見出し画像

「好きなことで生きていく」のメタ構造に気づく

「好きなことで生きていく」という言葉は、現代社会で非常に共感を呼びやすいフレーズとして定着しています。特にYouTubeやSNSでは、好きなことを仕事にし、自由なライフスタイルを送っているように見える成功者たちが多く取り上げられ、憧れの対象となっています。しかし、この概念に対する議論は、表面的なところで止まっていることが多く、その本質が見失われているのではないかと感じます。

一般的な議論と反論

一般的な議論では、しばしば「好きなことで生きていく」という考えに対する反論として、「現実的には生計を立てるための仕事をしなければならない」「好きなことだけでは生きていけない」といったものがあります。確かに、生活を成り立たせるためには安定した収入が必要であり、それが「好きなこと」だけで実現できる人は限られています。このため、実際には妥協を強いられ、好きなことは趣味として楽しみつつも、生活のための仕事は別に持つ、というスタンスを取る人が多いです。

しかし、この反論は「好きなことで生きていく」という概念を表層的に捉えすぎているのではないでしょうか。ここで重要なのは、「そもそも『好き』とは何か?」という問いです。

好きの哲学的定義

「好き」とは、自己の内的欲求が対象を通じて満たされ、身体的な快楽と認識的な意味づけを通じて、自己の存在と価値を肯定する行為です。
この定義は、以下の三つの要素の統合によって成り立ちます。

  1. 内的欲求の反映:
    「好き」は、まず内面にある欲求や必要が外部の対象に投影されることから始まります。この内的欲求は、生理的なものから精神的・知的なものまで多岐に渡り、身体的な快楽や心地よさは、その充足の第一歩となります。

  2. 快楽と認識の相互作用:
    快楽は単なる身体的な反応ではなく、認識的なプロセスとも深く関わっています。私たちは「好きな対象」に対して意味づけや価値判断を行い、それが自己にとってどれほど重要で有意義かを認識します。快楽的な体験は、私たちの価値体系の中で位置づけられ、持続的な感情へと進化していきます。

  3. 自己の拡張と肯定:
    「好き」という感情が最終的に形成されるのは、その対象が単なる快楽を超えて、自己の存在や価値の一部として取り込まれるときです。好きな対象は自己の一部として感じられ、それによって自己が肯定され、拡張されるプロセスが生じます。「好き」は単なる感覚的な喜びではなく、自己のアイデンティティや存在意義を支える要素として機能するのです。

つまり、「好き」とは「身体的な快楽」と「認識的な価値判断」が相互に作用し合い、自己の欲求を満たしながら、対象を通じて自己の存在を肯定する統合されたプロセスです。内的欲求を外的対象を通じて満たし、自己を肯定・拡張する一つの統一された現象と言えるでしょう。

「生きたい」という根源的欲求

この「内的欲求」の根源をさらに探ると、「生きたい」「存続したい」という、すべての生命体に共通する根本的な欲求に行き着きます。私たちは、過去の環境や遺伝情報の中で、生存に有利な選択肢を学習し、それを「習慣」や「好み」として強化してきました。「生きるために有利だ」と学習されたものは、私たちの内的欲求と統合され、無意識のうちに「好き」という感情に繋がります。つまり、「好き」とは、根源的には「生きたい」という欲求を肯定する行為であり、その対象が自分の生存や発展に寄与するものだと認識している証なのです。

「好きなことで生きていく」の本質

本質的な意味での「好きなことで生きていく」とは、単に楽しいことや趣味を職業にすることではなく、自分の内面と深く向き合い、真に満たされるもの、つまり自分の「生きたい」という欲求を肯定するものを探求し、それを軸にした生き方をすることを指しているはずです。表面的な「好き」という感情に基づいた選択は、自分の経験や環境に左右されることが多く、真の欲求を反映していない可能性があります。幼少期からの繰り返しや親や周囲からの期待によって「好き」と感じているだけであり、真に自分が心から求めているものかどうかを問い直すことが重要です。その「好き」が実は自己欺瞞によって形作られたものだと気づかないまま進むと、本質的には満たされない生き方を続けることになりかねません。

