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【オイサラバエル】と光の美学



前書き

果たして「美しい」とはどういうことなのでしょうか。単純に感覚的な快感を与えてくれるとも、絶対的な基準があるとも言い切るには無理がある気がします。すぐに答えが出るような問いではありませんし、正直なところ、内的に整合性を持つ答えを出すことができるかどうかさえよく分からない部類の問いであると認めざるを得ません。
本稿では、【オイサラバエル】の内容について考えてみることで、皆さんご存じの樋口円香さんが、如何にしてこの問いに答えを出そうと葛藤しているかを見ていきたいと思います。結果的には、これを通じて樋口円香という人物についてより詳しく分かることを期待しています。

注)引用されている文章の太字は全て原文に傍点が付いていることを表しますが、引用文ではない部分においては筆者によるものです。

<老いさらばえる>ということ

出発点として、言葉の意味に触れたいと思います。関係のある4つの言葉を調べた結果を下にまとめてみました。

おい さらば・えるーさらばへる【老いさらばえる】
年老いてやせ衰える。「すっかり―・えて昔の面影もない」

おい さらぼ・うーさらぼふ【老いさらぼふ】
おいさらばえるに同じ。「いかに―・ひて有るにや、将(はた)死にけるにや/奥の細道」

さらぼ・う
〔「曝(さ)る」と同源〕
①雨風にさらされて骨ばかりになる。さらばう。
「これ旧きほね―・ひなどしたるにや侍らむ/小右記」
②やせおとろえる。さらばう。
「物清げに―・ひて賤しからず/浜松中納言物語三」

曝る
一(動ラ四) 
長い間、雨風や日光に当たり、色があせたり朽ちたりする。
「身を投げ、骨を―・りて/日本霊異記下訓注」

大辞林第4版

これらを踏まえて考えてみると、「おいさらばえる」という語の意味は、現在と過去を対比させることで成り立っていて、劣化の結果を見ている者からの詠嘆のニュアンスを含めていることが分かります。そして、第2話のタイトル(「廃墟、エントロピー」)の意味もよりしっくりくるようになります。

撮影監督)
たとえばここにペンを捨てたら、
そのうち雨風でぼろぼになるでしょう
当たり前のことですが
時間は、人が作ったものを壊すようにしかできていない

『廃墟、エントロピー』から

円香たちが撮影を行っている場所は、もう廃墟になってしまっている美術館です。この廃墟は、時間が流れるにつれて朽ちてぼろぼろになってしまった建物であり、そのようにできている自然の法則を具現化しているような場所でもあります。逆らえない時間の流れによって、整っていたものがだんだん無秩序になる、という意味で、自然の法則をエントロピー=無秩序度(増加の法則)に譬えているといえるでしょう(科学的に望ましくない使い方ではありますが)。以上から、私は【オイサラバエル】を理解するにあたっては「時」という概念が非常に重要な手がかりになると思いました。

『序』 欠損の修復と美的観念

では、第1話『序』のプロデューサーと円香の会話から、本格的な議論を始めていきたいと思います。最初に二人は、かの有名なミロのヴィーナスについて話し合っています。

円香「あるがままではなく」
P「ああ
 そこに無いものを見ようとしてしまうー
 欠けた部分まで見ようとしてしまうから
 完璧になる」
(スタッフの呼び声)
P「ーということらしいよ」
円香「ふうん」
P「もちろん、円香が言ったように、
 黄金比で構成されていることもあるけれど
 この彫刻の魅力は、
 多分、目に見える部分だけじゃない
円香「……
   目に見えない部分があるせいで、
   完璧になると」
P「そうだ
 ひとりひとりの心の中で」
円香「皮肉ですね
   欠けたことによって完璧と言われるなんて」
P「いや、逆に
 完璧なものは目には見えないのかもしれない」
円香「言葉遊び」

『序』から


ミロのヴィーナス
Livioandronico2013, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

ミロのヴィーナスは、両腕をなくしたまま発見された彫刻です。残っている胴体と顔が美しいのは事実ですが、この彫刻を有名にしたのは「両腕が欠損している」という点であることも否めません。欠損というのはある物の一部がなくなっていることを指しますが、よく考えてみる必要があります。「昔はあった部分が今はなくなっている」と捉えるか、もしくは「本来あるべき部分が欠けている」と捉えるかで、物の見方が根本的に変わってくるからです。
プロデューサーの方は後者に当たる気がします。欠損している姿を現在の形そのものとして認めているというよりは、理想的な形を想定・想像していて、それに沿って欠損した部分を観念的に補う過程で、美しさを感じることができると言っているからです。しかし円香の方はそうは考えていないようです。続きを読んでいきましょう。   

