![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/172016469/rectangle_large_type_2_627899d847a7f76fa8600cc61603aed5.jpeg?width=1200)
初めての湯西川温泉の想い出
ただボーッとYouTubeを見ていたら、湯西川温泉への旅行が出ていた。湯西川温泉は最も懐かしい、想い出の多い温泉地だ。初めて此処に行ったのは、高校の2年、16歳の誕生日月に受け取った軽自動車免許証が嬉しくて、遠乗りをしていた頃だ。あの頃は温泉地とも思えないような豊かな自然に包まれた秘郷で、湯量も豊富な桃源郷を思わせる小さな温泉地だった。
終活もほぼ済ませて、今は未来を見るよりも最期の刻から過去と現在を振り返るようになった。湯西川温泉のほんの数日の出来事は、いま振り返ると、若かった刻の大事な一幕として忘れられない。
間違えて着いた温泉地
もう60年くらい昔になるが、16歳の誕生日の月に初めての免許証、軽自動車の免許を取得した。事故を起こして壊れても惜しくないようにと、直ぐに中古の軽自動車を買ってもらった。地図も持たず、もちろんナビもスマホも、地方には公衆電話さえろく無い時代で、休日には一日中、ただ闇雲に走っていた。それでも不思議と自宅に帰れたのだから、方向感覚は良かったのかも知れない。
バブル期よりもずっと前の、すこし大きな温泉地の鬼怒川を目指したときに、何を間違えたのかしだいに山間部の狭い道に入り、「温泉」とだけ書かれた小さな板の看板を目当てに、川の流れと並行して走り続けた。20軒にも満たなかったと記憶してる、小さな集落まで来て、突然道が途絶えるように狭くなった。そこが湯西川温泉だった。
適当な駐車場もなくウロウロとして、方向転換で入った庭が本家伴久萬久旅館だった。ちょうど掃除をしてる人に聞くと、この先はまだ続くが、道幅はかなり狭くなり、少し集落はあるけど他には何も無いと聞いた。何よりもここが何処だかも分からず、どう帰れば良いのか迷ってると話すと、中に招かれて地図を書きながら鬼怒川までの道を聞いた。その先は日光を目指せば帰れるようだった。
小さな家が並ぶ小さな集落と思っていたが、初めて此処が立て看板の温泉地である事を知った。ここ湯西川温泉の中でも、この古めかしい大きな木組みの大きな宿が、ここの中では最も古い宿だと聞いた。庭の掃除をしていたゴツい恐い印象の人だったが、意外と親切に温泉地の平家落人伝説なども話してくれた。車を庭の端に寄せて、裏の川に湧く温泉を見ると良いよと言われ、横の狭い道を通り湯西川に架かる橋に出た。
宿の前の狭い道の集落とは違い、川を挟んで数軒の藁葺き屋根が並ぶ、如何にも「落人伝説」がピッタリの家並みがあった。まだ整備もされてない自然のままの湯西川と、その横には川と同じ高さの小さな露天風呂があった。深い森の木々や太い蔦に覆い包まれるような川の流れと、橋の下流にわずかに開けた狭い土地に並ぶ藁葺きの家々、土産物屋もなく人影も少ない、不思議な空間をだった。この川を挟んだ風景が幻想的で、目的も定めない旅が好きなったのは、とつぜん異世界に引き込まれたような、この時の感動が強かったのかも知れない。
残念な事に、まだこの当時は日帰り温泉とか立ち寄り湯などという考えは無く、温泉宿は湯治が目的という考えだったので、温泉に入ることもなく、宿の人に礼を言って帰ってきた。
![](https://assets.st-note.com/img/1738056501-DrNx6uywZ9HviVJqbmSCMkUK.jpg?width=1200)
