治しようのない病
前回、投稿できたのが2/9。
今日は4/13。2ヶ月近く経ってしまった。
理由は分かるけど、理由にしてはいけない理由だなと思う。
たまに思うことがある。
なぜ自分はこうなんだろう、と。
どんな経済的な差、容姿の差、
能力の差を目の当たりにしても、
私は自分の心の声を聞き、
羨ましさとか嫉妬とか、優越感に浸りたいだとか、出し抜きたいだとか、そのような雑音に惑わされることなく、選び、進もうと、基本的にはそう思うように努めている。
それでも出来ない時があるならば、出来るように考え方を修正しようと努める。
しかし、
「誰か」の1人になりたいと思う時は違う。
「誰か」の前では、ダメなのだ。
そこでは、私は、意図的に耳を塞ぐ。
好意があることを、決して見せないよう。
好意があることがバレて、拒否されるのが怖いから。
好意を伝える勇気を持つ気は、捨ててしまう。
(自分の気持ちを隠して接しているから仕方ないが)、相手の気持ちも分からず、相手の無関心と向き合わねばならない可能性のある戦いに飛び込むことほど、恐ろしいものはないからだ。
だから、今の私は、「誰か」を見つけるたびに(と言っても、そんな数多く出会ったわけではない)、
1つの宣言をし、1つの願いを浮かべる。
私は進むべき道を、着実に歩みます、と。
相手の心に向き合える勇気は、
きっと、自分がどれだけ自分自身を受け入れているかだ。だから、そうなれるよう、今は自らの道を進むのだ、と。
それまでは、「誰か」に出会ったとしても、私はただ沈黙し、進むべき道だけを見つめる。
1つの願いは、
どうか、その人が、早く、その人にとっての誰かを見つけ、結ばれること。
そしたら、私は、目を覚ませるから。
勇気が必要な事柄はたくさんあり、その勇気の生み出し方も様々。
相手に向き合う勇気は、ある程度のところから、もう、自分の内から生み出すしかなくなる。
本当は、まっすぐ道を進み続けるだけでは、この泉からは何も湧かない、とずっと感じている。
どんなに勉強しようとも、ありとあらゆる経験を積もうとも、「誰か」の前では、その飾りは全て置かないといけないから。
そして、私は、自分がその飾りを置いてしまったら、どれほど醜いか、よく知っている。
知っているはずなのに、美しいと自分が思っていることも、よく知っている。
私は、美しいけれど、
もしかしたら、醜いのかもしれない。
そんな揺らぎに心を囚われている限り、
泉は出来たとしても、いつまでも潤うことはない。
でもこの揺らぎから、この恐怖から、どう自由になればいいのか、私は分からない。
分かろうとする心さえ、いまだ持てないでいる。
だから、「誰か」に、何度出会おうとも、
私はいつも、1人で道を進むと宣誓する。
枯れ果てた泉を眺めるんじゃない、勇気が湧き出る日は、きっと来ないから。
来ないからこそ、止まらず、進みます、と。
でも、その「誰か」が、
その人にとっての誰かを求めている姿があると、どうしても時折そちらを見てしまう。
張り上げているはずの自分の声も気にならなくなり、ふと立ち止まり、見てしまう。
だから私は、進むと共に、願う。
よそ見しないで、歩みを止めないで、
もっと前を、そこに広がる世界を、
ちゃんと見ていられるように。
心を乱す思いが、もう湧き上がらないように。
願う以上のことは、決してしないけれど。
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