円香「言葉遊び」
P「はは、そうだな
 言葉遊びだ」
円香「……
   つまり、こういうこと?
   人気の絶頂で引退した、
   アイドル、俳優、ミュージシャン
   そういう人ほど名が残る」
P「ああ……」
円香「もちろん、それだけのことをしたからだと思いますが」
P「なるほどな
 記憶の中では、
 いつまでも活躍していた頃のまま」
円香「もしくは、活躍していた頃よりも美化されて」
P「目に見えないからこそ
 完璧になるのか
 永遠に、そうエターナルに―――」
円香「…………………」

『序』から

ここでのプロデューサーの言い方は、プラトンの哲学を思い出させます。ざっくり言うと、美しさは目に見える感覚的な対象とは関係なく、むしろ目では見ることのできないイデアとして、絶対的で永遠に存在しているということです。言い換えれば、美の基準としての理想がすでに存在しているため、対象からそれに沿った美しさを抽出するともいえます。そして、目に見えない部分のある「ミロのヴィーナス」について語り合うことで、彼はこのような観点を示しています。
欠けているものをそのまま認めて美について語るのではなく、永遠なー無時間的なー美のイデアを以て(知的な方法で)抽象的に修復することこそ美的な快感の源であると主張しているといえるでしょう。ここで形は、絶対的な美を具現するための器にすぎません。(間違いを恐れずに言えば、無いことで絶対美の構築を可能にする、邪魔な物にもなっているような気もします)
この次のどの選択肢を選んでも結局は「美しいものの話」をすることになります。円香が考える「美」とは、プロデューサーの考えている「美」とは異なるものだということが、彼女の反応からよく分かります。その「美」とは、一体どのようなものなのでしょうか。

『廃墟、エントロピー』  <かつてあった>もの

撮影のために廃墟に足を踏み入れた円香は、その中を歩くことで廃墟の過去の姿を想像します。

P「あんまりうろうろすると
 床が抜けるかもしれないぞ」
円香「そうしたら落ちる前に掴んでくれるんですよね?」
P「でも振り払うんだろう?」
円香「よくおわかりで」
P「だから注意しているんだ」
選択肢「……すぐ戻る/待っててくれ/奥には行くなよ」

『廃墟、エントロピー』から

P「……すぐ戻る」
円香「ごゆっくりどうぞ」
P「いいから、歩き回らないでくれよ」
円香「……」
   …………
   ……――――
  (以下独白、水の音を背景にして、響きあり)
「この場所のことなど
 何も知らないのに
 かつては賑やかな声
 ひとびとの希望が溢れていたのだろう
 未来が輝いていたのだろうと
 勝手な想像をする
 そういう自分が
 疎ましい

『廃墟、エントロピー』から

雨風に曝されて廃墟になってしまった建物のみすぼらしい姿は、逆説的にそれが過去にはそうでなかったということを示唆します。しかし、このように考える自分自身を、円香は「疎ましい」と感じて嫌がります。他の選択肢に続く独白も読んでいきましょう。

P「奥には行くなよ」
円香「生きません」
P「よし」
円香「……   
   …………   
   ……――――」
  (以下独白、水の音を背景にして、響きあり)
「目を閉じて
 この建物の始まりを見る
 終わるために始まったわけじゃない
 それでも
 ―――……(終わる)
 私は未来を知っている」

『廃墟、エントロピー』から

P「待っててくれ」
円香「……
   生きませんよ、どこにも
P「ああ
 すぐに持ってくるから」
円香「……   
   …………   
   ……―――」
  (以下独白、水の音を背景にして、響きあり)
「この廃墟を好ましいとは思えない
 けど
 今はないということは
 かつて、あったということ
 かつて、あって、今ななくなってしまったものは
 どれほど」

『廃墟、エントロピー』から

ここで私は、ロラン・バルトの著作『明るい部屋』の一節を思い出しました。

われわれはとかく「現実のものに、絶対的にすぐれた、いわば永遠の価値を与えてしまうのだ。しかしまた写真は、その現実のものを過去へ押しやる(《それはかつてあった》)ことによって、それがすでに死んでしまっているということを暗示する。

