考えるのはどうだろうか。もちろん凪は花咲じいさんではないから、この桜は空想上のものだ。ならどういう意味なのか。私は、この曲が新生活応援ソングとして受け取られることと関係すると思う。新生活のイメージには、入学式と桜があるが、2021年の桜は3月21日に満開を向かえたらしい(ネット調べ)。つまり入学式の時期4月に桜はもう存在しないので、入学式の桜はイメージに過ぎないのだ。凪は写真を撮るにあたり、写真加工アプリによって桜を加え、イメージを与えようとしているのではないか。季節外れとは、桜がイメージに過ぎないことを示唆している。
そして、ここで凪が写真に捉えようとしているものは「かわいい概念」、実体ではないのだ。後に、猫のあくびを写真におさめる場面が出るが、この時点で凪は、対象を概念としてしか捉えていない。概念はイメージの仲間だ。カメラとは、風景を残しておくための機械だから、脳の記憶システムのメタファーだ。凪は、一般受けする「かわいい概念」に、消費されるための新生活文脈を桜を加えることで付与し、それを記憶によって心に取り込む、アイデンティティの一部にしようとしている。そして、概念に過ぎないものにまで、許可を求める。この概念はイメージとして自分の中に取り込んでいいものか、確認までしている。自分が見られるものであることを意識して、それを満たすように生きようとしていることが表されているようだ。。
概念とイメージ。自分らしい部屋とは対極で、個別性の反対。それを見ていた猫は、あくびという反応を返す。概念やイメージの反対である個別的な生き物として、猫が生々しく姿を現す。イメージの世界に生きようとしている凪に、あくびという生理的行為を見せる。人間ならば、あくびはつまらないものや退屈なものを目にしたときの反応の一つだ。具体的な生き物であり、個として自由に生きる猫は、凪の、見られるものとして生きようとする姿を見て、それで本当にいいのかと問いかけてきている。凪は、個別な独立した存在として生きる猫のあくびを写真にとり、保存する。
写真は自分の14平米の部屋に飾られる。つまり、凪の心の中にこの出来事は刻印され、その意味が考えられ続けるものとなる。今の凪の感想は「笑ってしまうな」と「笑っちゃうだろうな」。現在持つ感想と、未来に抱くだろう感想。後ろの「笑っちゃうだろうな」が、現在の感想とちがうトーンで歌われている。凪は何に笑っているのだろう。どうして笑うのだろう。誰かが定めた、誰かから見られるものとしてイメージの世界で生きることに疑問を投げた猫に対して、凪は笑いを返している。ここから、ここまでもだが、強く解釈を混ぜる。凪が笑うのは、猫に対して、そんなことできるわけないじゃん、という笑いなのではないだろうか。大きすぎる困難や要求を前にしての笑いである。不可能の前では笑うしかできない。「笑っちゃうだろうな」は未来の凪の感想を予想して、今の自分の感想を補強するための行為と考えられる。未来の自分を呼び出して安堵する。現在の感想が正しいのか、不安も伴っていることの裏返しかもしれない。凪は自分だけの部屋を作ることを夢見ていた。人から見られることが前提ではない部屋、生きざま、アイデンティティは完全に挫折したわけではないことの表れではないか。
最後に語られるフレーズは、「愛すべき夢と現実」夢とは視線に縛られない本当の自由、個性のことで、現実とは、インターネットを中心とした、見せるための、見られることを前提とした、みんなに認めてもらえるという限定つきの「個性」の人生だと考える。
これにて、長々とした感想文を終える。読んでくれた方、ありがとうございました。