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知らないという、可能性

 いくつかの前のコラムで真実はどこにあるのかといった内容について書いたが、真実なのかはさておき、確かな「熱量」の源泉は人の中にあるのだろう。先日雑誌の「BRUTUS」の初代編集長・石川次郎さんをゲストに迎えたトークイベントを拝聴した。今年で創刊40周年を迎える「BRUTUS」を立ち上げた頃の話やその前段で携わっていた「POPEYE」の海外取材の話は圧巻だった。


 その当時の1970年代から80年代は、もちろんインターネットやSNSなどはなく、海外取材の前に決まっていたことは、向かう国の場所や名前くらいで、取材先は愚か、その手懸りすらない状態で飛行機に乗り込んだそうだ。現地ではクルー総出で手分けをしながら2、3日かけて滞在先近辺にある本屋や情報が集まりそうなカフェ、これは面白そうだというその他諸々の場所にある紙媒体という紙媒体をホテルに持ち帰り、それらをクルー全員で目を通しながらテーマや取材先などを決めて夜通し編集し、まとめていったそう。

 時代がなせる技だったといえば、それで終わってしまうようだけれど、そのクルーの「熱量」は計り知れない見たことのない世界への探究心や好奇心そのものだったのだろうと推察できる。




 自分の世界線では出会うことのなかったモノへの探究心、そして知り得なかったモノへの好奇心は、制御不可能な「熱量」やそれに伴う行動力を生む。そう考えると「知らない」ということは決してネガティブなことではなく、無限の可能性が秘められたポジティブなこととして捉えることも可能なのではないだろうか。

 自分もマガジンa quiet dayを創刊した時はそんな「熱量」だけでしかなかったように思える。その当時、北欧のクリエイターなど誰一人として知る訳でもなく、本やマガジンといった紙媒体の編集のことなんか知る由もなかった。物事に対して度を越した几帳面さ、物事を整理整頓したがる癖、文字がずらっと並んだ時に感じる美しさのような感覚。そういった言わば、個人の美意識の特性と「熱量」が組み合わさると、知らないことへの恐怖心なんてものは屁でもなく乗り越えてしまう。今となってはこのことの方が恐ろしいくらいだ。




 組織のマネジメントなども同じなのかもしれない。その人の能力だけを見るのではなく、どんなことを美しいと感じるか、そしてどんなことをまだ知らないのかということを上手くバランスをとりながら組み合わせていくと、計り知れない「熱量」と可能性が生まれてくる気がしている。これからの時代は、自分の「熱量」を最大限に引き出していけるか、そしてそういった機会や体験を個人としてどう創っていけるかということが大切になっていきそうだ。

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