ロラン・バルト(1980)花輪光訳(1987)『明るい部屋』新装版(1997)97頁

「絶対的にすぐれた、いわば永遠の価値を与えてしまう」のは、『序』でプロデューサーが示した観点です。それに対して、円香は廃墟の中にいながらその過去の姿を想像し、まさに「かつてあった」ものを追体験しています。そして、それが廃墟になってしまう=おいさらばえてしまう未来を分かっていることに気付きます。ミロのヴィーナスと同じく廃墟は何かが欠けている、欠損した物として提示されていますが、完璧な状態と比較して建物の古さや壊れ具合などを気にしているわけではなく、過去にはあった要素が時間の経過とともになくなったことに焦点がおかれています。
これは単なる想像の結果ではありません。「かつて、あって、今はなくなってしまった」部分が欠けている場所の中に身を置く経験によって、過去と現実という時間的な秩序が崩壊するという大事件であり、言い換えれば時空の論理的な整合性がなくなってしまうことでもあります。
上に引用した『明るい部屋』では写真を眺めながら<かつてあった→今はない>と悟るのですが、「廃墟、エントロピー」では<今はない→かつてあった>という風に、流れが逆になっているところにも注目していただきたいです。円香は写真を眺めているわけではありませんが、被写体になるために廃墟に来ていて、「廃墟、エントロピー」での会話は初めての撮影を終えた後のものです。写真に写っている自分自身はいつか老いるー死ぬはずであり、背景の廃墟と同じように<今はない>と形容できる対象になることが確定しています。自然に、被写体になるということは<かつてあった>ものになると気付けるのです。写真を撮られる=被写体になる経験について、バルトは下のように語っています。

実際、その瞬間には、私はもはや主体でも客体でもなく、むしろ、自分が客体になりつつあることを感じている主体である。その瞬間、私は小さな死(括弧入れ)を経験し、本当に幽霊となるのだ。「写真家」はそのことをよく知っているので、彼自身(たとえ商業的な理由からであるにしても)、自分の手で私を死んだ状態のまま永久保存するようなことになるのを恐れる。

バルト、上の本、23頁

ですから、「そういう自分が/疎ましい」と思うことも何らおかしいことではありません。生き物なら死を連想してそれについて考えることを不気味に感じることは当たり前だからです。皮肉なことに、生について考えようとすればするほど、死についても考えざるを得なくなります。

演劇と「死者信仰」とは、その起源において関係していることが知られている。原初の役者たちは、「死者」の役割を演じるときに、共同体から身をとおざけたのだ。【中略】どんなに生き生きとしたものとして考えようと努めても、「写真」は原始劇のように、「活人画のように、不動であり化粧をされた顔面の形象化なのであって、われわれはその下に死者たちを見る。

バルト、上の本、45頁

写真に写った自分自身を「どんなに生き生きとしたものとして考えようと努めても」そこから死の未来を見出すことをやめられなかったのではないでしょうか。そして、<かつてあって今なない>という性質が含意している「死」のテーマはドライフラワーを題材として変奏されます。

『ドライフラワー』 色彩と死

撮影が終わったあと、円香たちはドライフラワーのカフェに場所を変えインタビューを受けることになります。

円香「――――そうですね……
   本格的に育てたことはありませんが
   毎日、水を換えたり、日に当てたり
   それでもしおれてしまうこともあって
   ……そうなんです。長生きしてほしいと思っても……
   生き物って難しいですよね
   いままで、花って枯れてしまったら
   終わりだと思っていたんです
   というか、枯れてしまうから、
   咲いている時が余計に大切に思えるというか
   だからこのお店のドライフラワーを見て、
   驚いたんです
   花の色がちゃんと残っていて
   あ、茶色じゃない
   うちで枯らしてしまったものとは違うって」
(店員がプロデューサーにアイスコーヒーを持ってくる)
円香「(笑)……すみません
   でも、本当にイメージが変わったというか
   こうやって生かすこともできるんだって」
(以下、プロデューサーの回想)
P「『風通しの良い』
  『日が当たらない場所に吊るします』
  『そのまましばらく置けば完成です』……だそうだ」
円香「ふうん……」
P「このカフェに飾っているドライフラワーは、
 シリカゲルを使ったりもしているそうだけど」
円香「冊子、私にも見せてもらえますか
   (紙の音)…………
   『コツは』
   『蕾は避けること』
   『しっかり水を与えること』
   『そうしてもっとも鮮やかな瞬間(とき)に』
   (画面の転換:真っ黒になる)『吊るすこと』」

