「美」の行方
今から100年前スペイン風邪が世界的に蔓延し、その後、世界恐慌へと進んでいってしまった。そして新型コロナウイルスが広がる今日、世の中は100年周期で回っていると思わざるを得ない状況となっている。
世界恐慌と時を同じくして1926年に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らによって提唱された生活文化運動所謂「民藝運動」が起こり無名の職人の手から生み出された日常の生活道具「民藝(民衆的工芸)」にも、美術品に負けないくらいの「美」があるということを世の中に問うことで、美意識や物事の捉え方のアップデートが行なわれた。
今は、モノが巷に溢れかえってはいるものの、数十年前よりも消費需要もイマイチ上がってこない反面、欲しい時にはAmazonなどですぐに手に入ってしまう。100年前の状況と比較するとモノの見方、捉え方、接し方に変化が起こったとしても、なんらおかしくはないだろう。
ここ数年の変化を挙げても、作り手は、作るモノへの「余白」つまり、手にした人の「感情」に寄り添えるスペースを意識してモノに接したモノづくりをしており、手にする人もそのモノによって自分の「感情」が揺らぎ、モノの佇まい、作り手の姿勢や意図などに共感して、作り手が作った「余白」に思い切り飛び込むという「感情」の「感覚」値としてのモノ、へと役割が変わりつつある。この変化をベースにした場合、作り手の「余白」と受け手の「感情」をより「感覚」的に手触り感のある形にする部分において、あえて言うなら「美」が見出されていくのだろうと考えられる。
では、「感情」がどんな場面や瞬間で動かされるのだろうか。それは一人一人が自分自身を意識的に省みる必要がどうしても出てくるだろう。これは訓練みたいなもので、しっかりと何かを選択する際に、吟味することによって自分自身と対話をする経験によって気がつくのだと思う。ある美術大学では一年生の時にただひたすら美術館を巡るということを課題に出されて自分がどう感じたかをアウトプットする機会があるそうだ。これについて当事者の生徒は面倒くさいと思っているのかもしれないけれど、インプット→感情→アウトプットをする一連の過程の中で、主観と客観を行き来するだけでなく発表するという創造性も同時に鍛えられている。
「美」には、目に見える「美」と目には見えない「美」がある。
これからの「美」は目には見えないものの中にありそうだ。
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