なりたいよりも、ありたいか。
「他人の夢に帯同するのであれば、自分自身がまず、どうありたいかということを持っていたほうがいい。」
この言葉は、ある経営者と雑談で採用・人事の話をしていた時に、僕が対話の内容を総括して“無意識”に言葉にしていた言葉だ。言葉にしているのだから意識的に言葉にしている訳なのだが、対話の中で相手が口にした言葉からインスピレーションが湧き起こり、自分の言葉を紡いでいると、自然と自分の考えの枠から少しはみ出た(潜在的には枠からはみ出すというよりは、そこに自分の枠があったのかと光が当たる感覚に近い気がする。)考えが浮かんできて、発した言葉に自分自身がハッとさせられるという摩訶不思議なことが起こる時がある。
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この言葉の真意を説明すると、ある会社の経営者の立場から考えると経営者自身の自分の意志により物事がジャッジされ運営されていくと仮定すると、社員はある程度は頼まれごとや役割として最低限行わなければならないお約束のようなことが大なり小なりあり、こなさなければならない多くあることが予想される。
ただし、そこで社員自身がどういう世界を望んでいて(ここでいう、どうありたいか)事業にコミットメントしているかによって、アウトプットとなる成果にも響いてくるし、仮にそういった個人としてどうありたいかという状態や状況を持ち合わせていないと、頼まれ仕事もだんだんと多くなり、本来ではそういう意図ではないのに、それが社員としてはやらされ仕事と思ってしまうようなことが次第に増えてきてしまうのではないだろうか。
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そんな中で、スポーツ選手の話にもなった。
スポーツ選手は球団やチームに所属し、チームとしての勝利や順位の上昇を目指し最善を尽くすだろう。そしてかたや個人としてのキャリアやタイトルなどのことも視野に入れて活動している。選手個人としての自己実現が先か、チームの勝利が先かはおいといて、二軸を常に持ちながら時に微修正を加えながら進んでいき、監督やフロント側は、チームの勝利を実現するために選手たちの良い部分を引き出すためにサポートやコミュニケーションを取っていけるとチーム状態も良いものに変化してくるのだろうと思う。
この時にやっぱり選手自身がどうありたいかという意思表示や覚悟がなかったりした場合、起用方法などにズレが生じてしまったり、相互で満足いく結果を得られなくなってしまうのではないかと思う。
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マガジン a quiet dayで今まで述べ200人ほどの北欧のクリエイターたちにインタビューをしてきたのだが、毎回話を聞いていると「自分がどうなりたい」という話をほとんど聞いたことがない。大体そこに共通していることとすると「自分が常にどうありたいか」ということを考えている人たちが非常に多い。以前にもこのコラムで書いたように、他人と協力するのがとても上手いのもプロジェクトやコラボレーションの目標と個人の目標をちゃんと切り離して考えられているので、よりチームに貢献しようという姿勢が自分自身でも腹落ちして取り組めるのだろう。
さて、あなたは(わたしは)、どうありたいのだろうか。
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