『ドライフラワー』から

花に対する認識の転換は「驚き」という感情を触発しました。<枯れて死んでいるだけの花>と<ドライフラワー>は全くの別物だったのです。ドライフラワーは、たしかに死んでいるはずなのに、生きている時のもっとも鮮やかな色をある程度保っています。これによって「かつて生きていた」という過去と「でも今は死んでいる」という2つの事実を、ドライフラワーを見ている観察の時点で同時に読み取ることが可能になります。以下をご覧ください。

しかしプンクトゥムはと言えば、それは、彼が死のうとしている、ということである。私はこの写真から、それはそうなるだろういという未来と、それはかつてあったという過去を同時に読み取る。私は死が設けられている過去となった未来を恐怖をこめて見守る。この写真は、ポースの絶対的な過去(不定過去/ルビ:アオリスト)を示すことによって、未来の死を私に告げているのだ。私の心を刺すのは、この過去と未来の等価関係の発見である。少女だった母の写真を見て、私はこう思う。母はこれから死のうとしている、と。私はウィニコットの精神病者のように、すでに起こってしまった破局に戦慄する。被写体がすでに死んでいてもいなくても、写真はすべてそうした破局を示すものなのである

バルト、上の本、119頁

そして、生を実感すると同時に、滅びゆくもの、または死についても思いをはせることを避けられないのである。写真において、生と死は裏表一体をなしているのだ。この作用が「それはかつてあった」という驚きの本質であるということは、次の一文からもうかがえる。

この新たな「プンクトゥム」、もはやかたちを持たず、強度によるもの、それは「時間」であり、「それはかつてあった」というノエマの悲痛な誇張、純粋な表象なのである。

滝沢明子、『ロラン・バルト『明るい部屋』考察―写真の時間と「狂気」』197頁

写真ではないのですが、生きていた頃の瞬間を捉えてそのまま物理的に保存するという点では、大した差はないように思われます。そしてこの驚きと気づきから円香は、『吊るすこと』に注目します。文字通り「ぶら下げる」という意味でもありますが、人を首吊りにして死に至らせる絞首刑を連想させる言葉遣いです。敢えて言いますが、刑執行直後の罪人の姿を想像してみてください。このように、まだ生き生きとしているドライフラワーを眺めながら、それが示している死の未来を同時に考えているのではないでしょうか。
そしてこれに続くのがカードイラストの演出となりますが、その中にはこういうシーンがあります。

生きている花だったのが一瞬で打って変わって全部ドライフラワーになります。円香は手前に見える花瓶に入っている一束の中から一本だけを手にとってポーズを取ります。これが皆さんご存じの【オイサラバエル】のイラストになります。(円香の写真だと仮定しても無理はないと思われます)

被写体になることで、彼女は手に持っているドライフラワーと同じものになってしまいました。生き生きとしている若い頃の写真は、一見美しく見えますが、逆説的に、結局は彼女自身も老いて衰えて死ぬことの証明にすぎません。つまり、被写体になるということは自分自身が、アイドルとしてであれ人間としてであれ、いつかは老いさらばえてしまうという事実を必然的に含意すると言えます。

P「――すごいもんだな
ドライフラワーってこんなに綺麗なのか
なあ、円香」
円香「…………
   ――――綺麗?
   本当に?」

『ドライフラワー』から

ですから、ドライフラワーを綺麗だと思えるわけがありません。(「綺麗?本当に?」という聞き返し方に注目してください)そしてここで、第1話『序』の内容を思い出してみましょう。プロデューサーはドライフラワーのから保存された永遠の美しさを感じていて、円香は時間の流れと避けられない<死=終わり>を感じているのではないでしょうか。さすれば、円香にとってドライフラワーは綺麗ではないものであり、その色はそれを美しいと感じさせるどころか、<おいさらばえる>ことについて考えさせる主な要素になります。

