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輩出をおそれるな!

前回、自分の故郷への訪問から、とどまる人材が、出ていった人材に与える影響力について述べた。

今回は、その逆のことについて考えたい。

それを考えるきっかけとなったのが、今でも故郷で活躍しているSさんの話だ。
「輩出」と彼は表現していたが、出ていく人材に対して、ポジティブに捉えていた。仮にとどまることがストックであれば、出ていくこと、逆に入ってくることはフロー。ストックではなく、フローで人材を捉えるべきだという。
一瞬耳を疑うが、とどまっている彼が言っているのだから間違いない。
でも、人口なり、世帯を維持したり増やしたりするのであれば、ストック重視じゃないの?と思うのだがそうではない、とのこと。
なぜなら、まちが輩出した人材が、場を変えて、活躍してくれる…たとえば、極端な話だが、井波を出ていった人材が、大企業の社長や、芸能人、もっというと総理大臣になったとする。そのときに、プロフィールやインタビューで出身が富山県とか、南砺市とか、もっというと井波町ってことがオープンになると、自然外からまちが注目されることになる。そして、とどまっている人材は、それに勇気づけられ、誇りに思う。「〇〇さんは井波出身やぜ」。言いたくて言いたくて仕方がない。
つまり、「卒業生」のまばゆい輝きは、そのまま「在校生」自身の輝きになっていくのだ。

そう、お気づきだろうか?

  • 「在校生」の輝きが「卒業生」に与える光

  • 「卒業生」の輝きが「在校生」に与える光

この2つは表裏一体となっているのだ。いや、違うな。どっちも同じ水平なのかもしれない。便宜上、「卒業生」とか、「在校生」って呼んでいるけど、それ以前に根っこは「井波っ子」。確かに、出入りするとか、残るとかって区別をつけること自体がナンセンスなのかもしれない。Sさんもそれを感じているのではないだろうか?

あぁ、そうか。そういえば「木彫刻のまち井波」であるが、井波に彫刻の技術を持ち込んだのは前川三四郎っていう、外から来た人らしい。つまり、どこかのまちから輩出された人材だ。輩出してもらったことへの感謝と敬意。仮に輩出に対する寛容さと、もしかしたらいい意味での強かさがあのまちにあるなら、そういったことも無関係ではないかもしれない。第二の前川三四郎をこのまちから輩出しよう!と。

今、井波が活性化していることで、もらえている誇り。これをエンジンにして、こちらから逆に井波の皆さんに誇りをお返ししなきゃな。輩出してもらったお礼も添えて。

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