詞藻の裏を覗いてみると
詩文などを書くのに、顕わに表現するよりも、謎解きように真意を隠す方が奥深さを感じる。それを見抜いたときに、時に深い感銘を受ける。もっとも、それを解釈できなければ単に文字表現をそのまま受け取ってしまうのだが。
わが背子を 大和へ遣ると さ夜(よ)深(ふ)けて
暁露(あかときつゆ)に わが立ち濡れし (2-105)
大伯(おおくのひめみこ)が伊勢神宮の斎王として勤めていたとき、同母の弟大津皇子が夜中に会いに来た。夜明け前、暗いうちに見送り、いつまでも立ち続けていて、私の裾は朝露で濡れてしまった。という和歌を詠んだものだ。
ところが、この後に謀反の罪で持統天皇に囚われて処刑されてしまう。本来は父の天武天皇の後を継ぐべき皇子で、文武共にすぐれて人望の厚い人物であった。叔母に当たる持統天皇が、わが子の草壁皇子に皇位を継がせる為の策略だったかもしれない。あるいは実際に謀反を起こすために、たった一人の同母の姉に心の内を明かしたのかもしれない。そう考えると、この歌に隠された別の思いも感じる。
長歌
瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ いづくより 来(きた)りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて 安寐(やすい)し寝(な)さぬ(5-802)
反歌
銀(しろがね)も 金(くがね)も玉も 何せむ
勝れる宝子に及かめやも(5-803)
長歌を訳せば
瓜を食べれば子どものことを思い出す。栗を食べれば子どもがいとおしい。子どもはどこからやってきたのだろう。子どものことが目の前に浮かんで、なかなか寝付けない。
山上憶良が子供を詠ったものだ。親ならば当然の気持ちかも知れない、などと思うのは甘いかもしれない。
山上憶良の晩年にできた子で可愛いだけではなく、世は藤原氏が力を持ち始め、皇后は皇族から選ぶという慣習を破ろうとしている。天武天皇の孫、左大臣長屋王が謀反の罪で自尽させられ、藤原氏の娘光明子を立后させた。大伴旅人と共に太宰府に赴任していて、止めることもできず、子供が成長したときには、既に憶良も居ないだろうから、行く末を案じていたのかもしれない。
この様に時代背景までも考慮すると、和歌の世界の奥深さを推理する面白さもある。
北宋4代皇帝仁宋の時、柳永は科挙の試験で落ちてばかりいた。頭は良いのだが、酒癖が悪く、都で問題ばかり起こし、仁宋が落第にさせていたという話もある。40代でやっと進士の試験に合格した。
頑張っても悪癖の噂は消えることなく、けっきょくは地方に赴任することになる。この「雨霖鈴」は地方長官として都から赴任地に向かう途中、船を留めた宿で数泊し、馴染みになった女性との別れを詠ったものだとされる。何とも切ない歌だが、背景を考えると、ただの女好きの酒飲みが、女と別れるのが辛いというだけの話になる。
柳永の詩が素晴らしいので、古詞に合わせた作曲も素晴らしく、惜別の想いに涙さえ誘われてしまう。
こちらの南宋の詩人陸游(りくゆう)は、80歳を過ぎても最初の妻唐婉(とうわん)を思い続けたという。20歳で唐婉と結婚したが、余りの仲の良さに数年後に別れさせられた。その後科挙の試験に受かり、順調に出世をするも、地方に左遷させられる。31歳の時に紹興の沈園という庭園で再会する。再会の後、唐婉は間もなく亡くなり、陸游はいつまでも唐婉を思い続けたという。
何と軟弱な男かと思うが、実は南宋の中でも好戦派の先頭に立っていた人だ。秦檜(しんかい)のとなえた和平策に対し、北宋を侵攻した金と戦って倒すべきと訴え続けて、それが原因で左遷になった。
左遷の中、昔の妻と会い我が身の憂いを詩に詠んだ、と思われるととんでもない。この時は政敵秦檜とのバチバチの最中だった。
互いに愛し合いながらも別れなければならず、不遇の身であればなおさらその想いは強かったかもしれない。まして再会して間もなく、この世から去って永遠に逢えないとなると、忘れる事ができなくなる。裏読みをせずに、一生を純愛の片思いに捧げたと思うと、これは素晴らしい。この陸游、子供は大勢いたけど・・・。
言葉の裏を読まないと・・・、小説に比べ、短い文章の詩文であるからこそ、その奥には様々な想いが秘められているのだろう。