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7.結局ウンコタレで終わるんかい!

7-1.大腸切除の本来の後遺症

前項で終わることができたらどれほど美しかったか。しかし残念ながら、僕の闘病はまだ終わらず、まだ次があったのだ。次は何か?といえばなんと便失禁である。便・失・禁。凄いパワーワードやな。すなわちウンコタレ野郎である。なんとも情けない話だけど、情けないところは書かない、というのも僕のポリシーに反する。とはいえ周囲の方々の気分の問題もある。この項目だけは、すべてが完全に終わってから、完全に治ってから追加することにしよう。この先の記述は当然ながら、かなり尾籠なものになるので、予めお詫びしておく。8月23日、総合病院とペインクリニックを受診。リリカが効いていることを報告し、ペインクリニックの女医さんに喜んで頂き、さて、次にどうやってリリカを減らすか、という話になった。リリカという薬は、一気に止めてはいけなくて、徐々に減らしていかねばならんそうだ。あと2週間我慢してください、と女医さんは言った。その後、少しずつ減らしましょう。もちろん僕に異議はなかった。1日5錠×14日分のリリカを処方してもらい、リリカ漬けの日々がはじまった。

疼痛はかなりマシになり、痛み箇所は鼠径部の端っこに達したものの、痛みは10のうちの1くらい。無視できる範囲に緩和された。ところがである。痛みの緩和と入れ替わるように、手術後、やたら回数が増えた排便が、さらに頻繁になってきた。1日10回以上になる。一度の排便量は少なく、しばらくするとまた出る。まるで数回かけて、大腸の中を全部出しきるような排便なのだ。固形物がなくなった後は、便の色と臭いがする粘液が出る。まるで直腸に入ってきた便を、蓄えることができないみたい。そしてヒトの肛門は、そんな頻繁な排便に耐えられない。そもそも僕は痔持ちなのだ。肛門がアウトになり、ウォッシュレットさえ苦痛になった頃、ついに大爆発がやってきた。ガチの便失禁である。幸いなことにそれは自宅で起こった。トイレ・・・と思った瞬間、もうすべては手遅れだった。ほんの10秒ほどで何もかもが出てしまっていた。

大腸がんの手術直後、僕は病院でオムツ野郎になったが、そのオムツに出したことはなかった。コロナ重症のICUの中では、オムツに出せと言われたけど、できなかった。垂れ流しというものは、やれと言われてもそうできるもんじゃない。僕ならば60年前のオムツトレーニングで築かれ、60年以上続けてきた反射に逆らう行為だからだ。だがその時、長年の反射は簡単に突破された。僕は我が身に起こったことに愕然としたよ。とりあえず周囲を汚さないよう注意してトイレに行き、パンツの中身を流す。本人はそのまま裸になってシャワー。パンツは漬け置き。物心ついてから初めての経験だった。しかしそれにしても。疼痛の次は便失禁とは!なぜこんな苦難が続くのだろう。まあせめて、両方が同時に来なくて良かった。両方同時やったら絶対に心を病んでただろう、と都合よく考える。

不幸中の幸い。僕は自宅で仕事をしており、どこかに通勤しているわけではない。その仕事もかなりリモートで、外出の必要はあまりない。とりあえず次の大事故を防ぐため、急いで薬局で紙オムツを買ってきた。僕は独身者で一人暮らしだ。仕事も遊びも自分の世話も、全部自分一人でやるんだ。紙おむつを装着し、しばらくオムツ野郎になるのだ。調べると便失禁自体は、大腸がん術後の後遺症として、珍しくないみたい。しかし手術の後遺症なら、術後すぐに出そうなもんだけど、なぜ今頃になって?頻便はその後も続き、数日のうちに、生活に支障をきたすほどになった。2回めの便失禁は、近場で買い物している時に起こった。もちろんオムツをしているし、飲食店ではなく、近くに人もいなかった。僕はただちに買い物を中止して外に出た。すぐに帰宅してオムツの始末をしないといけない。そしてそんな状態で自転車には乗れない。乗ってきた自転車を押しながら、とぼとぼ自宅に帰る。