この湯西川温泉へオンボロ車で行った武勇伝を、芸大を卒業後、仕事もせず家業も手伝わずにいた姉さんに話した。この人は父の友人の娘で、幼い頃に父と一緒この家に行くと、姉さんは自室に呼んで遊び相手になってくれた。確か7歳だか8歳くらい上だったと思う。身体の弱かった子供の頃に、いつも側で面倒をみていた子守りのネエ達よりも少し年下で、けっこう可愛い顔をしていた。
姉さんとの温泉旅
姉さんの部屋でたわいも無い話をしていて、フッと幻想的な湯西川温泉の風景を想い出して話すと、行ってみたいと言い、数日後に連絡が来て、姉さんの車で出掛けることになった。姉さんはかなり裕福な家で、5人兄妹の一番下だから可愛がられていたのだろう。姉さんの車はもちろん軽では無く、ちょっと洒落た二人乗りの車だった。遠出の運転は面倒だからアンタが運転しな、途中で運転を代わることになったが、免許証は軽だからダメだと断ったのに、捕まらなければ分からないし、捕まったら私が泣けば大丈夫と強引だった。姉さんは何度かスピード違反や信号無視で警官に捕まったが、ゴメンナサイと泣くと許してもらえたそうだ。
学校には風邪を引いたと電話して、土曜日の早朝に出掛けることになった。初めての嘘電話で休み、しかも泊まるとは着くまで聞いてなく、更に二泊もして月曜日も休むことになったので、いつまでも忘れられない記憶として残っている。もう少しで夏休みに入るのに、この姉さんのワガママを、僕の両親は笑って許していた。
ちょうど昼くらいに伴久萬久旅館に着くと、また少し恐そうなあの人が庭の奥から出てきた。姉さんは車から降りて何やら話し、あそこに停めるようにと、前と同じ所を指さして。そこに駐めて車から出ると、オジさんと目が合い笑ってしまった。姉さんに話したらどうしても来たいって強引なので、そう言うと、ありがとうございます、と言っていたような。姉さんの小さな旅行鞄を受け取り、部屋に置いておきます、と姉さんに言っていた。この時まで泊まるとは思ってもなくて、僕は何も宿泊の用意などしてこなかった。
車から画材の入った大きな鞄を僕に渡し、姉さんはダッシュボードにあった小さなポーチを肩に掛け、広いツバのレースの帽子を被り、宿へは寄らずに横の狭い道を抜けて、川の方へ歩いて行った。湯西川に掛かる小さな橋の中程に立った姉さんは、薄いピンクの裾が拡がったワンピースに大きなツバ広の帽子で、帽子が飛ばないように手で押さえた姿は、姉さんの部屋で見た本の中の、日傘を差した女性の絵のようだった。当時はこの様な服装は珍しく、湯西川の周囲が、濃い緑一色の中に立つ姿はひときわ美しかった。少し離れて姉さんに見とれていたら目が合って、すごく綺麗だ・・・モネの絵の中の人みたいだ、などというような事を言ってしまった。
ひとしきり周囲を歩きながら、ときどきスケッチブックを拡げて描いていた。ねえ、お腹空いたから何処か無いか探してきて。この当時の湯西川温泉は本当の秘湯で、小さな温泉宿と民家が少し並んでいるだけだった。本家伴久萬久旅館が建物の大きさと門構えで日本旅館と分かるくらいで、他には特徴も無い集落でしか無かった。
まるで命令を受けた犬のように通りをめがけて走り、駄菓子屋のような「お土産」と書かれた看板の店に入り、この辺で何か食べられる食堂は無いか聞いた。この土産店でもソバがあるというので、直ぐに姉さんの所に戻った。やはり橋の辺りに姉さんの姿は無く、また周囲を走り回ることになった。
遅い昼食をソバで癒やし、宿泊の用意をしてなかったので、近くの雑貨屋を教えてもらった。旅館にあるわよ、そう言われても歯ブラシと歯磨き粉には拘りがあった。食後の散歩を兼ねて雑貨店、爺の田舎の万屋のような店まで行ったのだが、温泉地には相応しくないような姉さんの姿と、少し離れて付いて行く僕は、やはり注目をされていたようだ。湯治客の浴衣着と土地の人の視線を感じた。何ともいえない優越感のような、姉さんの匂いを追うようにワクワクと歩いた想い出は忘れられない。それと、本当の金属缶の歯磨き粉が置いてあり、歯ブラシとそれを買った。宿へ向かいながら、なぜ練ってあるのに粉でもないのに歯磨き粉なんて言うのかね、と一人で笑っていたが、姉さんは全く聞いてなかったようだ。