(前略)それとまったく同様に、写真の色彩はすべて、「白黒写真」の原始的な真実にあとから塗られた塗料である、という印象を私はつねにいだく(実際そうであるかどうかは大した問題ではない)。「色彩」は、私にとっては、かつらである、化粧である(たとえば遺体にほどこされる死化粧である)。というのも、私にとって重要なのは、写真の《生彩=生命》(という、まぎれもなくイデオロギー的な観念)ではないからである。

バルト、上の本、101頁

形にも、色にも、美しさを見ることはできません。これらのものは、時間の流れと衰退、つまり円香自身を含めた色んな存在が<おいさらばえる>運命に縛られていることを証明するものでしかありません。だとしたら、美しさとは、美しいものとは一体どこにあるのでしょう。そして何を指してどのように美しいと言えばいいのでしょう。
上の引用文に続く一文でヒントを得られるのではないかと思います。

私にとって重要なのは、撮影された肉体が、付け足しの光によってではなく、その本来の光線によって私に触れにやって来る、という確実な事実なのである。

バルト、上の本、101頁

色彩が死と同義に近いと思うようになって時点で、美を考えるにあたっての一般的な概念を放棄すると言っていいでしょう。表面的な見方(形と理想像)でも、象徴的な見方(色彩=生命のように、文化的なコードを読み込んだもの)でもなければ、残るのは「私自身」の、円香にしか感じられない美的な印象だけです。それを表せる物理的な証拠が、「光」です。

『ノンフィニート』 美の在り処

ノンフィニート(non-finito)とは、「完成していない」という意味のイタリア語だそうです。ネットの記事ではありますが、参考文献が充実しているものを持ってきました(和訳は筆者によるものです)。

Medieval works always remained unfinished for external reasons, but by the time of Leonardo, and perhaps as early as Donatello, apparently the artist leaves works unfinished due to his own internal stresses; his hand cannot fully express his intellect or his creative idea.

中世の作品はいつも外的な要因によって未完成のまま残されるが、レオナルドの時代には、そしておそらくドナテッロの時代にはすでに、芸術家は明らかに彼自身の内的なストレスにより作品を未完成のままに残している。なぜなら、彼の手がその知性や創造的なアイデアを十分に表現できなかったためである。

Angier, Jeremy (7 May 2001). "The Process of Artistic Creation in Terms of the Non-finito."
New York Academy of Art. (Paragraph 10)
Retrieved 17 April 2024

This method leads to an impasse, a state of artistic tension whereby the idealized conception can by definition never come to realization. The hand cannot execute what the intellect conceives. By admitting this state, by leaving works unfinished and half-submerged, the creative tension inherent in the process reaches a sort of breaking point.

このような方法は、行き止まり、すなわち理想化された概念がその定義からして決して具現化され得ないという芸術的な緊張状態に繋がる。芸術家の手は知性が思い描くことを実行できないのである。この状態を認めることで、そして作品を未完性のまま、半分沈められたまま残すことで、その過程に内在された創造的な緊張は一種の突破口に到達する。

Angier, Jeremy. Ibid., (Paragraph 12)
Retrieved 17 April 2024

つまり、作りかけの芸術品(特に絵画や彫刻)と美しさに関するものだということが分かります。美の在り処と発現についての概念だと言ってもいい気がします。プロデューサーと円香の会話を読んで、その中から言葉を借りて続けていくことにしましょう。

P「はは、この前は驚いたもんな
 だからちゃんと確認しておいたんだ
円香「…………
  (独白)聞いてないけど」
P「でも、廃業した美術館にリゾートホテル……
 普通はいかない場所ばかりで面白かったな」
円香「監督の趣味ですかね」
P「そうだと思う
 ……連載、終わっちゃうのが残念だな」
円香「(独白)ねぇ
   あなたの言葉は
   一体、どこまで本当なの」
円香「別に、最初から連載回数は決まっていましたので」
P「はは、まあそうなんだけど
 毎回、ちょっとした旅みたいでさ
 空き時間に円香とくだらない話をするのも楽しかったんだ」
円香「……」
P「ほら、ミロのヴィーナスとか」
円香「(独白)あなたは
   欠けた部分に完璧を見るの?」
円香「……ふうん
   じゃ、この仕事が終わったら
   あなたのくだらない話はなくなるんですね」
P「え
 そう来たか……」
円香「(独白)ねぇ
   あなたは、おそらく」
円香「まあ
   どうせするんでしょ
   この仕事が終わったあとも
   くだらない話」
P「はは……
 そうか、円香も楽しんでくれていたならよかった」
円香「そうは言ってない」
P「言ってないな」
円香「(独白)あなたは欠けたものを
   そのまま愛する人では
   過去ではなく今を見る人では
P「ああ、ドライフラワーのカフェには
 もう一度行かないとな
 円香をイメージしたブーケ……というかスワッグが、
 直接受け取りたいって言ってただろう」
円香「(独白)枯れた花を、
   枯れたまま美しいと思う人では
   私とは違って」
円香「そうですね
  せっかくのお申し出をいただいたので、できれば」
P「問題ないよ
 あそこは近場だしな」
円香「知らないけど」
P「――よし、ここが今日泊まるホテルだ
 長時間、お疲れ様」
P「足元に気を付けて」
円香「……監督や、スタッフの皆さんは?」
P「もうついているかもしれないな
 チェックインしたら確認してみよう」
選択肢「荷物、持つよ/もう日が暮れるな/……あ、待ってくれ」