しかし、自宅でオムツを始末して、シャワーを浴びた僕はそこで考える。ここで折れたらあかん。こんな程度で凹んでいたら、何もできなくなる。もう一度着替えて、買い物の続きに行くんだ。どうせ今ので空っぽで、しばらくは大丈夫だろう。病気は病気なんだけど、病気に気持ちが負けてはいけない。ウンコに支配されてたまるか。僕は二度目の買い物に出て、ちゃんと目的を果たした。こんなこと書いていると誰もが「なぜ医者に行かないのか?」と思うだろう。しかし残念ながら頻便に悩みだしたのも、便失禁したのも、全部週末で、病院が休みなんだよ。人体の調子はカレンダーに合わせてはくれない。だがそれでも、9月1日。日曜日の夕方になって、僕はついに耐えきれず、総合病院に行ったんだ。あと半日で月曜日の外来の時間になるのに、それが待てなかった。休日外来は高くつくけど背に腹は代えられない。それにこんな状態で週明け、仕事が動き出したら、とんでもないことになると思ったんだ。

7-2.オムツ野郎悪戦苦闘す

僕は休日外来の窓口で症状を伝え、いま一応オムツをしているが、いつ爆発するか分からない、できれば早く診て欲しい旨を伝えた。別に脅しているわけじゃない。ただ向こうだって、外来でオムツ大爆発の患者を診たくはないだろう。ちゃんと伝えた方が親切なんだよ。だいいち医療関係者は、もっと凄いもの見ているから、ウンコタレ程度じゃ脅かしにならない。それでも思ったより早く名前が呼ばれた。いつもの予約外来じゃないから、また初めてのドクターである。僕が必死で症状を伝えると、ドクターは深く頷いた。「それは大腸切除の典型的な後遺症です」「は?なぜ今さら?」と僕は目が点になったよ。後遺症なら、術後すぐに出るのではないか?なぜ2ヶ月過ぎてから後遺症が出るんや?「そういうことも多いんですよ」あっさりそう言われてしまうと黙るしかないのだった。がんによる大腸切除の典型的な後遺症、という診断は、僕にとっていちおうは安心材料だ。珍しい正体不明の症状ではないわけだからね。

ドクターは大腸が描かれたイラストを取り出して説明をしてくれた。僕が今回切除されたのは、大腸の中のS字結腸から直腸にかけて。ところが実はこの部分は、排泄前の便を溜めておく部位らしい。そこを根こそぎ切除されたので、僕は便をストックする場所を失った。食物が消化され、小腸から大腸に送られ、そこで便になる。しかし大腸の後半に差し掛かっても、溜める場がない。便はそのまま直腸〜肛門と一気に流れてしまう。それが今の状況だという。えええええ。とんでもない後遺症やんか。そんなの聞いてないよ。ドクターいわく、こういった後遺症は個人差が大きい。後遺症がまったく出ないか、出ても軽い人もいるらしい。まあ実際、僕も術後すぐは、排便回数が少し増えたくらいで、特に問題はなかった。そしてそのまま治ってしまう人もいる。だから手術の前に、あまりいろいろ言わないのだろう。そりゃそうだろう。術前にいっぱい言われたら、嫌がって誰も手術を受けなくなる。結果、助かる生命が助からなくなる。

すると目の前のドクターは、次に「ラスト・ワン・マイル」みたいなことを言い出した。Last one mileは、物流や交通業界において多く使われる「顧客にモノ・サービスを届ける最後の接点」みたいな意味だ。でもここで僕がいうラスト・ワン・マイルは全然違う。大腸から結腸、直腸、そして肛門に至るルートの最後の10数センチのことだ。具体的にいえば、肛門のすぐ上。そこに肛門括約筋がある。この最後の10数センチはとても貴重で、術後のLOCを大きく左右する。僕の今の病状はまるで、ラスト・ワン・マイルまで根こそぎ取られた人に近い。しかし実際には、僕のLast one mileはちゃんと残っているはずなのだ。そして人の体には代償という機能がある。失われたところを、他が補う。今回ならば、便を溜めておく部位は失われたが、今回新たにつないだ箇所が肩代わりをして、便を溜めるようになるらしい。しかもLast one mileの肛門括約筋も、僕にはちゃんと残されているはずだ。何故か今ろくに機能していないが、確実に存在する。だから肩代わりが進めば、従来通りの排便が可能になるはずである。

