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5.ポリープは初期ガンに成っていた!

5-1.念のため大腸の一部を切除

退院後の最初の外来は、GW明けた5月9日だった。担当医によれば、採血結果は異常がなく、ポリープ切除術は成功していた。しかしである。削除したうちの一つ、怪しいと言われていたポリープは、生検の結果、やはりガンになっていた。ガンはギリギリ、粘膜内にとどまっていたし、切り口にもガン細胞はいなかった。しかし残念ながら、ガンの一部が血管内に入り込み、小さなガン細胞が血液中を浮遊していた、とされた。こうやってガン細胞は血管を伝わって、別のところに転移するわけなのだ。ドクターいわく、このままでもポリープ切除は成功しているし、8割方問題はないと思う。しかし転移の可能性を残して、完治とは言い難い。問題となっている血管と、周辺のリンパ節、ガンのあった大腸の一部を、外科手術で取り出すことを強く勧める、とのこと。

僕にしてみれば「うわあ」である。実は経緯からして、ポリープのガン化は「あり得るかもね」くらいには思っていた。しかしそのために今度は外科手術が必要になるとは、である。最初はただの念の為の検査やったのに、どんどんと話が大きくなってないか?とはいえしかし、今さら引き返すこともできない。医者というものは必ずリスクとベネフィットを秤にかけて判断する。医者が勧めるということは、手術をするリスクよりも、利益の方が大きいのであろう。しかも今のままでは、僕のガンはステージさえ確定しない。周辺転移がなければステージ1だけど、血管やリンパに散っていたらステージ3になるのである。ならばならば、ここで怪しいもんは根こそぎにしておいた方が良い。決意だけ書くといさぎ良いけれど、実際はその10倍以上も、僕は憂鬱で愚痴っていたのだ。それでも僕は一歩踏み出すことにした。分かりました先生。それでは外科に移してくださいと伝えた。

さてそうなると、それはそれで、またしても次々にやることが出てくる。最初は胃カメラだった。大腸の手術の前に、本当に大腸だけで良いのか、他のガンはないのかを確認しておく、という奴である。僕は胃カメラも苦手だったが、前回の検査で鎮静がよく効いたので、それに期待することにした。翌週の16日に、僕は絶食して胃カメラ検査を受けた。その結果を聞けるのは、またしても次の外来予約の日、23日だった。本当にいちいちまどろっこしい。時間と手間がかかってかなわん。しかし総合病院には総合の良さがある。特に今回みたいに手術を伴う治療の場合、何が起こるか分からない。想定外のことがあり、町医者では対応無理でも、総合病院なら対応できる。そのように考えての選択だったのでやむを得ないのだった。

5月の23日、この日の外来はことの外混み合っていた。僕は延々と待った後で、内科医から胃カメラの結果を聞いた。食道から胃、十二指腸までツルツルのピカピカ、何の異常もないという。これは憂鬱な中で心安らぐニュースだった。もうこうなっては仕方がない。僕は今回のミッションに、全身リニューアル、オーバーホールのつもりで挑むんだ。その後で外科への引き渡しとなり、僕は再度、延々と待ってから、外科医の問診を受けた。本当にこの日の通院は1日仕事だった。外科医によると、手術は焦らなくても良いが、半年も引き伸ばすのはおかしい。6月から7月くらいが良い、とのことだった。それにむけて、心電図や眼科、大腸レントゲンなどの検査を受けることになった。眼科とか何故?となるけれども、実は全身麻酔の時に、目に影響が出ることがあるらしい。5月の後半から6月にかけて、僕は仕事の合間にちまちまと検査を受け続けた。

それまでに外科のドクターから手術の説明を受けていた。僕の場合、ガン化したポリープはS字結腸という部位にあった。だからそのS字結腸と血管、周囲のリンパ節をごっそりと切除するという。特に血管というのは、動脈と静脈でセットになっている。僕のポリープは静脈に浸潤していたらしいが、だからといって、静脈だけを取るわけにはいかない。結局は腹部大動脈から、大腸の各部に向かう血管系のうち、ガン関連を一式根こそぎ取ってしまう。すると今度はその血管が栄養を送っていた大腸の一部が壊死してしまう。内臓が体内で壊死するのはまずいので、当該する大腸も切り取り、血が通っているところ同士をつなげる。僕の手術はざっくり言えばそんな感じで、腹腔鏡でやるという。ドクターからダイエットを厳命された。内臓脂肪が多くて手術がやりにくい、と事前に叱られたんだ。

