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物事を継いでいく

最新号のマガジンa quiet dayのローンチ、そしてクライアントの展示会のディレクションやカタログの制作などが重なり、リモートワークが中心とはいえ、ここ数ヶ月はとても慌ただしい生活を送っていた。Macのスクリーンと睨めっこをしている時間が長くなればなるほど、手応えのない虚しさを感じてしまうのは、デジタル時代の中での新たな課題のような気がする。


こういった状況の中、シェア出来る畑を借りて野菜を作ったり、料理に精を出す人もいるようだ。こういったことは、デジタルの空虚感に対し手触り感を追い求めることは自然の反動のようなことだと思う。かくいう自分もそんな手触り感を追い求め、以前習得した簡易金継ぎを再開した。再開のきっかけは、友人が所有していた大切な器が欠けてしまいどうにか出来ないものかと相談を受けてのことだった。岩崎龍二さんという若手作家で、国内外でご活躍されている方が作陶した器なのだが、釉薬表現がとても淡く、どこかの森の中などの自然の中に身を置いてぼんやりと浮かんでくる美しさが表現されていて、欠けた部分やひび割れてしまった部分を金継ぎで補修した時のイメージがとても鮮明に沸き、眠らせていた金継ぎ道具を引っ張り出して挑戦してみたのだった。(補修のイメージは東山魁夷の滝の絵画をモチーフに考えてみた。)


金継ぎの補修をしていていつも感じることがある。それはありふれた既製品よりも作家物の方が金継ぎをしていて心が躍るということ。なぜそう感じるのかというと、その作品を作った陶芸家たちがこだわった素材選びをし、その素材を活かした形を成形したものの方が、金継ぎをした時に美しさにより磨きがかかり、プラスアルファで価値を見出すことができるのだということを実感する。よくモノづくりをしている人が完成品を分解することでその作りを理解するし、作り手の意図を推しはかるように、金継ぎをすることでその作り手の配慮や意思を、物を使う時よりも鮮明に感じ、その感じた情景と金継ぎをどう合わせていくかという、時空を超えたコラボレーションをしているかの如く、自分のクリエイティビティのスイッチが押される感覚を強く感じるからだ。


先週の配信でも考えていた「断片を育む」での議論にも通じるのだけれど、マガジンや企画などの編集時の思考もこの金継ぎをしている時の感覚に近いのかもしれない。やっぱり企画に携わる方々それぞれ自身が何かの想いがないと、うまく編集という金継ぎがハマらないし、そういった想いを持った人同士を繋ぎ合わせること、共通する文脈を見出せた時はなんともいえない美しい感覚を感じることができる。


手触り感のあることからの学びは、より物事の本質をついているのかもしれない。

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