だが問題は、どれだけ時間がかかるか、誰にも分からないことだ。医者が3日と請け負うなら、3日間を我慢する。1週間でも我慢する。しかしこの場合、医者も何日で回復するか分からないのだ。1ヶ月?そんなに早くいけるかしら。3ヶ月?長いなぁ。年末じゃないか。それまでずっとオムツ野郎で、毎日のようにトイレで大騒ぎをするのか?ときどきウンコタレになって、無言で早々に帰宅するのか?それは大変に辛いことだなぁ。実はここに、お医者さまと患者の間の大きな溝がある。お医者さまにしてみたら、大腸がんをステージ1で退けたのだ。他にどんな文句がある?ってところだろう。オムツでもウンコタレでも死ぬよりはマシだろう。そりゃ確かにその通り。でもど素人である患者にしてみれば、自覚症状ゼロ、痛くも痒くもない大腸がんより、大便失禁の方がよほど大ごとなのである。平和な日常を破壊するパワー満点、LOCバリバリの事態だからだよ。ただこれは後から聞いた話だが、医療関係者は勉強のため、異常がなくてもオムツをして、あえて垂れ流しを経験するそうだ。そりゃ一度は自分で経験しないと、この情けない気持ちは分からないと思うよ。

翌日は僕の担当医がいる曜日だった。夜間外来のドクターはそこに予約を入れて、下痢止めを処方してくれた。その日と翌日の2回分、4錠。僕はすぐに2錠を飲んだ。大腸の蠕動を抑えるロペミンという薬だ。翌日、予約外来に行く前に残りの2錠を飲む。しかしこの薬はさほど効かなかった。予約外来で、担当医からも同じ薬を貰い、1回2錠、1日3回飲むことになったが、状況は改善されなかった。1日、10回以上も便意を催す。催したら即、出てしまう。一刻の猶予もないから、トイレの扉は開けっ放し、照明はつけたまま、便座は下ろしたままだ。便は数回でなくなり、その後は「空打ち」で何もでない。それでも排便時と同じ苦痛に歯を食いしばる。こうなるともうダメだ。仕事どころじゃない。まさにウンコに支配された状態で、排便のこと以外、何も考えられない。それでも僕はなんとか状況の改善を考える。せめて肛門の痛みを何とかできないか?わずかの時間に覚悟を決めてタクシーに乗り込み、ホームセンターで「たらい」を買ってきた。せめて腰湯につかろうと思ったのだ。

7-3.体の中でゲル化して便を止める

僕は痔主経験が長いのでよく知っている。肛門の苦痛はお湯につかるとスッと消えるのだ。毎回浴槽にお湯は張れないが、たらいならばすぐだ。夜中に、2時間おきくらいに便意で起きて、トイレで空打ち、苦痛と冷や汗と肛門の痛みでへろへろになる。唯一の救いはシャワーのお湯だ。シャワーのお湯で腰湯をつかい、肛門を洗い、痔の薬を塗り込み、下腹部をゆっくりマッサージする。オートマチック。何も思考していない。ロボットになって、まさに機械的に体のケアをやってるだけ。体をふいてオムツをつけ、ベッドに戻る。10分しないうちに次の便意がやってくる。また同じことを繰り返す。ハッキリいって地獄ですよ。一晩じゅう何度も何度も、便意で跳ね起きてはそういう作業を繰り返す。明け方には精根尽き果て、ほんの2時間ほど、眠るというより気を失う。だが朝の光の中で、気がついたらまた便意が来ている。僕はこれを数日やって、もう本当に参ってしまった。

予約は2週間後だったが、1週間に無理に予約変更して、総合病院でドクターに、状況を切々と訴えた。毎日せめて数時間でも、排便以外のことを考える時間が欲しい。このままでは生活も仕事も無理だし、何が何やら分からない。先に書いた通り、僕の直腸はかなり長く残っている。しかし症状は、直腸をほどんど取られた人に近い。「今の薬じゃ話になりません」「もっと強力な下痢止めをください」。僕はより強力な薬があると思っていた。だって直腸をほとんど取られた人もいるわけでしょう?そんな人のための薬があるはずだ。この直感は正しかった。担当医が処方してくれた、より強力な下痢止め。それはポリフルという名前だった。この薬の効く仕組みはちょっと変わっている。他の薬のように、何か複雑なプロセスに作用したりとか、阻害したりとか、そういうんじゃない。この薬は消化管の中で膨らんでゲル化して、他のものを送っていく邪魔をする。ただそれだけなんだ。