5-2.麻酔が覚めたら地獄行き

6月7日。僕は仕事で東京にいた。午後からの打ち合わせで時間があったので、何故か上野動物園でぼんやり動物を見ていた。そのときドクターから電話で、手術日の決定を告げられた。予定より少し早いが、6月19日に手術の空きがある。この日にしても良いか?僕は大丈夫ですと答えた。入院はそれより2日前の17日になった。入院日をメモした後、僕は引き続き一人で上野公園を彷徨った。サルや象やクマを見た。上野動物園はひたすら暑く、不忍の池はハスで埋め尽くされ、たくさんのカワウが泣き叫んでいた。フラミンゴが何故か目の前でポロリと産卵した。上野駅前で食った蕎麦はまあまあ美味かった。なぜかこの日のことはずっと忘れないような気がする。

6月17日。僕は荷物をまとめて入院した。もはや手慣れたものだけど、憂鬱はさらに10倍マシマシだ。なんせ今回は外科手術もある。僕は全身麻酔は生まれて始めてなのだった。この時点の僕は、しかしそれでも事態を甘く見ていた。腹腔鏡だし全身麻酔だし、寝ている間にすべて終わるわ、とそれでもお気楽モードだった。現実はそんな甘いもんじゃなかった。医者から厳命されたダイエットは間に合わなかった。入院がだいぶ早くなったからだ。病室は今度は前回とは反対側で、窓の外はごちゃごちゃした街並みが続いていた。部屋は4人部屋。僕はまたベッドサイドに血圧計とシーパップを並べた。翌日から重湯、そして絶食。僕は洗面台に向かい、何十年ぶりかで口ひげを剃った。麻酔のマスクの邪魔になると言われたからだ。術前の時間はみるみる過ぎていった。

6月19日。僕はすべての準備をすませ、歩いて手術室に入った。手術台は落ちそうなくらい狭かった。瞬く間にいろいろなことが起こる。僕は全身麻酔に落ちる瞬間を味わってみたかったけど、その記憶は残らなかった。次に気がついたとき、僕は地獄にいた!全くもってそうとしか言いようがない。激しく肩をゆすり起こされる。それと同時に目が開けられない強い光。耳にガンガン響く大声、それはどうやら僕の名を呼びかけ、手術はうまくいったと叫んでいたようだけど、凄まじい轟音に聞こえるんだ。そして強烈な痛みは腹部からきているらしい。「はい移動するからお尻をあげて」と身体の下に板を差し込まれ、僕は移動寝台に移された。あれよあれよという間に、ナースステーション横の特別室に移動。そのベッドの上でも、僕はたっぷり15分以上、目を開けることさえできなかった。

それでもなんとか必死の思いでスマホをまさぐり、目を開けてSNS用の自撮りをする。笑顔を作ることはどうしても不可能だったし、その場でSNSにアップもできなかった。本当にそれほど痛かったし、大混乱していた。自分の身体がどうなっているのか、寝たままでは見えなかった。腹まわりはテープだらけで、両足には伸縮する空気袋があって、血の循環を助けてくれているみたいだ。あとは角度的に見えないし、そもそも痛くて体を起こすなんてできない。ようするに僕は舐めていたのだ。全身麻酔で無痛手術といっても、それは術中だけの話である。麻酔が切れたら痛いに決まっているし、いくら腹腔鏡といっても、切った内臓を取り出す穴は必要だ。僕のへその下は5センチほど切り開かれ、今は医療用ホッチキスで止めてあるという。そんなこと考えただけでも恐怖だ。そして術後の傷の痛みは、薬で鎮静できるんだろうと安易に考えていたが、実際はそんなもんじゃなかった。もちろん鎮痛剤を入れているが、そのおかげでギリギリ我慢できている。鎮痛剤なければ死んでるよ、という痛みなのだった。

さらに1時間以上してからやっと僕は、もう一度スマホを出して、ようやく作り笑顔の自撮りをすることができた。手術直後の夜、痛みと不安で身動き不可能、寝返りも打てないにも関わらず、全身麻酔の名残りもあってか、僕はちゃんとシーパップもつけて、わりとしっかり寝たみたい。もちろん翌朝も相変わらずの苦痛。朝一番で採血があった。術後ずっと継続している点滴には、6時間ごとに鎮痛剤が追加されているが、それでも痛い。痛いもんは痛い。お腹の方にスマホのカメラをかざして、写真を撮ってみる。そうしないと見えないからだ。ヘソ下には大きな綿がテープで止められている。これが大腸を取り出した穴なのだ。さらに左右に2ヶ所ずつ、大きなテープが貼ってある。内視鏡を入れた穴だ。これらの穴の周辺が、ガンガンジンジンと痛む。オムツをつけた我が下半身は、あまりに痛々しく、情けなく、僕は本当に泣きそうだった。