「好き」と「生きる」の葛藤

一方で、「好きなことで生きていくことは不可能だ」と言う人々の意見も根強く存在します。確かに、好きなことを見つけ、それを仕事に変えて生活を成り立たせるには、大きな努力やリスクが伴います。そして、現実的には生活のために「好きではない仕事」をしなければならない人もいるでしょう。しかし、だからといって「好きなことで生きていく」ことを諦め、好きなことは趣味の範囲に留め、生活のための仕事とは割り切るべきではありません。そのような考え方は、まさに「好き」の本質を見誤っています。なぜなら、「好き」とは、先に述べたように「生きたい」という内的欲求の肯定だからです。「好きなことで生きていく」とは、つまり「好き」を通して「生きたい」という欲求を肯定し続けること、言い換えれば「好き」を「生きたい」と一致させていくプロセスなのです。ですから、たとえ現状で生活のために「好きではない仕事」に従事していたとしても、「好きなことで生きていく」ことを模索し続けるべきなのです。

「好き」のアップデート

確かに、目先の「好き」に飛びついて、深く考えずにそれで生きていくという考え方は安直であり、それは自己欺瞞に陥る危険性があります。「好き」という感情は不変ではなく、常に変化し、アップデートされるものです。だからこそ、私たちは常に自己と向き合い、「本当に自分が求めている『好き』とは何か?」を問い続けなければならないのです。

また、人生の中で本当に「好きなこと」に出会えるかどうかも定かではありません。多くの人が、何が好きかを見極める前に、その過程で自分の可能性を閉じてしまうことがあります。しかし、重要なのは、「好きなこと」に出会うまでのプロセスそのものに価値があるという点です。多様な経験を通じて自分の本質的な欲求に近づき、視野を広げながら新たな「好き」を発見していくことこそが、真の意味での「好きなことで生きていく」への道ではないでしょうか。

好きなことがないならなくていい

ここまで、「好き」を見つけるための様々な方法を提案してきました。しかし、それでも「好きなことがない」と悩む人もいるかもしれません。そんな人に向けて、最後に伝えたいことがあります。

それは、「好きなことがないならなくていい」ということです。

現代社会では、「好きなことを見つけなさい」「情熱を傾けられるものを見つけなさい」といったメッセージが溢れています。しかし、すべての人が明確な「好き」や情熱を持つわけではありません。「好きなことがない」と悩むこと自体が、自分を苦しめる原因になります。無理に「好き」を探そうとせず、今の自分の状態を受け入れてみましょう。「好きなことがない」という状態は、決してネガティブなものではありません。むしろ、それは自由で柔軟な状態であり、様々な可能性を秘めていると言えるでしょう。

「好き」がない、と悩むあなたも、何か「気持ちいいこと」はあるはずです。美味しいものを食べる、温かいお風呂に入る、柔らかな布団にくるまる、好きな音楽を聴く、美しい景色を見る……。「好き」とは違うかもしれませんが、純粋に「気持ちいい」と感じること、心地良いと感じることはきっとあるはずです。まずはそれらを、それこそ自己欺瞞なく肯定して、素直に楽しんでみましょう。

そして、その「気持ちいい」という感覚を起点に、新しい経験に挑戦してみるのも良いでしょう。今までやったことのない料理に挑戦してみる、行ったことのない場所へ訪れてみる、新しいジャンルの音楽を聴いてみる……。その中で、新たな「気持ちいい」を発見し、自分の感覚をアップデートしていく。過去の好きなことや、社会的に「良い」とされていること、他の人が「好き」だと言っていることに無理に合わせようとする必要はありません。あなた自身の「気持ちいい」を大切にすることが、結果的にあなただけの「好き」に繋がっていくはずです。

「好き」という感情は、時として重荷になることもあります。好きなことに縛られてしまうと、視野が狭くなり、他の可能性を見逃してしまうかもしれません。「好きなことがない」という状態は、特定の何かに囚われず、自由に様々なことに挑戦できるチャンスです。もしかしたら、あなたにとっての「好き」は、まだ見ぬ「気持ちいい」の先に隠れているのかもしれません。

「好きなこと」を探すことよりも、まずは目の前の「気持ちいい」を大切に、現実を丁寧に生きることが、結果的に自分らしい「好き」に繋がっていくのではないでしょうか。焦らず、自分自身を大切にし、ありのままの自分を受け入れることが、真の幸せに繋がる第一歩です。

いいなと思ったら応援しよう!