「ノンフィニート」から

円香の独白を読む限り、彼女は<欠けた部分に完璧を見る><欠けた部分をそのまま愛する><枯れたものを枯れたまま美しいと思う>という3つの観点を同じ属性として分類していることが分かります。厳密には違いますが、これはノンフィニートという技法(状態)の歴史的な発露にも似通っているところがあります。詳しく言えば、創り手は自身のうちの理想を作品にすることに限界を感じて作品を放棄し、それを見る鑑賞者は、それが未完成だからこそ、現実の形に邪魔されることなく理想的な姿を思い描くことができるということです。ですから、欠けた部分に完璧を見出すことができて、そのままでも愛し、枯れたもの(おそらくドライフラワーのことでしょう)を美しいと思うことができるのです。そして円香の場合はその逆だと言えるでしょう。

P「荷物、持つよ
 今日は結構重いだろう」
円香「大丈夫です
   自分で持ちます」
(画面の転換:黒/以下独白)
   日は沈む
   花は枯れる
   極まったものは衰える
   完璧なものは、完璧だから
   完璧ではない
   なら、不完全なものは」
P「まあいいじゃないか
 持たせてくれ
 何を隠そう……!
 俺は重たい荷物を持つのが好きなんだ」
円香「はあ……?」
(画面の転換:黒/以下独白)
  「――あなたも心をさらけ出しているようで
  本当のところが、私には見えない」

『ノンフィニート』から

完璧なものは、現実において欠けていない形をしているため、理想を考える余地を残していません。だから完璧ではありません。だからといって不完全なもの(ノンフィニート)も完璧で美しいとも思えないのでしょう。

P「もう日が暮れるな
 一日、移動で終わったが……
 暗くなる前には到着できてよかった
 明日の撮影に備えて、
 少しはゆっくりできそうだ
円香「はい」
(画面の転換:黒/以下独白)
  「目に見えるものは、極まったところで落ちていく
  だから
  どこまでも見えないものこそが
  きっと」

『ノンフィニート』から

P「……あ、待ってくれ」
 何か、スマホに通知が――
 ……ああ!」
円香「……」
P「ドライフラワーのカフェからメールだ
 作ってくれていたスワッグができたそうだよ
 添付写真付きだ
 ほら」
円香「……ああ」
(画面の転換:黒/以下独白)
  「枯れたものは枯れたもの
  それを美しいとは私は言えない
  ただ、形がないものなら
  時間にとらわれることがない
  だから結局、
  美しいものは

『ノンフィニート』から

「時間にとらわれることはない」ということは、必ずしも永遠で無時間的だということを意味するわけではありません。一般的な時間の法則に従わない ものであれば良いのです。そしてそれが「光」です。上に引用した箇所をもう一度引用しておきます。

私にとって重要なのは、撮影された肉体が、付け足しの光によってではなく、その本来の光線によって私に触れにやって来る、という確実な事実なのである。

バルト、上の本、101頁

普段私たちは、対象が反射した光を認識します。ざっくり言って、写真は網膜の代わりにその光を受け取って記録した物だから、写真を眺めるということはその光が時間の壁を超えて私の目に入るのと同じである、とバルトは主張したいのでしょう。そして写真に興味を持たせたり、時には美しいと感じさせたりするのも他ではなくこの「光」です。完璧な形でも、何かが欠けている形からで想像できる理想でも、形に備わっている形のない性質ー色でもありません。たしかにそこにあるけど目には見えず形を持たない光、美は光の中にある、光は美の表象である、そう主張することしかできないのです。

