自画像(短編)
俺の知ってる女とちゃう、とすぐに思った。
それは今までの女と違うという意味ではなく、頭の中での女というか、女ってこうやろっていう見聞による決めつけというか、俺の理想というか、とにかく実物の誰かとの比較の話ではないということだ。
紗英はパッと見全くデブではなかったが、脱がしてヤるとき骨盤のゴツさというか、太ももあたりからお尻と腰までの立派さに驚いた。
こんかデカい部分が身体を立たすとバランス良く見えるだなんて、女ってなんたる神秘だ。
紗英の身体はびっくりするほど柔らかく、肌はきめ細やかだったが、AVに出てくる女たちのように白くはなかったし、胸もなかった。
紗英は俺のいうことを否定することは絶対にしなかったが、逆に俺のいうことにうんうん相槌をうてるのが不自然なくらい、本人の意思と意志が固かった。
俺の意見と反対のことを思っていても、その場で言ってくることはまずなかった。
何考えてるんかわからん、としばしば俺は思った。
つまり怖かった。
紗英の出立ちはもちろん可愛かったが、なんだか俺の知っている可愛いとは違う気がした。
生理前だと言って機嫌が悪い時もあれば、生理じゃないのにやけにイライラすると言って機嫌が悪い時もあった。一体どの程度がホルモンの影響なのか、本人にも俺にもわかりかねた。
紗英はよく食べる女だった。
およそ女子の食う量じゃないだろうという量をぺろりと平らげ、〆には必ず甘いものを食べた。
本人曰く、「食べんと仕事なんて務まらんよ」とのことだった。
毎食よく食べるのに、生理前は特に食欲が止まらないらしく、俺と同じ量の夕食の後にチキンラーメンを食べ、菓子パンを4つ食べ、スナック菓子を漁り出した日にはさすがに心配になってとめた。本人曰く、「食べる前と食べた後の胃腸に全く変化がない」、らしいがそんなことがありえるのか。
紗英は、たぶん賢い。地図は読めないし、記憶力もいいとは言えないし、長く喋らすと時系列がバラバラになり、言葉がつまるけど。
紗英には人を見る力があるように思えた。
紗英はとにかく人の話が「聞けた」。
それも俺が怖いと思う要素の一つだ。
紗英は人の話を聞くとき、少しオーバーなリアクションと合いの手と質問を挟んだが、その時に「私の意見」を口にすることはなかった。
私の意見については振られた時に簡潔に述べるだけで、自分語りの類を全くしようとしなかった。
でも、それで紗英から溢れ出る「私」がなくなっているのかというとそれはまた別の話だ。
紗英の「ふぅん」や「へぇ」という相槌のトーンだけでも、食いつき方の一つとっても、興味の有無は丸わかりで、もしかしてバカにされてるのかと思うことだって少なくなかった。
紗英は口に出さなくても「何か考えてるように」見えたし、逆にいえばそうとしか見えなかった。
それを表に出さないのが、妙に大人びているようにも、俺を内心小馬鹿にしているようにも見えて、表に出さないのにそれが漏れ出ているのは、腹立たしくもあり、色っぽくもあった。
紗英のことはよくわからなかった。なのに紗英は俺のことをよく知っていた。
好きな食べ物も好きな曲も、機嫌の悪いタイミングも、疲れている時もすぐに気付いてくれた。
そんなある日、紗英から話があるとLINEがあった。
「なに」
「こわいねんけど」
「別れ話?」
「ちゃう」
「がちなに」
「わかった」
「ヒントだけちょうだい」
「色で例えると、黄緑」
話を色で例えるやつがどこにいる。やっぱり紗英のことは、わからなかった。
近所の純喫茶で待ち合わせて彼女を待っていると、首元の開いた黒のワンピースを着た紗英が少し遅れてやってきた。
他愛もない話もそこそこに、話の流れなどブッチぎって紗英は切り出した。
「あたし、文章書いてるねん。けんちゃんに黙ってたのは悪かった。賞とって。新聞に私の名前と写真が載る」
「……は?」
いつの新聞? どこの新聞? いや、まず文章って何? てか文章なんて、いつから? なんでいわんかったん? 賞って何? 小説家にでもなるんか?
疑問と驚きは頭の中を駆け巡って、消滅した。
ここはまずおめでとう、が先なのだろうか。
フリーズする俺に紗英は前もって考えていたであろう台詞を口にする。
「ここのページで私の文章見れる。けんちゃんに読んでほしいかでいうと、、微妙やけど。読むかも任すけど。あたしが黙ってて、誰かからけんちゃんの耳に入るのはなんか違う気がして」
紗英がリンクをLINEで送ってきた。
野沢紗英ーnote
まじか。こいつ本名顔出しでインターネットに文章上げてやがる。
「目の前じゃ読みづらいと思うし、今日はあたし帰る」といって紗英は逃げるように帰っていった。
お、おい、コーヒー代置いてけよという言葉もろとも置き去りにされる。
文章って。なに?
