代官山で奇妙な落とし物を拾い、心臓を鷲掴みされました。
心臓を鷲掴みにされた。
大学一年生の頃、初めて代官山へ行ったときのことだ。
街並み景観の美しさにではない。
道端に「桃」が落ちていたからである。
さすが代官山、と言ったところか。路上に落ちているものが、小銭や子どもの片方だけの靴とかではなく、あの
桃
である。
MOMO
なのである。
僕はそれまで20年生きてきて、桃の落とし物なんて見たことがなかった。
その聞きしに勝る豪華絢爛さで、もう2、3年早く代官山へ来ていたらすぐに白旗を上げて、尻尾を巻いて地元へ帰っていただろう。
「これが代官山か……これがあの代官山なのか。はんぱじゃねぇ……」
そうだ、世が世なら間違いなく代官山は天下の大将軍になっていたな、と思う。
でんと構え、凄みのある豪放磊落(ごうほうらいらく)なその性格は、時に風雲児として畏れられ、
また時として、強きをくじき弱きを助けるその慈愛に満ちた心は、菩薩のようだと敬われた。
代官山は他の追随を許さないほどの豪傑、いや傑物と評され、後世に未来永劫語り継がれていただろう。
あぁ、いつかはお代官山様に仕えたい、わたくしめを死ぬまでこき使ってくださいませ。そう強く思ったほどだ。うそだ。
言うまでもないが、代官山にいる人は誰もみかんを食べない。
そんな素手で食べる庶民の果物なんぞ誰も食べないのである。当たり前だ。
りんごは?
否!
梨は?
否!
では何を食べるのか?
桃だ。
MOMOなのである。
だから誰かがあやまって桃を落としてしまったのだ。
それがセレブな街、代官山である。
そんな代官山にお前は立ち向かえたのかって?
それに対する回答として、
まずうちのセレブさはどうかと先に言っておくと、
僕が地元の友達と滋賀へ梨狩りに行く日の朝、寝坊してしまい時間がないから朝ごはんはいらないと母に言うと、
じゃあもうむいてあるから、
「梨だけでも食べていき」
と言われた。
いらぬ。
「これから梨狩り行く言うてるのに、なんで朝から梨食べなあかんねん。食べるわけないやろ、そのチョイス絶対になしやわ、梨だけに。って言うてる場合か!」
梨狩りに行く朝でも、梨があれば梨を食べていくセレブとは縁もゆかりもない家で育っただけに、
道端に桃が落ちていることに心底驚いたのだ。
平伏せざるを得ない。ノックアウトだった。
そういえば、かつて、道端に落ちていた物で驚いたことがもう一つあった。
足
である。
これは比喩でも何でもなく、まぎれもなく人間の足が落ちていたのを見たことがある。
近所の団地のそばに、義足のおじさんが住んでいた。小学校の帰り道、多いときで週に一度は見かけた。
僕はその人のことを〝足ないおじさん〟と呼んでいたのだが、
足ないおじさんは、見かけるときはいつも義足を外して、地面に座っていた。
太ももの根本からまるまる外していたので、その足は義足とは思えないほどリアルでやけに生々しかった。
足ないおじさんは、よりにもよって、小学生の下校時間に、細い道で、地面に、太くて生々しい片足を外して、座り込んでいたのである。
初めて足が落ちているのを見たときぞっとしたし、足ないおじさんのそばを横切るのがとても怖かった。
だから、横切る度にお腹に力を入れていた。襲われたらすぐに対応できるようにしていたのだ。
「大丈夫、走って逃げれば追い付かれない。俺はクラスでかけっこ一位だ。リレーではアンカーなのだ!」
なんだったら足ないおじさんの片足を持って逃げてもいい。
片足はそこに落ちているから。
掴めるのか?俺はその足を掴めるのか?
僕はいつでも頭の中で〝足ないおじさん〟と闘っていた。
「名前はなんて言うんだい?綺麗な足をしてるじゃないか。君の足をもらってもいいかなぁ、ふははははは」
仮に片足をとられることになったとしても、ギリギリの隙を見計らって、タンスの角に小指をぶつけてから渡そうと思っていた。
「や、やめろぉおおお。わしは綺麗な状態の若い足がほしいんだ!小指だけは、小指だけは勘弁してくれ!!!!」
せめてもの抗い。転んでもただでは起きないぞという強い意志、私は屈強な身体と折れない心を持ち合わせている。
「わ、わかった、10万でどうだ。これで手を打たないか、これだけあれば一生遊んで暮らせるぞ。悪い話ではなかろう、少年」
お金なんていらない。これは男と男のプライドを懸けた闘いだろうが。あぁ望むところだ、いざ尋常に勝負!アホだ。
結局、おじさんに足はとられなかったし、代官山で桃の落とし物は二度と見かけなかった。
今日、自転車の鍵を落とした。
駅から歩いて帰った。
歩きながらいろんな落とし物のことを思い出していた。
少し生暖かく感じた。
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