温泉宿で
宿に戻ると数台の自動車が駐められていたが、角張った様な白や黒い車体に挟まれた、姉さんの赤い流線型のフェアレディ、だったと思うが、特別に目立っていた。玄関を入ると直ぐに旅館の女将と例のオジさんが来た。あなた書いて。姉さんは宿泊簿を出されると僕に命令して、スケッチブックを取り出して、旅館から見える川の流れと、その先の覆い被さるような木々を描き始めた。
仲居さんは鍵を持ったまま、どうして良いのか、戸惑うように姉さんの方を眺めてるので、しばらく動きそうにないのでと鍵をあずかった。姉さんの旅行鞄は部屋に置いてあるというので、後で勝手に行きますからと部屋の場所を聞いた。
「お姉さんは画家さん」
年配の女将が飲み物を持って、声を掛けてきた。
「一応は東京芸大を卒業して、少し海外なども旅行をしながら描いてたけど、けっきょく絵は趣味なのかな。一番ワガママで自由人だから」
「キレイなお姉さんね。ご自慢でしょう」
どうやら本物の姉と弟と勘違いされたようだ。姉さんの所に飲み物を持っていき、声を掛ける。姉さんは一気に一杯を飲み、また描き始めた。
ひとしきり描くことに夢中になっていたが、辛抱強く待っていた女将とスケッチブックを拡げて話し始めた。僕は所在なく、一人で平家の一族に伝わった武具などを眺めていた。
声を掛けられ、待っていた仲居さんの案内で部屋に着くと、間もなく女将があらためて挨拶に来た。
「昨日の予約では小さな部屋しか空いてなかったのですが、ご家族様のキャンセルが入りまして、ご希望の二間続きが空きました。食事はこの部屋で、床は奥の部屋に用意します。当館の中でも広くて眺めの良い部屋です。ご自由にユックリとおくつろぎください」
部屋付きの仲居さんが茶を入れ、女将は明日の天気とか近くの見所などを姉さんに話した。姉さんと女将とは気が合ったらしく、いろいろと話し込んでいた。僕は風呂に入りたくてウズウズしていたのに。
「これ、外して」
女将と仲居さんが戻って、着替えの時にネックレスを外すように言われた。今日が初めて近付いた訳でも無いのに、姉さんの背丈が目の高さしかないのに驚いた。いつも命令口調で言われていたので、余り体格差など考えてもなく、上下関係だけが出来ていた。サッサと今までの洋服を脱ぎ捨て、下着だけになり、浴衣に着替えた。その姿が新鮮で、母や子守のネエ達と何気なく入浴もして、何も考えずに裸の姿を見ていたが、姉さんのそれは白くて艶やかで、細くて華奢な体躯だが、ただ美しいとしかいえない。姿見でチラチラ僕の様子を見ていたようで、堂々と見なさいよ、とつぜん下の小さな下着一枚で振り返り、浴衣に着替える前にこちらを向いた。
「今日のご褒美よ。トクちゃん、いつもお母さんとお風呂に入ってるんでしょ。どう、私と違う」
そう言ってポーズを取ったり、胸を揉み上げたり、廻ってみたりして、浴衣に着替えた。子供の頃から心臓が悪く、いざという用意に誰かと一緒の風呂だった。女性の裸体など見慣れていたのに、喉の奥からドクドクと心臓の鼓動が響くようだった。子供の頃、姉さんの家に遊びに行くと、一緒に風呂にも入っていたのを思いだした。
男女の内湯の過ぎた先に、川に沿うように屋根付きの混浴風呂があった。姉さんは混浴風呂を覗いて、誰も居ないけど・・・一緒に入ってみる、などと茶化すように言う。この時は男女別の内湯に入った。出てから、帳場横の公衆電話を借りて家に電話をした。明日も泊まることになったと言うと、既に母は聞いていたらしく驚きもしなかった。僕は今夜も泊まるなんて聞いてなかったと話す。そんな会話を帳場の奥の女将が笑顔で聞いていた。