長文を読むのはキツかった。本なんて、小学生の頃に「エルマーの冒険」シリーズを読んでから読んでない。
そもそも俺が読んだとて到底理解できると思えない。
けど、これは紛れもなく紗英が書いたものなのだ。あの自己主張しないくせに、やけに我の強い紗英が。
結局、読んだ。
いや、ちょっとだけ読んだ。ちょっと以上、むり。どうやって書いたんだこれ。
頑張って読もうと思ったが、文が長くて、しかもいくつもあったので、短かめのやつと、タイトルに釣られたやつだけ読んだ。
紗英は、自分のことを書いていた。つまりフィクションではなかった。幼少期のこと、家族のこと、学校のこと、好きな人のこと、傷ついたこと、楽しかったこと、俺に出会うずっと前から、紗英は書いていた。
知らないことばかりだった。おもしろいかどうかも、何故評価されているかも正直よくわからなかったし、あまりに知らないことだらけで俺の彼女が書いたとも認めがたかった。
紗英は俺が読んでも理解できないことをわかっていただろう。
紗英はなぜ俺に文章を見せたのか。
卑怯だと思った。
紗英のやっていることは、間違いなく卑怯だった。
自分のことを知ってほしいなら、話すべきだ、俺に。文章なんて、いらん。使うな。
紗英に電話をかける。LINEじゃ、文章じゃ負けそうだから。喫茶店で会った時から1週間経っていた。
「……はい。もしもし、久しぶり」
「久しぶり。読んだで」ちょっと、という部分は伏せた。
「そう。……わかった?」
「……あんまわからんかった」
「ははっ」紗英の短い笑い声。やっぱり、というニュアンスが含まれている気がした。
「ずるいと思った」
「何がしたいん。なんで俺に見せたん」
「他人には作品に見えるけど、けんちゃんにとってはただの作品じゃないと思った。やから。」
「全然わからんかったけど、紗英が自分のこと話したがらん理由はわかった。おまえ、自分に不利な情報隠したかっただけやろ」
隠し事をされたのがムカつくのか、自分の知らない紗英の姿にショックを受けているのか、わからない。俺はこんなことを言うために電話をかけたんじゃないはずなのに。
「不利ってなに。過去の嫌なことわざわざ人に聞いてほしいって思うと思う? 過去は終わったんや。全部。けんちゃんに出会ってからの私は、けんちゃんが知ってるので全部や。」
「全然全部ちゃうわ。書かれてる紗英と俺の知ってる紗英、ぜんぜんちゃう人や。こわい」
「こわないわ」
「こわい」
「こわない」
「こわい」
くそほど無駄な押し問答。
「どっちがほんまなん」心の底からの疑問だった。俺の知ってる紗英なのか、紗英が書いた紗英なのか、どこからどこまでが作り物なのか。
「どっちって……。それはけんちゃんの知ってる方でいいんちゃう」
「いいんちゃって、なんなんそれ。じゃあ、書いてあるんはなんなん」
「あんなぁ、あれは……自画像や」
「自画像? 意味わからんねんけど」
「けんちゃんはあたしのこと見て、紗英ってこういう人かなって思うやろ。それと同じようにあたしも自分のこと見て、紗英ってこういう人やんなって思って書いてるねん。どんだけリアルに書けてるかだけが自画像の良さじゃないの。わかる?」
「わからん」
「だから、見る人によってちがって見えて、それでいいってこと」
「そんなん、自分のこと正当化してるだけやん。あかん、やっぱ意味わからんわ……なんで俺に話してくれへんかったん。世界に向かって言わんでよかったやん。俺にいうてくれたらよかった。そしたら俺聞いたのに。俺を無視して、紗英は世界にいうた。ほんでなんか賞とって、バレたら気まずいから渋々俺に言うてきた。順番めちゃくちゃやろ」
「それは……悪かった」
「………ごめん」
紗英が謝る。謝ってほしいわけじゃないのに。
「けんちゃんには、文章よりも、生身の私と、コミュニケーションとってほしいと思ってる、これからも。文章は、私一人が一人ぼっちじゃなくて、どっかの誰かと人生が、思いが、繋がってると思えるツールやねん。文章があるから、世界の輪郭にちょっと触れてる気になれる」
「私の人生、私のものだけにするには、あまりにもったいない」
「気づいたことも、学んだことも、出会えたすてきな人たちも、ちぎってみんなに配りたいけど、無理やから、文章にしてんねん。文章なら遠くの人とも共有できる」
「傷付けたのは、悪かった。けんちゃんのこと無視してるつもりなかったけど、その解釈もたしかに、理解した、つもり。ごめん。でもやりたいことわかってほしい。けんちゃんが好きでこれからも一緒にいたい気持ちと、文章書くんが好きでこれからも書き続けたい気持ちと、わかってほしい」
紗英の話を聞いていても、やっぱりよくわからなかった。俺は社会と繋がりたいとは特に思わないし、自分の過去を暴露したいとも思わないし、自分の側にいる人を疎かにした紗英が反省しているようにも見えなかった。
あんな長い文を書ける作者が俺のどこを好いてくれているのかもよくわからない。
紗英の文章の価値も理解せず、また読もうとも思えないできないようなやつがこのまま付き合い続けていいものか。
「文章だけ読んで、わかった気になるやつより、こんな一緒におるのにわからへんってまっすぐ言ってくれるけんちゃんが、私は好きやねん」
紗英の瞳に俺の姿が映る。
そういえば紗英は独特な言い回しや、聞いたことのない言葉の組み合わせをよく使った。
これからはもしかしたら紗英本体より、紗英の言葉が、文章が目立つ日々が始まったりするのだろうか。
本物の紗英探しではなく、紗英の目に映る紗英の姿が見えるのなら、もう一度彼女の文章を読んでみてもいい、自分の目ではなく彼女の目から映る世界は少し見てみたいような、そんな気もした。