若君の失踪

陸奥(むつ)の国に、申し分のない家柄で、仲の良い兄弟がいた。兄は国の府官で大夫介(たいふのすけ)と呼ばれていた。結婚後、子宝に恵まれなかったが、妻が40歳を超えて懐妊し、高齢出産で男子を出産した。一粒種の男子だった。妻は産後の肥立ちが思わしくなく、幼子を残して死んだ。大夫介の弟(=叔父)に子供はなかった。叔父夫婦は母を失った甥(=若君)を預かって養育した。叔父夫婦は若君をとても可愛がっていた。若君は何事にも優れた俊才だった。

寡婦あり。娘がひとりいた。大夫介が妻をなくしたことを知り、大夫介が頼みもしないのに押し掛けて、何くれとなく世話をやき、若君のことを大切にした。いわゆる押し掛け女房だった。大夫介は、最初は違和感があって、できるだけ女を避けるようにして目を逸らしていたが、母親を亡くした若君が女に懐いたので、次第に気持ちがほぐれてきた。女はいつも、手を伸ばせばすぐ届くところに控えていたので、ついつい夫婦の契りを結んでしまった。そして若君が13歳のときに、女は大夫介の本妻、すなわち若君の継母になった。

女主人は家の内情、資産などの詳細を知った。彼女は決して財産目当てで押し掛けてきたのではなかった。しかし、人間の心とは脆いものだ。形のある肉体は変幻自在というわけにはいかないが、形の無い心は、美しい輝きを放っていたかと思うと、瞬く間に、夜闇の中で異臭を放つ。
このまま高齢の大夫介が死んだら、遺産はすべて若君のものだ。彼女やその娘には何も残らない。若君がいなければ、遺産はわれら母娘のものだ。この思いは、彼女を捉えて離さなくなった。
「若君を如何にして亡き者にするか」彼女は若君を殺す手段を思案した。彼女は若君の恵まれた才能を高く評価していたし、彼を憎いと思ったことはいちどもなかった。善悪の問題ではなかった。是非の問題でもなかった。彼女の人生における道の選択であった。だから彼女は若君を殺すことについて何の迷いもなかった。

女主人はこの家に雇われた新参の下郎に目をつけた。下郎は若君の身の回りの世話を言いつかっていた。手始めに娘の乳母の娘をこの下郎と結婚させた。下郎にはもともと妻がいたので、女主人は、乳母の娘を納得させるために、大まかな計略を話した。若君を亡き者にすれば、莫大な遺産が手に入ること、この仕事に協力すれば、手に入った財産を山分けにすると持ちかけた。乳母の娘は、夫になった下郎にそのことを話した。一攫千金の儲け話に、下郎は、一瞬、かすかに眉を寄せたように見えたが、迷わず話に乗った。彼は女主人のもとに駆けつけると、周りに誰もいないことを確かめて、若君殺害の仕事を引き受けること、そして自分の立てた計画を小声で話した。女主人は彼の計画に同意して、実行を命じた。

下郎は密かにチャンスを狙っていた。チャンスは意外と早く到来した。若君が叔父の家を訪問し、数日間過ごすことになったのだ。叔父の家は馬で1時間ほどのところにあった。若君の馬は見事な栗毛の3歳馬だった。馬の世話をして、出かけるときにはいつも下郎が手綱を握っていた。その日は朝から好天に恵まれ、朝10時過ぎに若君は馬で家を出た。手綱を取っていたのはいつものように下郎だった。叔父夫婦には、サプライズのつもりで、訪問することを事前に通知しなかった。

若君と下郎は、のんびりとよもやま話をしながら、なだらかな山道を進んでいた。赤紫色や黄色の野菊の群生を眺めながら、下郎は若君に言った。「若様、せっかくですから、叔父上に掘りたての山芋を手土産としてお持ちしましょう。あそこに山芋の蔓が伸びていますから、きっと立派な山芋が採れますよ。」こうして下郎はコースを外れて若君を野原に連れ出した。そしてあらかじめ用意していたスコップで蔓の根元を掘り始めた。読者の中にはご存知の方もいらっしゃるでしょうが、山芋、いわゆる自然薯(じねんじょ)は相当に深いところで発育する。だから、山芋をいくつか掘り出した後には、かなり深い穴ができた。

下郎は、いきなり若君を馬から引きずり降ろすと羽交い締めにした。若君は必死に抵抗したが、力の差が大きく、抵抗空しく、若君は後ろ手に縛られて、穴の中に蹴落とされた。
 「怨まんでくだされ。継母上のご命令ですので。」
下郎は言って、手を合わせ、周りに落ちていた落ち葉や枯れ枝を穴に投げ込み、その上から土をかぶせた。作業が済むと、下郎はどこまでも澄んだ青空を見上げ、ため息をもらした。汗ばんだ首筋に、初秋の風がひんやりと感じられた。そして女主人の待つ家に戻っていった。

