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ベネズエラ滞在記

夫が南米ベネズエラに旅立ってから 半年が過ぎた頃
子会社の家族も現地に行けるようになったと連絡があった
夫がいなくて寂しいというより 初めての育児に驚きの毎日
だった私

会社から連絡があった時は
よし!行こう!ベネズエラへ! ワクワクしていた

パスポートの申請(息子は小さかったので 二人一緒でいいとのこと)
予防注射 挨拶程度のスペイン語の勉強 荷造り 
何とか用意をして 成田空港へ向かう

主人の上司に 「元気で 猿のような子やねえ」と言われた息子
空港中を走り回っていた。機内に入って 寝てくれた時は
ほっとした。

ダム建設の現場までの長旅
2歳の息子を連れて 成田~ニューヨーク~ベネズエラのカラカス空港
カラカス~プエルトオルダス(現地空港) 気の遠くなるなるような
過酷な旅だった。

息子にも座席はあったが 隣の席の大きな外人を見るなり
「怖い!」と言ってほとんど抱っこ状態。抱っこしたまま 寝込んで
しまったようで、私が目が覚めるまで 隣の座席の外人さんは
立って待っていてくれた。1時間ぐらい寝てたかも・・
ニューヨークまで12.3時間 しんどかった~~~~。
ほとんど飲まず食わず トイレに行ったかな?

大昔だったので パンアメリカン航空だったと思う。
とってもきれいなスチュワーデスだった。子供連れの私に優しくして
くれた。
ニューヨークで一泊して ホテルのレストランで食事をしたら
ステーキが固くて 息子はパンを食べて 部屋でお菓子を食べた
息子は時差ボケもあり 一晩中ベッドの上で飛び跳ねていた。

ニューヨークからベネズエラまでの飛行機は少し小さくてなり スチューワーデスは大きくなった ベネズエラ カラカス空港から現地のプエルトオルダス空港までは
もっと小さな飛行機になり スチューワーデスはもっと大きくなって
おばちゃんになった。

現地空港は 徳之島の空港のようだった


ベネズエラは赤道に近く、ほぼ一年中夏 日中40度ぐらい
車のボンネットで目玉焼きが焼ける。 一日中 できの悪いクーラーが
大きな音をたてていた。
着いてしばらくは トレーラーに住んでいた。よく映画でみかける
ようなタイヤがついた家。
6〜7台は並んでいたように思う。我が家は
ベッドルームが2つ リビングが2つ  キッチン バスルームが2つ 家具も作り付けだった 親子3人では広すぎて 半分は使っていなかった

インテリアもトレラーごとに違っていて
我が家は山小屋風でキッチンの横にバーもついていた。
主人が現場に行ってしまうと 息子と二人 これといってすることも
ないので トレーラーの周りを探検した。マンゴーがなっていた。
あのころ日本では食べたこともない アボガドがなっている。
マンゴーは日本で見かけるのより ずっと大きくて甘くて
食べ応えがあった。


週に1回 会社から近くのスーパーまで車をだしてもらって
買い物にいっていたが、野菜、魚、アイスクリーム、水が
車で売りに来ていたので 利用していた。
現地はスペイン語 主人から片言のスペイン語を教えてもらって
それなりに通じて 買い物はできた。

一度アイスクリームを息子のために買ったら 大きなバケツに入っていて
美味しかったんだけど、アイスクリーム屋さんのおじさんが毎日ドアを
ノックしてくるので スペイン語で断るのに苦労した。
食べ物が甘かった。初めのころジュースが甘すぎて 水で薄めて飲んでいたが

だんだん慣れて そのまま飲めるようになった。

トレーラーハウスに住んでいた日本人は少なく 色んな国の人が
住んでいて 言葉がわからないなりに 仲良しの家族もできて
息子はパンツ1枚で遊びまわっていた。
住めば都です。


ベネズエラは雨季と乾季があり
雨が降り始めると あっという間にバケツをひっくり返したような
雨になる だから現地の人は洗濯物を取り込まない
外にでると 洗濯物が増えるだけだから・・・
 郷に入っては郷に従え  私も取り込まなかった
雨は長くても15分ぐらい すぐにやんで カンカン照りになり
洗濯物もすぐに乾いた。

トレーラーハウスの近くに チリからの家族が住んでいて
息子と同年齢の子供がいて 仲良くしてもらった。
可愛い娘さんがいて アンドレアという名前だった。ママから
チリの料理を教えて貰ったりした。

