スマイルあげない
「お前、笑うぐらい、やれって」そう吐き捨てる店長は、私の名前すら覚えてくれなかった。
小学生の頃、先生のいったことでクラスメイトたちが一気に「ドッ」と笑うあの現象が苦手だった。
今のはどこがおもしろいポイントだったのか、
笑えない自分はおかしいのか、
私だけが笑ってないことをクラスメイトたちは気付いてるのか、
先生は表情を変えない私をどう思ってるのか、
なんで同じタイミングで笑うことすら、できないのか。
笑いというふるいにかけられ、あぶれた私は、一体どうなるんだろう。
全部全部つまらなかった。
学校が? ううん、世界が。
家も家族も社会も能天気同級生も、余裕のない大人も、役立たず教師も、毎日もこの瞬間も全部、笑えない。だってぜんぜん面白くないから。
私は大学生になっても、常に真顔のまま生きた。
大学の心理学の授業で口角を上げていると、脳が錯覚してしあわせに感じるという実験結果があることを知った。
その事実でもっと不幸になった。
「人は楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」という言葉も耳にした。
意味がわからなかった。
ニコニコしてる女の子はかわいいから徳よ、と母が言った。
ニコニコしてなくても女の子は可愛いです。
社会に蔓延る笑い顔ハラスメントには参った。
てか、どんだけみんな笑顔好きやねん。
笑ってほしいのは、いつだって目の前にいるその人で、私じゃない。
私の笑顔見て安心したいだけ。
なのに、クスリともしない私に腹を立て、あーあ! 唯ちゃんは笑ってないからしあわせにはなれないね! とめくじらを立ててくる。
私はだいたい何かで責められると、一旦全部自分が悪かったと思って周囲に腹を立てながら生きるというなぞムーブを一度取る。
なので「ご期待には添えないが、笑えない私はおかしいし、人に悪い」と思ってなるべくヘラヘラ笑っているようにも見えなくはない変な顔で残りの大学時代を過ごした。
2021年、コロナウイルスが流行ってマスク生活を余儀なくされた。
西中島の喫茶店でアルバイトしていた頃だ。
その時、私は顔の半分が隠れていることをいいことに、一切の笑顔を廃止した。
客にも笑いかけない。店長にもマスターにも先ぱいにもヘラヘラしなかった。
口が出てないんだから、笑う努力はムダだ。
笑い顔削減、体力と表情筋にエコ!
笑わなくていいと思うだけでとてつもなく楽でしあわせだった。
口角を上げたくらいでしあわせを感じるような、錯覚のしあわせ、わたしゃいらんね。
「笑わなくてもいい」、「むしろ何があっても笑ってたまるもんか」くらいまで真顔で生きれる生活こそが、私にとって本当のしあわせだった。
けれど私の決意とは裏腹に、自然と笑いを堪え切れず、噴き出してしまうことがちらほらでてきた。
衝撃の結果だった。
私は自ら笑いだしたのだ。
笑え笑えと周囲が言ってきた時は変な顔しかできなかったのに、笑いたい時に笑ったらみんなと同じ顔になった。
そうか、人はこういう時に笑うのか。
私は笑いを覚えた。
自然に笑えるようになった。
今では笑ってほしいと言われることは一切ないし、ゲラやなと言われることまである。
笑ったほうがいいなという時は、ゆい作、「楽しそうな顔」をする。
ゆい作、楽しそうな顔は笑顔ではない。みんなが欲しがる笑顔とは、決して違う顔だ。
私も人の笑顔は好きだし、笑顔な人はチャーミングだと思うし、笑いかけてくれたらほっとするが、人は笑ったほうがいいとは全く思わない。
笑ったらいいことが起こるというのは嘘である。どういう因果だよ。
笑ってなくたっていいことくらいふつうにランダムに起こるわ。
まず笑顔は強要するもんじゃない。
そんなに相手に笑ってほしいなら、面白いこと言えや。
ティーンの頃の私にいいたい。
誰がなんと言おうと笑わんでよろしい。
笑いたくないときに笑うと、何がおもしろいのか迷子になるよ。
笑わないでいてごらん、おもしろいこという人が次期に現れる。
笑わないでいてごらん、自分でもおもしろいこと、いっぱい思いつくから。
笑わないでいてごらん、笑顔じゃなくて、ゆいの好きな顔して生き。
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