叔父夫婦は、今日、若君が訪ねてくることを知らされていなかった。叔父は久しぶりに甥の若君に会いたくなり、昼食を済ますと兄の家に向かった。今日は府官の兄は役所に泊まり込みで不在だと聞いていた。きっと若君も退屈しているだろうと思ったのだ。山道を30分ほど来たとき、彼の前にウサギが飛び出してきた。咄嗟に弓を構え、矢を放った。矢はウサギに当たらず、ウサギは野原の方にピョンピョンと逃げていった。このままウサギを見逃すか、それとも若君への手土産とするか、彼は一瞬迷ったが、もう一度弓を構えてウサギの後を追った。

しかしながら、ウサギの姿は失せてしまった。彼は野菊の咲き誇る野原の真ん中で、ドウドウと馬の気を鎮め、目をこらし、耳を澄ませてウサギの気配をうかがった。すると、何やら人のうめき声のような音が微かに聞こえた。従者が何か言ったのかと思い振り返ったが、そうではない。彼は馬を降りて、音のする方に歩み寄った。うめき声はだんだんと近くに聞こえ、はっきりと足元から聞き取れた。彼は地面に耳をつけた。「助けて!助けて!」という苦しそうな声だった。足元の土には、掘り返してかぶせた後のような形跡があった。彼は従者を呼び、2人で、そこの土を掘った。ああ、何ということ!そこに埋められていたのは若君だった。呼吸はしていたが、意識は朦朧としていた。荷車に積んでいた土産の品物を全部投げ捨て、そこに若君を横たえて、大急ぎで家に戻った。

家にたどり着き、若君を座敷に横たえた。そして兄に直ぐに駆けつけるよう使いをだした。若君の呼吸が整い、意識も次第に戻ってきた。叔父夫婦の顔を認識して安心したのか、しくしくと泣き出した。しばらくあって、若君は経緯を話し始めた。叔母は、若君の顔に付着した泥を拭いながら、はらはらと涙を流した。若君がすっかり元気になると、風呂に入れ、新しい着物を着せた。

叔父はじっと考え込んでいた。そのうちに、兄の大夫介が役所から駆けつけた。息子の無事な姿をみて、おいおいと泣き出した。無理もない。そうでなくとも、涙腺の弱くなる高齢であった。手を下したのは下郎であったが、若君を殺すよう命じたのは継母であることを聞くと、兄は継母をぶった切る、と吐き捨てるように言って、馬に乗ろうとした。弟はそんな兄を制止した。いきなり女を捕まえても、知らぬ存ぜぬ、と言い張るだろう。まずは下郎を捕まえて泥を吐かせて、動かぬ証拠を得てから、女を捕えるべきだと、兄を説得した。そして家じゅうの者に、若君が生きていることを洩らさないよう、緘口令をしいた。

2日後、数人の従者を連れて、叔父は継母の家にやってきた。継母は、若君がここ2日間不在であること、叔父の家に行ったものとばかり思っていたと、空々しく言った。継母も下郎も、若君は死んだものと思っていた。
 叔父は言った、「どこへ行かれたのか?我が家には来ておられませんが。」若君の失踪ということになり、家の者が捜索に出た。その中には下郎もいた。途中に叔父の家来が待ち伏せていて、下郎を捕えた。下郎を叔父の家に連行し、誰の指示で若君を殺したのか尋問した。さんざん責められて、下郎は女主人の指示であったことを白状した。

さて、叔父の家来たちが、ゴキブリ一匹逃さないように兄の家を取り巻き、女主人を捕えた。最初は言い逃れをしていたが、縄でぐるぐる巻きに縛られた下郎を見ると、観念して全てを白状した。下郎の妻や娘も捕え、大夫介は全員を切ると息巻いたが、叔父はそんな兄を説得して、全員追放にした。これは温情ではなかった。叔父は、下郎が若君に土をかぶせたあと、上から踏み固めなかったのは、単にうっかりしていたからではないような気がしたのであった。そしてもし、継母を切れば、若君の心に終生消えることのない深い傷を残しただろう。若君はこの叔父を生涯敬愛した。

父と叔父の死後、若君はそれぞれから遺産を相続した。若君は父の後を継いで大夫介となり、父を超える権勢と財力を得た。

<今昔物語巻26第5>

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