体の中でゲル化する?とんでもないようだけど、特に別に便に変わりはない。バリウムみたいに便の色が変わるわけでもないし、どこにポリフルがあるのかも分からない。だが仮にこの薬を1日3回飲めば、体内に3ヶ所「遅くなる場所」ができるらしい。もちろん遅くなる場所は、ただ遅くなるだけで、全体が肛門に向かっていくことに変わりはない。ただそのプロセスが遅くなる。遅くなれば、大腸で水分が吸収され、便は正常なものに近づく。ようするにストッパーがなくて、水分吸収する時間がないのが問題なので、人工的にストッパーを入れてやろう、ということである。過敏性大腸症候群という病気がある。慢性的に下痢や腹痛を繰り返し、電車にも乗れないという病気だ。その患者とか、手術で直腸をほとんど取られた人とかが、このポリフルを使うという。しかしストッパーで便を止める?そんな原始的なことでうまく行くのか?僕は半信半疑でポリフルをお昼2錠、夕方2錠、そして夜中に2錠飲んで寝た。

翌朝の目覚めは静謐であった。また大げさな、とか言わないで欲しい。本当に、朝まで通しで眠れたのは、何日ぶりだったろう?覚醒する僕の目に浮かんだものは、どこかの工場、すべての部品や設備がキレイに並べられ、そこに静かに朝の光がさしている光景だった。通しで眠った頭はすっきりしている。体も心做しか軽い。いや、それくらい大げさに言いたいくらい、ポリフルは効いたのだ。しかし喜びに浸っている時間はあまりなかった。この日は午前中からクライアントをご訪問して、打ち合わせが入っていたのだ。本当にギリギリだったんだ。ポリフルが効かんかったら、どうするつもりやったんや?そして外出の支度をしている途中で、ショックなことに大爆発が起こってしまった。ポリフルは睡眠中、ある程度便を止めてくれはするが、覚醒中の何かの弾みまでは無理だったのだ。幸い、ギリギリになって、別の理由でご訪問は中止、リモート会議になったので、僕はなんとかクビの皮一枚で助かったのである。

さて、つまり、この時僕の手には2種類の薬があった。ひとつは大腸の蠕動を抑えるロペミン。もうひとつはゲル化して便を止めるポリフルだ。この薬をどう組み合わせて服用し、便を止めるか?この手のことは個体差があるので、僕の大腸に最適の方法があるはずだ。とりあえずはロペミンもポリフルも、1日4回、2錠ずつ飲むことにした。これは最大量に近い。効きすぎて便秘になる恐れもあったけど、心配していてもキリがない。どうとでもなれ。1日8錠のポリフルはさすがに効いた。頻便が少しだけ落ち着いた。やっとウンコ以外のことを考える時間ができた。僕は一日一回は外に出るようにしていた。家にこもって、トイレに通い、自分のウンコとだけ向き合っていたら、この世のすべてはウンコになり、僕は100%のウンコ野郎になってしまう。そんなのは真っ平だからだ。

7-4.気がついたら秋になっていた

外に出れば残暑の中に秋の風。なんと季節はすでに変わり、僕の夏はオムツとの格闘で終わっていた。小さな女の子がお母さんと一緒にスーパーで買い物中だ。お母さんから「お父さんはこのパンが好きなんよ」とか教わっているのだろうか?そうやって生命はめぐり、世界は回っていて、僕たちはその中で刻一刻を、最期の瞬間まで生きている。家にいるとそれが見えなくなっちゃう。だから僕はオムツをつけて、自転車で近所をゆっくり走る。もし便失禁してしまったら、とぼとぼと徒歩で、自転車を押して帰らねばならない。歩いて帰れる範囲内で、近所の花屋の花を見たり、肉屋のコロッケの匂いを嗅いだりする。空を見上げて考える。神さまはなぜ僕をウンコタレにしたのか?ひょっとして神さまは僕に「お前は急ぎすぎだ、もっとゆっくり生きろ」と言っているのかも知れない。だから神さまは僕を子供に戻した。ウンコタレの子供に返ってやり直せというのだ。人生の味、ひとつひとつをもっとしっかりと味わえ。僕はコロナで味覚障害になったとき、病院食で味覚を取り戻した。牛乳、パン、おかゆという風に。それと同じことだ。僕はそう信じることにした。こうみえて信心深いんだよ。

