【小説】生きて下さい~願いは届く~
まえがき
この書は母と私、家族の闘病の記憶です。
僅かでも皆様の勇気に繋がることを心から願っています。
母が病気
15年ほど前の花見の時期、当時私は投資銀行本社の中堅どころの社員として忙しく働いていました。
今日も普段と変わらないはずだった・・・
昼休みを終えデスクに戻ると、午後の業務開始の合図のように電話が鳴ったのです。当然のように、お客様からの連絡だと思い受話器を取り、素早く左の肩と耳で受話器を固定し、左手でノートを広げながら、右手に黒のボールペンを握って、声の主を確認しました。
声の主は実家近くに住む姉でした。
泣いた後だったのでしょう。
姉は鼻声で母が病気であることを私に告げました。
動揺しました。。。。。
どんな時でも、笑顔を絶やさない母の病名は、、、
肺がんだったのです。
途端に膝がガクガク嗤ったのを今でも昨日のことのよう鮮明に覚えています。
次の日、私は東京から新幹線で2時間ほどの実家にいました。家族と話したいという医者から、母の病状について説明を受けるためです。
二つの決意
自分と同じくらいの歳のお医者さんがカルテを見ながら、やや気の毒そうに話し始めました。
母の癌はステージ4と呼ばれる末期であり、早ければ余命は2ヶ月という衝撃的なものでした。
空っぽになりました。
真っ白です。
幼い頃、泣いた私を抱き上げて、抱きしめてくれた母・・・
どんな時も微笑んでくれた母・・・
一緒に泣き、笑い、怒ってくれた母・・・
間違いを正し、励ましてくれた母・・・
どこまでも深い愛情を・・・
惜しみなく注いでくれた母・・・
会えなくなる、、、
会えなくなる、、、
いやだ、、、
なみだがとまりません、、、
放心状態のあと、我にかえった私は、固く決意しました。
一緒に闘うと。
そして、必ず治すと。
先生の説明を一通り受けたあと、諸々質問をして診療室を出ました。一緒にいた姉も、遠くに視線があり、悲しみの底にいるのが痛いくらいに伝わってきました。
父が留守がちだった為、母と姉と私の3人で過ごすことが多かったことや、
結婚してからも姉は母の近くにいて、一緒に時間を共有することが多かったこともあるのでしょう、、、
真っ白な状態から戻ってこれないでいました。
弱い気持ちが少しでもあるといけない気がしました。
絶対に治る
絶対に治す
みんなで闘う
何度も繰り返し心に刻みました。
奇跡の条件
余命2カ月という余りに残酷な宣告を受けましたが、それでも諦めることは選択肢に全くありませんでした。
実は母は3カ月程前に人間ドックを受けていましたが、その検査では癌は発見されずスルーされていたのです。
くやしさは相当なものでしたが途方にくれる暇など、もとよりあるわけもなく、私はすぐさま現状認識を正確にする為、先ずネットで肺がんについて勉強しました。
肺がんは主な種類として、腺癌と扁平上皮癌の2つに分かれます。幸いにして扁平上皮癌は転移の可能性が小さいことが分かりました。
ステージ4であることを考えると深刻な事態であることに変わりはありませんが、転移の可能性が小さいという事実は光明が差したかのような思いでした。
病気の内容を調べていくにつれ、その治療法は厳しい内容ばかりでとても回復を目指すものではないと思えるものばかりでした。
西洋医学での治療は、今の母の病状では外科的な施術しか有効ではないと考えた私は東洋医学の情報を読みあさりました。
東洋医学ではありませんが、私が可能性を見出したのは自然療法、気功、イマジネーション治療の3つでした。直ぐに書店へ行き、関連する書籍を6冊ほど購入して、読み進めました。何事にも慎重な私ですが、不思議なくらいその内容を素直に信じようと思えたのです。
中でも、東條百合子さんが書かれた『自然療法』という本は今でも大切にしています。もっともなことが書かれていました。
食事を通じて身体 は形成されているのだから、身体に良い食事をすることで自然治癒力や免疫力を高めることが出来るというものです。
良いと思ったことは直ぐに取り入れました。母に実践してもらったのは、飲み物は『びわ茶』に、食事は白米をやめ玄米にしてもらいました。更にお肉など動物性たんぱく質は極力控え、煮野菜中心の食事に切り替えてもらったのです。
また、毎日、気功と称し母の患部を前と後ろから手をかざしながら、治って欲しいとの思いを母の身体に伝えました。
私は宗教家ではありませんが、一緒に治すのだという意識を母と共有出来たことは効果があったと思っています。
最後にイマジネーションです。母には重い癌だということは伝えてありましたので、母にも頑張ってもらいました。
寝る前に身体の中をパトロールして癌細胞を見つけたら退治すること、そして、病気が治って元気になっていく自分を毎日イメージしてもらったのです。
母の側
私は当時、たくさんある業種の中でも特に労働環境が厳しいと言われる金融業界に身を置いていました。勤務時間は自主性を尊重するいう名のもと、早朝から終電近くまでが当たり前の世界で、今でいうブラック企業のような環境でした。有給休暇は制度的には充実していましたが、雰囲気的に取得するのは難しいものでした。