5-3.何もかも甘く見ていたんだ

手術の後は当然ながら断食だけど、それは全然平気だった。人間って不思議なことに、点滴をしている間は空腹を感じない。点滴で血糖値が安定しているためだという。術後すぐの採血は、主に内出血や炎症を見るためのものだったのだろう。特に問題はなく、翌日の夕方から重湯が再開された。腹部は痛いのだけど、どこかの傷口が腫れたり膿んだりという兆候はない。なんとリハビリも開始された。寝返りも打てないのにリハビリなのだ。ベッド横に立ち上がり、足踏みをするのだけど、僕は30秒立つことさえできなかった。僕が入れてもらった特別療養室は、ナースステーションから近くて目が行き届くけど、残念ながら室内にトイレがない。そして共同トイレはナースステーションの反対側。ベッド横に立つことさえできない僕には、無限の彼方に感じられた。こんなん、歩いてトイレなんか行けないよ!

手術翌日の夕方、病室に執刀をした外科医がやってきた。僕はベッドを起こして、半ばあぐらをかいていた。とにかく痛いので、どんな体制が一番マシなのか、いろいろ試していたんだ。僕がしきりに痛みを訴えると、外科医はこういった。「それでも貴方は普通に喋って、私に痛いと言っている。でもね、本当に痛いってのは、言葉にならないんだよ。うんうん唸るだけ。それが何日も続くんだよ。私から見たら、貴方のは痛みのうちに入らないよ」その言葉は重かった。実際にそうなのだろう。我が外科医は医者として、そのような患者さんをたくさん見てきたのだろう。僕のこれは苦痛のうちに入らない。なるほど。僕は逆にちょっと元気になった。ひたすら唸るだけの人に比べたら、僕なんか全然マシ。それはその先生独特の、励まし方でもあったのだろう。痛みは3日もしたらかなり引く、と外科医は請け負ってくれた。それも励みになった。あと1日ちょっとの辛抱か。

僕が入れてもらっていた個室は、「重症者等療養環境特別加算」という名目の部屋だった。個室料金は取られないが、病状が安定次第、次の重症者のために、部屋移動をしなくてはならないこともある、ご了承を、ということだった。やれやれ助かった。僕のかかった総合病院の個室は高くて、1日2万円もする。10日で20万円だ。そうでなくても今回の手術や入院、直前に見積もってもらったら、50万円とかいう数字が出てきて、僕は卒倒しそうになったんだ。コロナの時はもっとエゲツなくて、医療費請求が500万近かったけど、あれは最初から公費だと分かってた。今回は100%自腹である。そこにさらに追加で個室料金とかなったら、そっちが原因で病気になりそうだ。そして運の良いことに、「次の重症者」は最後まで現れず、僕は結局退院まで個室にいることができた。これだけは本当に運が良かった。

外科医の言った通り、術後3日で、痛みはかなり和らいだ。尿カテーテルを外してもらい、食事も3分菜食、5分菜食、7分菜食と戻ってきた。僕はさすがに小便は尿瓶だけど、大便はオムツを使わず、トイレまで往復するようにした。コロコロ動く点滴スタンドを杖代わりにして、よろよろと歩く。ほん3日前には無限の彼方に感じられたトイレだけど、途中休憩すれば何とかいける。ここが頑張りどころだ。腹の傷はすべてテープが剥がされて、ホッチキスがむき出し。それはそれで嫌だけど、縫うよりこちらの方が治りが早いそうだ。さらに数日後、そのホッチキスも外してもらった。経緯は本当に順調だったけど、途中で正体不明の発熱をした。おそらくどこかが炎症を起こしているのだろう。抗生物質を入れてしばらく療養し、熱は下がったが、入院は2日ほど伸びた。退院間際は、ちょうど月末に重なっていた。僕は零細自営業だ。月末には締めや請求の作業がある。僕は数時間の外出許可をもらって、自宅にもどり、それらの処理をした。

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