碁聖、碁うつ女に会う

今は昔、碁をよくおうちになる天皇は、いつも碁聖に対して先手2目置きで対局されていた。ある時、金の枕を賭けて対局されたが、負けてしまわれた。碁聖は大喜びで、金枕を懐に入れて退出した。天皇は悔しがって、政務をとっていた者の中で元気そうな若者に命じて、金枕を取り返して来るよう命じられた。

大きなお屋敷だったので、碁聖はルンルンで長い廊下を歩いていた。廊下を右に曲がったところに待ち構えていた男たち3人が、碁聖に襲いかかり、素早く懐から金枕を掴みとって走り去った。碁聖が地団太踏んで悔しがったのは言うまでもない。金枕はロトセブンの2等に当たったぐらいの価値があったからだ。その後、何度か対局したが、賭け事はしなかった。その時には襲われることもなかった。

それから1カ月ほどして、天皇から再び対局のお誘いがあった。今度は黄金の鹿像を賭けられた。先手2目置きであったが、今度もまた天皇が負けてしまわれた。碁聖は大喜びで、黄金の鹿を懐に入れて退出した。今回は用心して、特に右に曲がるところでは一旦立ち止まって、気配を窺がうなどして、ルンルン気分で長い廊下を渡っていた。ところが今度は左に曲がるところで襲われ、懐の黄金の鹿を奪われてしまった。

ここで彼はようやく、この襲撃は天皇の指示であると気が付いた。彼は対策を練った。獲物を体にくくり付けるとか、走って逃げるとか、あれこれと悩んでいたが、夜もしらじらと明けるころになって、ひらめくものがあったらしい。その日に、知り合いの仏師の家を訪ねた。そして何やらひそひそと話しこんでいた。

数日後、碁聖は牛車に乗って大内裏の天皇のお住まいを訪ね、いつものように天皇の先手2目置きで対局した。3時間ほどで勝負がついて、敗れた天皇が、横に控えていた若者に目で合図をすると、若者は恭しく碁聖にすり寄って黄金の枕を碁聖の前に置いた。碁聖は金枕を懐にして、御前を退出し、ゆっくりと廊下を歩いた。彼は庭に掘られた井戸の近くまで来ると、廊下に立ち止まって庭を眺めていた。そこへ、いつもの若者たちが近づいてきた。碁聖を取り囲み、懐の中の物を奪おうとした、その瞬間、碁聖は懐から枕を取り出して、井戸に向かって投げた。チャポンという水音がした。慌てた若者たちは井戸に向かって走り、中を覗き込んだ。その隙に、碁聖は廊下を走り去った。彼が井戸に投げ込んだものは、実は、仏師に作らせた金メッキの偽の木枕だった。本物の金枕は彼の懐に残ったのだ。

碁聖は待たせていた牛車に乗り、意気揚々と仁和寺に向かった。しばらく行ったところで、小ざっぱりした女の子が、碁聖の付き人の小僧に声を掛けた。
 「近くの家にお立ち寄り下さい。御主人様から、お願いの儀がございますので。」
小僧が碁聖にその旨を伝えると、ご機嫌の碁聖は、2つ返事で女子に案内を乞うた。堀川を少し過ぎたあたりにその家はあった。柱だけの門構えで、粗末な垣根に囲まれた貧相な平屋建ての小さな家だった。それでも中庭は、竹を編んで作った垣根で囲まれ、植込みも趣味の良い小洒落た感じだった。悪い印象はなかった。彼はぞうりを脱ぎ、母屋からひとつづきの外に張り出した客間に通された。

部屋には伊予すだれが掛けてあり、涼しげな夏の几帳がたてられ、そのすぐ横に艶のある碁盤が置かれ、そのそばに円座が敷かれていた。碁盤の上には値打ちものの木彫りの碁笥箱(ごすばこ)が2つ並べてあった。

碁聖が端座していると、すだれの向こうから、若々しい上品な澄んだ女の声がした。
 「どうぞこちら近くにお寄り下さいませ。」
碁聖は言われるままに碁盤の方に近寄って円座に座った。女は言った、「本日はこのようなむさ苦しいところにおいでいただき、お礼の申しようもございません。あなた様が、当代並ぶもののない碁をおうちになるという評判を耳にいたしましたので、どれほどおうちになられるのか、ぜひとも拝見させていただきたいと思い、ご無礼を顧みずお招きさせていただきました。実は囲碁好きの亡父が、私に手ほどきをしてくれましたが、父亡き後は、対局する機会がとんとございませんでした。あなた様がこの家の近くをときどき通られるとうかがいましたので、はばかりながらお招きした次第でございます。」
 「事情は分かりました。貴女はどれほどおうちになられますかな?何目ほど置かれますか?」

