掘りすぎると、感動が薄れる
せっかくの連休初日であるが、朝から釈然としないことがあった。ただ、何かが間違っているとか、誰かに悪意があるわけでもなく、何だろう、このもやもや感は…。ちょっと、文章にしながら、整理してみよう。
怒り。一番近い感情といえば、こうなるだろうか。何に対してか、というと今日の日経新聞の広告。「『The UKIYO-E 2020 ー 日本三大浮世絵コレクション』開催中!」ということで、それにちなんで、カラーでイラストが左右に2枚。それこそ、浮世絵っぽい構図で「江戸の朝篇」だという(この段階で断言するが、今後、別の「篇」が掲載されても、もう付き合うことはないだろう)。
勘のいい人はピンとくるだろうが、間違い探しクイズである。しかも「超ムズ」とのこと。間違い箇所は9箇所。
間違い探しは別に得意なわけではない。でも、全部回答できなくても、答えを見て「あー、ここね〜」とスッキリするのはキライじゃない。
「まあ、休みの日の朝だし、やってみるか」
「超ムズ」っていう表現にも煽られたこともあり、腕試ししてみた。
ところが、である。どれだけ目を凝らしても、間違いが見つからない。さっきは謙遜したけど、割と目敏いはずなのに。9つもあれば、一つくらいは見つかりそうなものだが。そうこうするうちに、5分くらい経っただろうか。ゼロ。しまいには、「もしかして、これってミスプリ?」とまで思い始める。「ミスプリなら、この時間がもったいない」と、都合のいい言い訳で自分を納得させて、答を見てみることにした。
面倒なことに、QRコードから「日経AR」というアプリをダウンロードし、日経ID(持っていたからいいけど)でログインしなければいけないらしい。まあ、結果的に、この答に至るまでのハードルの高さが、後に負の感情を増幅させるのだが…。
9箇所の間違い箇所に丸で明示されている。。まあ、普通のクイズ同様に「してやられた〜」っていうのも2つくらいあるが、大半がよく見比べないと気付かない。橋の手すり?部分の若干の太さの違いとか、浮かんでる雲の若干長さ違いとか。模様や形、色が違うっていう次元ではなく、全く同じ形状で長さや太さだけが若干違う、というレベル。なんなら、未だに2箇所くらい、なにが違うのか?理解できていない。
「だから、『超ムズ』って言ってるじゃん!」って言われたらそれまでだが、そもそも、答が提示されても、なんでそれが答なのか?わからないレベルは、クイズとして成立してるのか?もちろん、ここまでレベルのものを求める人もいるんだろうが、少なくとも「超ムズ」のイメージに関して、私とはコミットできていなかったようだ。だから、イラッともするし、モヤッともする。気付かない、お前が悪い、と言われているようで。紙面の向こうで企画者にドヤ顔されているようで(タイトル上部の画像のように)。
確かに、左右の絵で、アイテムの位置が左に1mmズレても、間違いは間違いだろう。色が人間の目で判別できるか?できないか?ギリギリの違いであっても、間違いは間違いだろう。究極は、そうなんだろうが、どこかで趣旨が違ってきているような気がする。何よりも「『超ムズ』なクイズを作成しろ」っていうミッションに対するアウトプットとしては、安易だと。「してやられた」感を味わえていない読者は私一人ではないはずである。
それでは、本当に極めるなら、どのようなパズルがいいんだろうか?
おそらく、その一つには、視覚の限界に挑戦ではなく、常識や先入観に対する挑戦があるのではないだろうか。多湖輝さんの『頭の体操』じゃないけど、9つあるはずが8つしか間違いがなくて、問題の設定自体が間違いとか。間違い箇所を絵の中に均等にまぶすのではなく、右下だけで9箇所固めるとか。
ひるがえって、日常のビジネスシーンでも、同様なことがあるのではないだろうか。たとえば、イベント企画。作り込んでいく中で、ドンドン細部のマニアックな部分にこだわるのはいいが、あるところまでいくと、一般の参加者には見分けがつかない差になってしまうこと。たとえば、提案書の作成。ある箇所だけ深く掘り下げすぎて、時間がなくなり、肝心の全体像が見えづらい、チグハグでバランスの悪いものになってしまうこと。
ある程度穴を掘り進めた場合、どこかで見切りをつける勇気も必要。これ以上掘り続ける労力に対する評価のバランスがどうであろうか?なんなら、もう一つ別の場所に穴を掘ったほうが、トータルではいいのではないだろうか?もしくは、この深さで、今度は横に掘り進めてみる?とか。
結局、深く掘りたい、掘ったことを評価して欲しい、と思うのは勝手だが、掘った穴を評価する人がそれに意外性を覚え、感動するか?どうか?というのは、また別問題。穴の中で考えないで、一度穴から外に出て、客観的に穴を見返した方がいいい。