息子の3歳の誕生日は ママがケーキ作りを手伝ってくれた

直径45センチぐらいの大きなケーキを一緒に作った 
トレーラーハウス近辺の子供たちをみんな呼んでお祭り騒ぎだった。
1メートルほどもある数字の3を形どったもの (中は空洞になっていて
小さなおもちゃや飴をたくさん入れてある。)
それをつるして 子供が叩いて 中からおもちゃを落とす
子供たちは代わる代わる 叩いて それはもう大賑わいだった。
 用意も大変で、町まで買い物に行き 大きな数字(3)や中に入れる
おもちゃ ケーキの材料 ジュース 大人用のお酒 等
国籍も違う人たちが息子の誕生日を祝ってくれた。 
仲良くしていたアンドレアの家族はベネズエラの違う現場に引っ越した。
毎日行ったり来たりしていたので 寂しくなった

 ある日  

 近くのトレーラーハウスの方から 大きな魚をもらった。
うろこが5センチぐらいのとっても大きな魚 近くのオリノコ川で
釣ったとか・・・今思えば 熱帯魚のアロワナだったかも・・
もらっても・・・料理もできないし 多分近くの方にあげたんだと思う
 オリノコ川にはピラニアがいて 白身で美味しい川魚だった。

現地では よく食べられていた、人が襲われた話は聞かなかった
 そういえば ペルー人の通訳の方は川にダイヤモンド取りによく
行っていた。よくテレビでみる あれ! です。
ざるで砂を掬って川の水で洗い流す方法 です。
砂金もとれ、ダイヤモンドも・・・米粒2粒ぐらいの大きさの
ダイヤモンドを見せてもらいました。
何でもやってみたい私 ダイヤモンド 金 帰国するときは
大金持ち〜〜〜!

ワクワク
ゴムボート買ったよ~~~~。

でも
川に繰り出す勇気はなく  (ピラニアに襲われるかも・・)
なんて思い 息子の水遊び用になった。
朝 水を入れておくと 10時頃には熱湯になり 水を足して
お風呂にもなった。庭に水をまくふりをして 二人で
水遊びを楽しんだ。

トレーラーハウスから 普通の家に引っ越しになり
そこは日本人家族も住んでいて 窮屈な面も多かった。
ご主人の会社での役職がものを言う 日本人村だった
多くは東京 本社の方だったが、 うちは大阪の子会社からの参加だった
ので 多少は面倒くさかった。

 私と息子は あまり窮屈さは感じなく(マイペースな嫁で主人は大変だったかも)
あっちこっちのパーティに誘われて 出かけて行ったりしてた。
当時ベネズエラの治安は悪くなく 夜の10時ごろ パーティに出かけていた。ベネズエラ時間というのがあって パーティは午後10時ごろから
始める 慣れないうちは 午後 8時ごろ出かけて行って 誰もいない ということが よくあった。
ベネズエラ時間です。

息子と二人 夜中に ウロウロした。息子は女の子とまちがえられ
「ボニータ🥰」と言われ グラマラスなお姉さん、おばちゃんから
ほっぺにキスしてもらっていた。私は 現地の食べたことのない料理を
堪能した。出されたものを「サブロッソ!(美味しい)」と言って食べた

  ベネズエラに行って 痩せなかったのは 私達 親子だけ!と
言われた。 暑い中 近くの公園で息子の自転車の練習に付き合って
公園にある浄水器で冷たい水も飲んだ。飲み水は買っていたが、
少しずつ慣らして 浄水器の水も飲めるようになった。
公園の浄水器の水を飲めるのは 私たち親子だけでした。

 郷に入っては郷に従え   です。



ベネズエラではトレーラーハウス、普通の家に住んだが
家賃、光熱費を払った記憶がない。
水力発電のダム工事でだったので (当時は世界1と言われてた)
そんなもんかな~と思ってた。 ラッキー😀

 とても暑かったのでビールやジュース代がけっこうかかった。
独身のスッタフが多かったので 毎週我が家で宴会をしていた。
気のいい主人がすぐ誘うので 多いときは10人ぐらい。
昼食を食べる処もないので、家庭持ちは 家で食事 主人は
毎日帰ってきていた。「昼はうどんがいい」なんて言われたら
もう 大変。急遽 手打ちうどん屋さん。。
小麦粉をこねて 足で踏んで 切って 腰のあるうどんを
目指して 少し干したりして・・・頑張りました。
おあげさんはないし、エビも急には無理・・かきあげを作って
かきあげうどんにしました。
作るのは3時間 食べるのは10分
 なんとまあ・・・・