『美しいもの』 美の語り方

True Endでは、「光」による美の経験について補足しています。

円香「(独白)朝が来る
   花が開く
   土が湿る
   透き通る」
(店員とのやりとり)
円香「(独白)不完全なものは、不完全だから
   不完全ではなくて」
P「貸してくれ、持つよ」
円香「駐車場まですぐそこですので
   軽いし」
P「そうか……
 じゃあ、俺にも少しだけ、もらった花を見せてもらえないかな」
円香「……持ちたいんじゃなくて、
   見たかったんですか?
   最初からそう言ってください」
円香「(独白)形ではなく、その奥を見る」
P「円香をイメージして作ってくれたんだよな
 わかる気がする、円香を感じるよ」
円香「……その言い方は
   さすがに怖気が」
P「えっ??
  あ、ああすまん……!?
  いや、花の種類とか見た目とかで
  そう感じたわけじゃなくて
  (画面の転換:黒)なんというか………………
円香「…………」
P「この花が持つ魂というか――――」
円香「…………」
P「うん、やっぱり
 目を閉じた方が、
 この花が見える気がする」
 (画面の転換:白)
円香「(独白)透明、なのかもしれない
   美しいものは」
 (画面の転換:ビル)
円香「……
   なんでもいいですけど
   ガードレール
   目の前」
P「ん、おっと……!
 まあ、俺の感想はともかく
 いいものをもらったな」
円香「はい
   …………………」
円香「(独白)朝が来る
   水が滴る
   酸素が満ちる
   透き通る
   透き通る
   透
   き
   と お」

『美しいもの』から

面白いことに、プロデューサーは「目を閉じた方が、この花が見える気がする」と言っているのですが、彼は未だに現実界にない理想(誤用を恐れずにいえば、イデア)を求めていることが分かります。円香をイメージした花は、円香と違うからこそ彼の中の円香のイメージに呼びかけるのですから、いっそのこと目を閉じた方が見える気がするのは当たり前のことです。これに対して、円香は気にいらない様子で、彼の目の前にガードレールがあると注意します。目を覚ますことー現実の物に目を向けることを要求しているといってもいいでしょう。
完璧なものが、完璧だからこそ完璧ではなかったのと同じく、不完全なものは、不完全だからこそ不完全ではありません。写真を、ドライフラワーを、美しさを、ありのままの形で愛することを放棄するということは、不完全を完全の欠損として見るのをやめることであり、一般的な美意識を放棄することでもあります。よって、不完全は完全の対義語として成り立つのではなくなり、形という意味のシステムに亀裂を作ることで奥=純粋美を覗くことを可能にしてくれます。
これは、対象のうちに秘められている本質を引き出すようなことではありません。ある時間と空間の中の、自らの経験、理解や共感からはかけ離れている経験こそが美しさの表象となり得るものです。「透明、なのかもしれない/美しいものは」と考えた円香が「美しいもの」について語る時にも、その「美しいもの」はバラバラになったまま体系の中で意味を成しているのではなく、周りの諸事象とともに位置しています。

朝が来る、花が開く、土が湿る、透き通る
水が滴る、酸素が満ちる、透き通る

『美しいもの』中、円香の独白から

意識と記憶の彼方からやってくる透き通った光、これを求めて彼女の旅は続いていくのです。

参考

ー【オイサラバエル】樋口円香 pSSR
ー滝沢明子『ロラン・バルト『明るい部屋』考察―写真の時間と「狂気」』(青弓社編集部 編『『明るい部屋』の秘密 ロラン・バルトと写真の彼方へ』第5章から、pp. 184-211)
ー大辞林第4版「おいさらばえる」「おいさらぼう」「さらぼう」「曝る」
ー千葉文夫『光の記憶』(青弓社編集部 編『『明るい部屋』の秘密 ロラン・バルトと写真の彼方へ』第2章から、pp. 74-92)
ーロラン・バルト著(1980)、花輪光訳(1985)『明るい部屋』新装版(1997)、みすず書房
ーAngier, Jeremy (7 May 2001). "The Process of Artistic Creation in Terms of the Non-finito". New York Academy of Art. Retrieved 17 April 2024.
ーLivio Andronico, 2013, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons

2024年4月19日


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