座標感覚とメディア
一人暮らしを始めてから家で植物を育てるようになった。
実家に居た頃には、家の空間に植物があることに何も感じなかったけれど、自らが家の空間をコーディネートする側に立たされると、静的な家具類を置くだけで、生活は出来るけれど、少し息が詰まってしまう感じがする。
そこでコーヒーの木、金の生る木、そしてルバーブを育てているのだが、先週ごろから陽射しが春に近づいていくにつれ、植物たちの双葉がどんどん出てきているので、これから一層、暖かくなって大きくなってくるのが楽しみである。面白いもので、当たり前なのだがリビングの窓際で育てているこれらの植物、揃いも揃ってみんな太陽の陽射しが差し込んでくる窓を一斉に見ているのだ。そうするとどうしても葉や幹までもが片側に寄り過ぎてしまう。だから次の日には反対の面を窓側に寄せて、傾きのバランスをとっている。太陽を目標に成長している植物の自然の動きに人間が働かされている有り様だ。
*
渡り鳥も太陽をコンパスにして旅を続けているそうだ。
いのちが宿ったものには、太陽を軸にした「座標感覚」が備わっているらしいと安野光雅さんの空想工房(1979年 平凡社)に書いてあった。
今の人間はどうだろうか。外を歩いていれば太陽の位置関係や見知った建物の方向などから自分の「座標」を確認出来そうだが、自分自身で出せる最大の速度(走る速度)を超えた乗り物に乗って知らない場所に行ったり、地下鉄から地上に上がった時などは、自分がどこに位置しているのか分からなくなってしまう。
そして情報も。物理的、肉体的な移動という訳ではないが、脳内での思考の移動もこういった処理速度の限界というものがあるのではないかと思う。特に最近だとスマートフォンで流れてくるSNSなどの速報的な情報は、何が正確な情報で、何がフェイクなのかも分からず、その情報に踊らされて行動してしまったりしてしまう。
人間には「座標感覚」の時間的な限界というものがあるに違いない。
*
すぐに自分の欲求や欲望を手に入れられる時代になったからこそ、自分と向き合い本質的に何が必要で必要じゃないのかの見分けがつきにくくなってしまったのかもしれない。人が受け取ることが出来る情報量は、人が歩く速度の中で目に出来る情報量、そして面と向かって話をする時の情報量くらいで、それを超えると至る所に歪みが生まれてきてしまうのだろう。
知ってか知らずか、一人暮らしを始めて植物を育て始めた頃からテレビというものを持たなくなった。その代わりではないがラジオを好んで聞くようになった。声は感情がのるメディアなだけあって、“本当のコト”がちゃんと分かってしまう。(本音じゃないなということも直ぐに気づかれてしまうと思う。)ラジオは、自分にとって「座標感覚」を見失わないメディアなのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?