デジタル弱者とデジタル遺品
最近、僕の周辺はこのテーマで溢れてる。デジタル弱者というのは自分の造語で、情報弱者というよりは、どちらかというとデジタルに疎い人という意味のつもりである。
デジタル弱者なんてのは、パソコンの大転換点となったWindows95が出た時から20年以上も経った今でもそれなりにいると思う。意外と歳に関係ない。ただ、仕事のことでは分かる(使える)が他の事はわからないレベルから、電源すら入れる事もできないとかまで幅は広い。
パソコンを触らなくても生きていかれる優しい社会なので、デジタル弱者だからダメなんてことはないのだが、急に区の役員が回ってきたり、ガラケーが壊れてスマホに変えざるを得なかったりたりと、ちょっとした事でデジタルデビューせざるを得なくなり、困ってしまったというよう人が何故か僕の周りにここのところ多い。
それと、もう一つのデジタルで遺品。本人が亡くなってもSNSなどがそのままになっているような話し。いつまでもデジタルの世界では生き続けているというのが問題なんだろうけど、僕が問題にしているのは、デジタルデータというのは形が見えないだけに、家族が存在に気がついてないパターン。それはお金になるならないという話しでなくて、その分野では非常に貴重なデータを持っているかもしれないが、データそのものの存在が知らなかったり、知っていても価値が分からない(特に趣味性のものは家族から嫌われている事が多い)。物の遺品だったら、家族以外が気がつく可能性があるのだが… またマズイことに、データというのは物よりもプライベート性が高くなり、他人がそこに入り込む余地が非常に難しい。
デジタル遺産は未知数のとこが多くてどうしたらよいのか分からないが、デジタル弱者のデジタルとの向き合い方は、全部覚えようとせずに、できるところだけ楽しんで、困った時にいつでもSOSを出せる人が近くにいるというのが、一番心地よいところだと思う。無機質なデジタルにちょっとだけ人づきあいが加わると“いい塩梅”なのかもしれない。
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