碁盤に顔を寄せると、ふと、すだれの中からたきしめた御香のかぐわしい上品なかおりが漂ってきた。碁聖は碁笥箱をひとつ手にして、すだれの中に差し入れた。
すると女は碁笥箱を碁聖に押し返しながら、「顔を見られながらでは、とてもお恥ずかしくてうてませんわ」と言った。そんなものかなあ、と思いつつ、碁聖は2つの碁笥箱を自分の前に置いて、蓋を開けた。すると、几帳のすきまからマエストロの指揮棒のような白く綺麗な60センチほどの木の棒が伸びてきて、「私の石は、まずここにお置きくださいませ」と言いながら、彼女は、指揮棒で碁盤の中央の聖目をつんつんと指し示した。「本来なら、何目か置くのが当然でございましょうが、力量の差も分かりませんので、この局は、私が先手をうたせていただきまして、碁力の差が明らかになれば、10目でも20目でも置かせていただきます。」

碁聖は女の石を聖目に置いた。次に自分の石をうった。すると女は指揮棒でつんつんと碁盤の目を叩いた。袖の先に、白魚のような透き通った2本の指が覗いていた。そんな風にして碁は進行した。白熱したゲームの行方は予測できなかった。実力は伯仲していた。最初は余裕をみせていた碁聖も、次第に真剣な表情になり、焦りがみられた。そして最後には3目の差で碁聖が負けてしまった。

油断であった。若い娘とみて、甘く見ていた。彼は負けず嫌いだったので、名誉挽回を図った。懐から、大内裏の賭けで得た金枕を取り出して、「もうひと勝負、お相手をお願いしたい。ついてはこの金枕を賭けましょう。」すだれの向こう側で、春風のようなため息が聞こえた。「ごらんの通りの貧乏所帯で、そのような豪華な賭けに見合うものを持ち合わせておりません…」女は消え入るような声で、断りを入れそうだった。碁聖は、慌てて言った、「心配には及びません。その時には、朝までこの枕を交わしましょうぞ。」

2局目が始まった。今度は碁聖が先手だった。彼はスタートから真剣だった。ところがどうしたことか、みるみる碁聖の顔は蒼ざめてきた。彼の石は次々と囲まれて、瞬く間にほとんどが殺されてしまったのだ。とても太刀打ちできなかった。
 「こんなことがあっていいものか?」彼の額には玉のような汗がびっしりと浮いていた。これは夢か?それとも相手は妖怪か?指揮棒がつんつんと碁盤を叩くたびに、彼はまるでその指揮棒で首をとんとんと叩かれているかのように感じた。彼は自分よりも強い相手がこの世に存在するとは思ってもみなかったのだ。それが、それが、自分がまるで赤子のようにあしらわれているのだ。巨石のような敗北感が彼の理性を押しつぶそうと迫っていた。それは恐怖心に変わった。彼は思わず盤上の石を払い飛ばしてしまった。

碁聖は茫然自失であった。そんな彼に女が艶な声をかけた、「もう1局お相手いただけませんか?」その声は、彼の心臓を冷たい舌でつるりと舐めたように響いた。彼はぞっとして、裸足のまま部屋から飛び出し、門の外で待っていた牛車に駆け込み、車を急がせて仁和寺に帰り着いた。寺に帰っても、心臓は早鐘のように拍ち、脇の下を冷たい汗がだらだらと流れた。その夜は寝つけなかった。いままで、こんな恐ろしい経験をしたことがなかった。

翌日、少し冷静さを取り戻して、「一体、あの女は誰だろう?」と思い、再び昨日の家を訪ねた。しかしその家はもぬけの殻だった。管理人のような老いた女法師がひとりいた。彼女によると、氏素性は存じ上げないが、左京区の方から、「方違(かたちがえ)」のためにショートステイで来られた人があったが、昨夜お帰りになった、とのことであった。「おおかた、大宰府に単身赴任しておられる、この家のご主人のお知り合いかもしれませんね。」女法師はいったん家の中にひっこんで再び出てくると、「これは賭けていらっしゃらなかったのでお返しするようにと言いつかっております」と言って、綺麗に拭き清めた碁聖のぞうりを差し出した。金枕が戻らなかったのは言うまでもない。

碁聖は、後日、大内裏に天皇を訪ね、女のことを話した。もちろん賭け事の部分については省略した。天皇も首をひねられて、「そなたに2連勝とは、大した女がいたものだな。もしかするとキツネかもしれないなあ」と不思議がられた。「ところで、貴僧に渡した金枕のことだが、あれは木でできた金メッキの偽枕だった。あのような偽物をつかませたとあっては私のプライドが許さない。それで今日は本物の黄金の枕を用意させておいた。今日は途中で襲うものはいないので、安心して持って帰ってくれ。」碁聖の心は、少し曇りがちではあったが、その後、金枕をちびちびと削りながら、仁和寺の改修資金に充てたと伝わっている。

<今昔物語巻24第6>

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