2種類の下痢止めを、1日4回、2錠ずつ飲む。そして様子を見ながら減らしていく。個人差が大きなことだから、試してみる他はない。排便障害はいつまで続くか分からないが、仕事は仕事で進めないといけない。「治るまで何の予定も入れない」なんて贅沢は、僕らフリーランスには許されない贅沢だ。明日にでも治る前提で、2週間後、1週間後、入れるべき予定は入れていく。その上で、ダメならキャンセルしてバラしていく。9月の半ばには、東京で展示会があり、僕のクライアントがブース出展をする。僕はそのブースのデザインをやらせてもらった。当然、展示会場に仕上がりを見に行かないといけない。ついでに写真を撮って記録にするのだ。その展示会は9月18日〜20日、東京ビッグサイトで開催される。僕は9月17日に前乗りする予定で、会場近くのホテルを取っていた。しかしその日程が近づいてきても、排便障害が治る兆しはない。その前週の前半に、僕は苦渋の判断をした。これはもう東京行きは無理だろう。オムツをしてカメラ機材を持って、新幹線と在来線を乗り継ぐなど不可能だ。特に在来線はヤバい。

僕はカメラマンの代理を立てた。ホテルはとっくにキャンセル料100%になっており、諦めるしかなかった。そして何とも皮肉なことに、この展示会あたりが、排便障害のラストだった。薬を増やしたり減らしたりモタモタやってるうちに、僕の大腸はようやく落ち着いてきた。それは薬の最適解が見つかった、というよりも、やはり時間が過ぎて肩代わりが進んだ、の方が大きいと思う。僕には予感があった。この排便障害は、正常化するときはあっという間だろうと。そして実際にその通りだった。便は相変わらず緩く、回数も多かった。しかしそれは退院直後のように、自分で制御できるものになっていた。それから腰湯などのケアが効いてきて、痔の苦痛がほぼなくなった。これだけでも全然違う。僕はあるタイミングで、天啓のように「もう大丈夫!」と感じ、オムツを外した。9月18日、代理のカメラマンが東京で写真を撮っている頃、僕の体はほぼ正常に戻っていた。本当に残念だった。あと1週間早ければ、予定通りの行動ができたのにな。

分かって貰えるだろうか。僕は自分で戦いたいのだ。自分の生命を医者任せになどしたくないんだ。身につけた知識と、医者から貰った薬を使って、自分で病と戦いたいのだ。医者を盲信し、医者の責任にして、治ったとかダメだったとか、そんなのは僕の人生じゃない。僕の人生は100%僕のものだから、一欠片でも他人に渡したくないんだ。医者はあくまでアドバイザーと薬の配給者。決めたのは僕。たぶん僕は最期の一瞬までそうすると思う。そしてやれやれと気がついたら、すでに季節は10月である。大腸カメラを申し込んだのは3月だったから、なんと半年以上も経過している。検査のつもりがポリープ切除の入院。そして大腸がん発見で再入院と腹腔鏡手術。さらには後遺症の神経障害性疼痛と排便異常。なんやかんやと半年以上も苦しんだ。医療費も嵩んだし、ひと夏を棒に振ってしまった。だが僕はその代わりに、この先20年の寿命を手に入れた、と思うことにする。20年はただの妄想だが、ガンについては事実だ。そう思えば、この夏の戦いはムダではなかった。いやむしろ大勝利なのだ。自覚症状ほぼゼロの大腸がんをステージ1で退けたんだ。

僕はいろんな思いを抱いて生きている。すでに60代の半ばになり、この先には不安しかないが、弟の分まで生きねばとも思う。10月の空を見上げながら、僕の記憶は、一気に40年逆行する。ああそうだ。カレンダーにマジックだ。僕は20歳の時、場末のキャバレーで黒服のバイトをやってた。キャバレーはまさに人生の終着駅みたいな雰囲気で、20歳の僕にはショッキングなバイト先であった。そこの帳場のオバちゃん。すでに70近かったと思う。畳半畳ほどの帳場で、座布団に座って、お金の出し入れをしながら、横の壁のカレンダーを、毎日、塗りつぶしていた。その日の日付のところを正確に四角く塗りつぶす。12月のカレンダーを塗りながら「もう今年も終わりやなぁ」と独りごちる。塗りつぶされるカレンダーの日付は、刻んでいく生命の日々だ。あのオバちゃんはとっくにこの世にいないだろう。そしていつの日か僕も終わる。せめてその最期の瞬間まで、自分が自分らしくおれたら良いな。最期までベストを尽くす。最後まで自分が自分でいる。そして自分で戦う。それが生きるってことじゃないかと思うんだ。

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