仏様の前での心構え
気が付けば、もう7月。梅雨も明けて夏の暑さも本格化してくる時期です。
8月になればお寺が一番忙しく、お坊さんも走り回る時期ですが、どうぞお墓参りやお仏壇に手を合わせていただく時間を皆さまでも作っていただければと思います。
お盆の時期は(関東は7月ですが、関西は8月に勤めます)、お寺の息子さんや娘さんなどの子供を連れて、親子で各お家のお仏壇参りをされることがあるのですが、あるお寺さんが息子さんと一緒にお盆参りをしていた時のお話です。
子供は素直。大人は?
小学生の息子を連れて住職がお盆参りをしていました。
お檀家さんのお家に行き、住職と小学生の息子が一緒にお経を読んでいると、中には「えらいねぇ、よう参ってくれた」とその小学生の息子に対してもお布施をしてくださる方がおられます。
そこまではとても有難いお話なのですが、そのお布施を受け取った息子が、お布施を受け取るやいなや、お布施の封筒をクルっとひっくり返し、金額を確かめたのです。(封筒の裏に金額を書いていることが多いのです)
その行動に驚いた住職は、「そんなことしたらあかん!」と恥ずかしそうに注意をした。そんなお話です。
子供ながらに金額が気になったのでしょうね。
子供は気になったら周りの目もお構いなしです。
家の中でやっている事と、外でやっている事とあまり変わらない。
内と外と区別する私
しかし大人は、家の中でする事と、外に出ている時にする事では、過ごし方が違うこともあります。
今日は何も外に用事がないという日と、ちょっと買い物しに外に出るとでは、身なりといいますか、飾り方は違ってくるのではないかと思います。
一日用事がないと、どんな服を着ていても、少し髪の毛がボサボサでもなんともないですが、ちょっと外に用事があるという時は、そのままという訳にもいかないので、よそ行きと着飾ってからお家を出られるんではないでしょうか。
小さい頃はそんなの関係ない。
内も外も区別がない。大人になるにつれて、区別が出来てきて、飾る心が備わってきます。
みんなで写真を撮りましょうとなると、普段の値打ち以上に見せようという心が出てきませんか。ちょっとでもよく映る様に・・・
お念仏を称える時は、こんな心で唱えましょうということが説かれてございます。
至誠心(真実心)。嘘偽りのない、誠の心でお唱えしましょうと説かれています。飾らない、ありのままの心でお称え下さいねと説かれています。
環境で見えなくなる自分
いろいろと経験を積んできますと、これは“こうするものだ”とか、“こうしないといけない”という自分の考えというものが出来上がってきます。
ノミのジャンプ実験というお話があるそうです。
ノミというのは、大体2ミリぐらいの体長で、とても小さな生き物ですが、ジャンプ力はすごく、2メーターほど飛ぶことが出来るそうです。
体長の1000倍もの高さまで飛べるのだそう。(150㎝の人だとジャンプすると1.5キロ先に飛ぶことが出来るそれぐらいのジャンプ力があるそうなのですが)そのノミに50㎝の長さのコップを逆さにし、ノミを閉じ込めると、何度もコップの底に体をぶつけながらも飛ぶのですが、そのうち50㎝の高さに調整してそれ以上のぶつからない高さでしか飛ばなくなるのだそうです。
この実験が面白いのは、その50㎝コップを取り払ったらどうなるのか。
そのノミは50㎝しか飛ばなくなるのだそうです。もともと2メーター飛べたはずのノミがコップも無いのに50㎝しか飛ばなくなるという実験
というお話です。
自分のいる環境によって飛び方が変わる。その環境が変わっても、以前の環境のままに飛んでしまうのだそうです。
固定観念
この絵は何の絵に見えますか?
この絵はだまし絵といいますか、見方によって2種類の動物に見えるように書かれています。
頑張って2種類の動物が見えるように見方を変えて欲しいのですが・・・
これ1つはアヒル(鳥)に見えて、もう1つはウサギに見えるんですね。
ほとんどの方が鳥に見えたんじゃないかと思います。そして、一度鳥に見えてしまうと、そこからウサギを見ることはなかなか難しい。自分の中で「鳥や」という固定観念が出来ます。
一度、自分の中で“こうだ!”と思うと、それが間違いでもなかなかその思いから抜け出すことは難しいのでしょう。50㎝しか飛べなくなったノミの様に。
ありのままの自分で向き合う
インターネットである作文が紹介されていましたので、最後にご紹介させていただきたいと思います。
作文の題名は「私の母ちゃん、バカ母ちゃん」という題です。
私の母ちゃんは、ほんとうにバカです。いつも失敗ばかりしています。
炊事と洗濯を一緒にするから、煮物の途中でシャツを干そうとしていて、煮物が吹きこぼれ、火を止めに走ろうとすると、竿に通しかけたシャツは地面にほおりだされてしまいます。シャツは泥だらけ、そして煮物の鍋はひっくり返してしまい台無しです。
すると、バカ母ちゃんはひょうきんにすぐにおどけて謝ります。
「こんな私で悪かった。ごめんね父ちゃん、勘弁な」
すると、父ちゃんは「馬鹿だなぁ」と言って笑っています。
そういう父ちゃんもバカ父ちゃんです。
いつかの日曜日、みんなで朝ご飯を食べていると、奥からズボンと背広を小脇に抱えて、茶の間を走り抜けていきました。
「ああ、もう駄目だ。いかん、こら遅刻だ」と言って、玄関から飛び出して行ってしまいました。
母ちゃんは落ち着いたものです。
「まただね。しばらくしたら帰ってくるからな」
すると、案の定、父ちゃんは帰ってきて恥ずかしそうに「また無駄な努力をしてしまった。今日は日曜日だというのに」と言い訳を言っています。
そんなバカ父ちゃんとバカ母ちゃんの間に生まれた私が利口なはずがありません。弟もバカです。私のところは家中みんなバカです。でも私はそんなバカ母ちゃんが大好きです。世界中の誰よりも一番好きです。
私は大きくなったら、うちのバカ母ちゃんのような大人になって、うちのバカ父ちゃんのような男の人と結婚して、私のようなバカ姉ちゃんと、弟のようなバカな弟を作って、家中バカ一家で今の私の家のように明るくて笑い声の絶えない楽しい家族にしたいと思います。
とても素敵な作文ですね。私はこれ読んでいると、はじめの方は笑って読んでいたのですが、最後にはちょっと感動して、なんだか涙ぐんでしまいました。
内容は恥ずかしい失敗の内容ですが、この作文は嘘偽りない、ありのままの飾らないところがあるのではないかと思いました。だからこそ、心打たれたのではなかと。
もちろん人と人と向き合った時は、すべてありのままにというわけにはいかないです。お互いに相手を思いやる所から飾らないといけないことは多々あります。
でも、仏様と向き合う時、お念仏をお唱えし、手を合わす時は、どうぞ飾らない心で、ありのままの心で手を合わせていただけたらと思います。
日常とは違う感覚や思いでいられる空間がお寺やお墓、お仏壇の前なのだと思います。
そうぞ善きお盆を皆様お迎えください。