また、その頃の私の上司は誰からも尊敬されるような実力者であり、自分にもまた周囲に対しても妥協を許さない非常に厳しい姿勢で業務にむかう人でした。
私は母の側にいたかった。
外科的な手術を受けることになった為、その前後を含め会社を休む必要があったのです。ドクターからの説明を受けた後、一旦東京に戻った私のもとに手術は5月10日に決まったと連絡が入ったのは、戻ってから2日目のことでした。
母の側にいたい。
姉からの連絡の後、意を決して私は長期休暇取得の申請をする為、上司のもとへ歩を進めたのです。
優しさ
長期休暇取得の為、上司のもとへ向かう途中、私は休みが取れなかったら覚悟を決めるしかないという気持ちでした。
そう、私は部長の返事がどのようなものでも母の側にいることを決めていました。
「部長、母の看病をしたいので休暇をください。」
事情をひと通り話しました。
部長はそれまで記憶にないほど、なんとも言えない優しい表情で、
「おまえが気が済むまで休め、、、おまえの仕事はみんなでカバーするから会社のことは一切忘れてお母様の側にいなさい・・・」
その言葉の有り難さは忘れることが出来ません。
私は深く頭を下げデスクに戻りました。そして業務に再び取り掛かろうとすると今度は部長が足を運んで来ました。
なんだろう、、、思う間もなく
「何してるんだ、今日から休め、早く行け」
不意に涙が溢れました。
「はい」
さらに、普段は自分の仕事だけでいっぱいいっぱいの同僚たちも、余裕なんてあるはずもないのに、
「俺たちが引き受ける」と、、、
感謝の気持ちを押し殺しながら、業務の引き継ぎを行いました。
感謝の気持ちを押し殺したのは、「ありがとう」と言葉を口にした瞬間の自分に自信がなかったらからに他ありませんでした。
びわと玄米
仕事仲間の優しさに感謝しながら、その日の昼前には新幹線で実家に。
駅まで迎えに来てくれた姉に開口一番
「絶対に治そう。まだ若すぎるよ。」
なんでも良かったのです。
おそらく母が100歳を超えていても同じことを言っていたと思います。
ただひたすら、絶対に治すんだと家族みんなが強い意志を持つことが必要だと感じていました。
「う、うん、、、」姉は、込み上げてくる涙を我慢しているようでした。
実家に寄ることもなく、病院へ直行しました。
そう、母のもとへ戻ってきました。
僅か3日しか経っていないのに懐かしい思いがしました。
母は何とも言えない優しい表情で、「仕事は大丈夫なの?」と。
私は「仕事する為に仕事してるわけじゃないから、家族の為に仕事してるんだよ。」と。
また、母は優しく笑ってくれました。ただ、その表情は少し寂しだったのです。見逃さなかった私は
「うぅ?諦めてないだろうな?まだダメだからな。若すぎる。」
と笑いながら言いました。
「治すんだよ、何かがなんでも。」
自分にも言い聞かせながら。
早速、病院側に相談とお願いをして次の日の食事から、白米の代わりに玄米を、お茶はびわ茶を常用することを認めてもらいました。
母には効能を詳しく説明し、食事の間には気持ちという名の気功を私は母の身体に向けて行いました。さらに、びわの葉を取り寄せ患部のお腹側と背中側に貼りました。
手術の日まで毎日。そして、手術の日を迎えました。
手術
手術当日、母を改めて尊敬しました。
大きな手術を前に不安な表情を欠片も見せず、母は正に静寂の中にいました。
可動式のベッドに横たわり手術室に向かう母の手を握り締める私は言葉を発することが出来ませんでした。父と姉、私の三人は手術室の隣りの待合室に通され、手術が終わるまで待機するよう言われました。
自然に姉と私は両手を合わせ、母の無事を、手術が上手くいくことを、母の命を祈り続けました。
一時間くらい経ったのでしょう。
執刀医の先生が手術服のまま私達がいる待合室にやってきました。
どう説明されたかはよく覚えていません。
患部を切除する為、切開したが癌細胞が大きく、肺壁に粘着している。肺壁に浸潤していた場合は残念ですが切除を諦め閉じるしかない。という内容でした。
真っ白になりました。
神様はいない。
そう思いました。
どれほど泣いたでしょう。どれほど、ももを叩いたでしょう。
嗚咽がとまりませんでした。
天井を見上げ、
母さん、ごめんなさい。
母さん、ごめんなさい。
母さん。。。
立ち上がる力はありませんでした。
望み
手術中の執刀医が途中、切除が不可能な場合はそのまま閉じます、とわざわざ説明しに来たのです。
真っ白な頭の中で、そんな筈はない、
まだ何も親孝行出来てない、、、
これからしようと思っていたのに、、、
早すぎる、、、
まだ63歳なんだ
た、の、む、か、ら、お願いします。
逝かないでください。
生きてください。
母さん。
私の頭の中、半分くらいは痙攣しながら、何かに縋っていました。
いなくなること自体、その意味がわかりませんでした。
どれほどの涙を流したでしょう。
どれほどの祈りを、願いを神様にしたでしょう。
周囲の目など気にすることなく、嗚咽し続けました。
うん?