あ、餃子も大変だった。
皮が・・・親子3人分 30枚弱・・・頑張りました。
ミンチ肉も 肉を細かく刻んで・・帰国してから思いました。
日本はいいなあ~~うどんも餃子もみんな簡単にできる。
そうそう、ピザもそう。 頑張りました。

 唐揚げを作ろうと思って主人が買い置きしていた
鶏肉を開けてみた
  なんと!!!
頭がついた 鶏丸ごと1羽 まな板の上に 頭がゴロンと
出てきて 「キャァ〜 これなんとかして~~~」
今でも怖い

ドタバタしながら 一日3食 頑張りました。

  近くにイタリア人の夫婦が住んでいて 美味しいパスタの
作り方を教えてもらいました。とてもシンプルな作り方でしたが、
美味しかった!!材料は パスタ、ベーコン ニンニク トマト
塩、コショウでした。

そういえば チリの奥さんからも エンパナーダ を教えて
貰いましたが、とうもろこしの粉がメインで美味しかった
エンパナーダは具入りのパンで 中身はスパイシーに味付けした
ひき肉、干しブドウ ゆで卵のスライス など

私は好き嫌いがなく なんでも美味しく食べれるのが 特技
旅行に行って 小さな市場で売っている 変わったものも
美味しく食べることができた。
 血のソーセージとか(今では ちょっと大手のスーパーで売ってる)
リンパのソーセージも美味しく食べてきた。

 現場から月1回ぐらい街に行って 中華のレストランで
中華料理を食べると おなかの調子が悪くなった。
現地の何を食べてもおなかをこわさないのに・・
中華料理は ダメだった。。

息子が現地で体調を崩したとき 通訳さんと病院に行った。
めちゃくちゃ量の多い水薬をもらって 息子に飲ませるように
言われたが、不味くて 息子は一口も飲めなかった。
チリの奥さんが 教えてくれた
「コーラの炭酸を飛ばして飲ませるといい」と
何回か飲ませたら 体調もよくなった。 

息子は日本に帰国しても体調が悪くなるとコーラを飲んでいた。




息子は現地の幼稚園に通っていた
朝7時に通園バスが迎えにきて 近くに住む
仲良しのポルトガル人のペドロとバスに乗って行った

小さなバスケットに水筒、お弁当を入れて登園
帰りのバスの中では ペドロともめて
バス停に迎えに行くと ペドロが「マック マロ」(マックが悪い)と
泣きそうな顔で訴えてきた。 息子はいつも元気で わんぱく盛り

3歳の男の子が じっとしているはずもなく 言葉も通じず
 通園にあたり 私は息子に3つの言葉を教えた。
「ぷっぷ ぴっぴ まえすとら」
これは 「おしっこ うんち せんせい」の意味
この3つが言えれば なんとかなる と。
この3単語は息子の役にたったようで 嫌がりもせず 毎日元気に
バスに乗って登園した

 「ママ、お弁当 おにぎりはやめて!パンにして!」
おにぎりが 珍しいと みんながお弁当を覗きにくるらしい。
お菓子も入れてくる子もいるらしい・・(息子が言うことなので
本人の希望かも)
1か月もすると スペイン語で童謡を歌い、ベネズエラの国家を歌うように
なった。幼稚園から帰宅後も ペドロと遊んでいた。

 そのころ 新しい友達?ができ、毎日「ヘイ!マック!」、
遊ぼうと誘いに来るのだが 息子はその可愛いヤンキー娘が苦手で、
「ママ いないって言って」と嫌がっていた。
 金髪の髪を2つにくくって そばかすが似合う元気な女の子
息子より 少し大きくて 5歳ぐらいだったかも
 息子もベネズエラを楽しんでいた。

帰国して 初めて冬を体験したとき 彼は
「また 冬が 来る?」と聞いた。
物心ついてから ずっと夏。 冬 雪を見てびっくりしていた

そういえば 休暇でマイアミに行った。 
マイアミも夏だと思って行ったら 冬だった
さすがのマイアミも冬の海は誰もいなかった

窮屈な日本人村で 私がストレスを溜めているのではないかと心配した
夫は 休みのたびに 日本人村を脱走させてくれた。
私は いつもマイペースで楽しんでいたのだが・・・・
夫の優しさに甘えた。

 本場のディズニーワールドに行き、親子3人 ミッキーマウスの
厚手のトレーナーを着て ディズニーワールドを楽しんだ。
 息子が まだ3歳で小さかったので
色々なものに 乗れず 残念!!45年ほど前ディズニーワールドの
規模の大きさに驚いた。