私は、はっと気付き姉に言いました。
途中、執刀医が説明をしに来て再び手術に戻ってから、既に2時間以上時間が過ぎていたのです。
「手術の時間長いよね?閉じるだけならこんなに時間かからないよ。」
「少し前から同じこと考えてた。」
姉も私も一縷の望みを手に入れたのです。
奇跡
手術の時間が長くなっていることに気付いた姉と私は、ずっと合わせていた手のひらに一層願いを込めながら、その時を待ちました。
執刀医が途中説明に来てから3時間余りが過ぎようとしていた時、手術用の衣を纏った恩人が再び現れました。
母が無事であることを魂で感じていた私たちは、先生が言葉を発する前に「ありがとうございました」と手を合わせたまま頭を下げていました。
先生は姉と私が落ち着き、受け入れ体勢が十分出来るのを待ってから手術の結果を語ってくれました。
正に奇跡でした。
肺胞の癌は肺壁へ粘着していて、浸潤していてもおかしくない状態だったと。浸潤まで至っていた場合は癌が転移していること意味し、肺の切除をしても危険な状態に変わりがなかったのです。
執刀医の先生は言葉を繋いでくれました。
「トライしてみたのです。すると、粘着していた部位がきれいに剥がれました。手術は成功です。」
思わずまた涙が溢れました。溢れた涙は感謝の気持ちそのものでした。
過酷な手術だったのでしょう。
かなり長い時間母は眠ったままでした。
母は目覚めた時、姉と私の顔を見てほんの少し口元を緩めながら、一筋の涙を流しました。
何も言葉は交わしませんでしたが、私たちは確かに会話をしていました。
がんばったね、母さん。
うん、ありがとう。
ありがとうは、こっちだよ。
ほんとによかった。
しばらくして、病院食が食べられるようになると、私は再び玄米とびわ茶を持ち込みました。
もちろん、気持ちを伝える気功も。
そして、数日後の検査でも癌の転移は認められず、予防的な放射線治療と数回の抗ガン剤の投与を経て母は退院したのです。
帰ってからは、食生活について私の講義が待っていました。
身体を冷やすような冷たいものは口にしない。
勿論、刺身などはダメです。
煮野菜(勿論、無農薬)中心の献立にして、調味料も極力控え、お塩は岩塩のみ。
白米は口にせず玄米を食し、お茶は常にびわ茶にする。肉類は厳禁で卵もダメ。たんぱく質を欲する時は、川魚を少し頂く。また、びわの種をすり潰した粉末状にしたものをお料理に使用するなど、手術の前から取り組んでいたことを、退院後も続けてもらいました。
あれから、15年が経ちました。
母は今も元気です。
私たちは、余命2ヶ月の宣告を受けましたが、決して諦めませんでした。
そして、その生還を1ミリも疑いませんでした。
西洋医学と自然療法が母と、私たちを救ってくれたのです。
日頃の食生活、大切です。
それから、厳しい表情は厳禁です。
どんな局面でも笑顔が大切です。
笑顔は自然治癒力の源でもあるからです。
諦めないこと、気持ちをしっかり持つこと、
そして、信じること。
奇跡は起きました。。。
あとがき
健康になってください
私が母の病状を知った時、真っ先に考えたのは西洋医学=病院の治療だけでは治らないということです。
そう考えた私は東洋医学に希望を託そうと思いました。
本を読み漁り、行き着いたのは自然療法です。
本来、人間が持つ治癒力を高める=免疫力を高めることで病気と闘うことが出来ると考えました。
この書が皆さんの勇気の一助になることを、母とともに切に願っています。
向井慶太
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