 レストランで息子に暖かい牛乳をと思い、英語で注文したのだが、
hotの発音が通じず スペイン語の方が通じた
 英語は発音が難しく スペイン語はスペル通りに読むと
割合通じる。ただしRの発音は 巻き舌でないと・・・
おしゃべりなのに、私は 巻き舌が できなかった。

カリブ海に面した マルガリータ島にも休暇で行った。
今思えば 日本にいるときより ずっと多く親子で過ごしていた。

現地のコックさんが 湯がきたての パスタに塩、コショウ ニンニク
オリーブオイルで食べていた。美味しそうだった。
マルガリータは衣類が安いと言われ多分買い物に行ったと思う。
一年中 夏服を着てて 夏服の痛みが激しく買いに行った。

日本から母が小包を送ってくれるのだが 3個に1個は届かなかった。
休暇の候補には エンゼルホールもあったが、
小型機で 滝の近くまで行ってみる と言うことだったので やめた!
そのころ けっこう小型機の事故が多くて 親子三人小型機で事故に
でもあったら・・・と思いやめた。

 ギアナ高地から流れ落ちる エンゼルホールは落差 980メートルほど
滝壺はない 下につくまでに 霧になってるそうだ。
ギアナ高地は時々TVでも取り上げられているが すごい!!

WBCにベネズエラ出身の選手が出場しているが野球は流行っていた
会社にも野球チームがあって 夫も参加していた。
球場の周りは ジャングルで大きな蛇や
イグアナがウロウロしていた。

 熱帯のせいか 植物も昆虫も大きかった。
引き出しを開けて手のひらより少し小さなゴキブリを見つけて
そっと引き出しを閉めた。


ベネズエラの生活もずいぶん慣れて パーティに出かけたり
街にお買い物に行ったり・・不自由はあるものの それないりに
快適に過していた。日本人村の中にいても あまり影響もされず
自由に生活をしていた。


多分 私と息子は日本人村では 浮いていたと思う。
友人も日本人より外人の方が多かった。言葉は通じないなりに
なんとかなるもんだ。





クリスマスは チリの奥さん達の引っ越し先 マラカイボに行った。
ベネズエラ第2の都市でカラカス(ベネズエラの首都)から
バスで移動したような・・・ご主人の車で川に泳ぎに行ったり
した。帰りは空港まで送ってもらった。
 夜10時ごろから パーティが始まり 終わったのは 朝方
慣れてきてても やっぱり息子が朝早くに起きてきて
 大変だった。庭でバーベキューを楽しんだ。
音楽をかけて 踊ったりした。


クリスマスツリーはあったけれど サンタクロースは
海水パンツ姿



ベネズエラにも慣れ まだいてもいいかな・・と思う頃
帰国ということになりました。
カラカス~ニューヨーク~日本と便がなく
カラカス~メキシコ~日本と帰ってきました。
メキシコ~日本へのチケットもなく メキシコで購入して
と いうことだったと思う

 えへへへ・・好奇心一杯の私が メキシコと聞いて
喜ばないはずがない!
 楽しみましたよ~~~~。

レストランではマリアッチの演奏 (ほら!あの大きな帽子をかぶって
楽器を持って歌う)を 頼んでみました。
定番の「コンドルは飛んで行く」をお願いしました。
 翌日はメキシコにあるピラミッド テオティワカン(世界遺産)
行きました。観光地になっていて自由に登っていいとのこと
私は真ん中あたりで リタイヤしましたが、主人と息子は頂上まで
登りました。私は日本に帰るというので 珍しく化粧をし、ヒールの
靴を履いていたので 上まで登れなかった
もったいないことをした〜〜〜。

ピラミッドの近くにきれいなレストランがあったのですが、
不思議ですよね~~ 家族三人で同じ思い出があります。
4歳の息子まで覚えている  とっても大きなグラスに入ったコーラ
(ワイングラス 顔が洗えるぐらい 大きい)

今でも たまに 話題に上がります。

 不思議です。同じ経験をしていても 興味のあるなしで記憶が
違います。食いしん坊の私は 食べ物のことはよく覚えているのですが、
主人は食べることに あまり興味がない人なので覚えてないことが多いです。 

メキシコで日本へのチケットを手に入れて無事帰国しました


帰国するときに 庭に水栽培で大きくなったアボガドを
庭に植えてきました。
きっと大きくなって 実を沢山つけていることでしょう。



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