「実は一泊のご予約でしたが、とても気に入ったとかで、近くを歩きたいからと先ほど連泊のご予約を頂きました。お姉様、お綺麗なだけではなくお話も面白い方ですね」
「ワガママで恐くて、逆らうことも出来ないし。一緒にいるのが長く感じて、早く帰りたい気持ちですよ」
部屋に戻ると布団は敷かれていて、姉さんは食事まで寝ると言って床に入ってしまった。食後に敷に来ると言っていたのに、少し休むので先に敷くように頼んであったらしい。何とも所在なく、一人で時間まで館内を散策した。年配の湯治客が多かったらしく、部屋の外で会うことも少なく、部屋に戻ることも出来ず、内湯と混浴風呂を出たり入ったりして過ごした。風呂に入ると、姉さんの着替えの時の姿が浮かんで困った。これから一緒の部屋で過ごすのも恐かった。
夕飯は湯西川温泉独特の料理が、広いテーブル一杯に拡げられた。部屋付きの50代くらいの仲居さんの給仕と、少しのおしゃべりは楽しいものだった。では、と仲居さんが戻ると、トクちゃんも飲みなよとビールを注がれた。まだ高校生だというのに、と思いながらも、あの頃のキリンの瓶ビールは喉に来るチリチリ感が好きで、父のビールを隠れて飲んでいた。
熊や鹿の肉の料理、一升ベラという味噌をヘラに塗って焼いた物、刺身や煮物や山菜料理など、品数も量も多かった。ビールが終わると、料理を食べながら骨酒を美味しそうに飲んでいた。細くて小さな身体の割に、よく飲んでは食べていた。そんな姉さんを見て、ますます憂鬱感が募ってきた。
「とても美味しかったわ。これ、板長さんへ」
「そんなお気遣いなど・・・」
仲居さんは何度か断っていたが、美味しい料理を作って頂いた板長さんへのお礼にと、旅館にあった便箋に包んだ心付けを渡した。
夜は酔った姉さんのお供で風呂へ、川風に当たろうよと、人気の無いのを確かめて混浴に入った。夜の川風はヒンヤリとして、熱い湯に浸かりながらの風が気持ちいい。女王様だった姉さんが、少し酔って横にいると、何とも不思議な気持ちになる。
「逃げないで、抱いても良いよ」
そう言いながら僕の腕枕に頭を乗せて、背中を向けて足を伸ばす。身体が浮くので滑り落ちそうになり、左の手で抱き寄せる形になる。足が絡みつき、お腹の辺りを抱いて、困った時間が長かった。運良くというか、誰も入ってこなかった。裸の女性を抱くなど初めてのことで、緊張してると、向きを変えて抱きついてきた。
「ごめんね。ちょっと寝かせて」
片足にまたがり首に抱きつき、子供を抱きかかえてる形になったが、浮いてしまうので腰の辺りを両手で抑えた。それでもずり落ちそうで、ドキドキしながらお尻を押さえた。本当に寝てしまったらしく、スースーと軽い寝息をしてる。湯の浮力もあり、軽くなった身体を支えながら、片手で尻を押さえ、片手で腰のクビレや背中の滑らかな曲線を擦りながら、冷えないように肩に湯も掛けた。嬉しいというよりも、誰か来たらと考えたり、このまま寝かせて良いのかと思ったり、それでもこんな事をして良いのだろうかと思いながら、姉さんの身体の柔らかさを確かめていた。
「あの、ありがとうございます。大変なお心付けまで頂いて」
風呂から上がり部屋へ歩いてると、遠くで二人を見つけ、女将が小走りに寄ってきた。
「いいえ、とても美味しいお料理で感激しました。あまりにも美味しくて、ついお酒も飲み過ぎて、お風呂で川風に当たっていたら寝てしまいました。ね、トクちゃん。寝てる間、私の身体を抱けて良かったでしょう」
「冗談じゃない。溺れないかと押さえていて、もう疲れて腕が痛いよ。早く誰か入って来ないかと待っていたのに」
姉さんの言葉にドキドキして、早口で応えた。
「仲がお宜しいのね。では、おやすみなさい」
湯西川の朝湯
5時に目が覚めてしまって、どうしたものかと迷っていた。外は明るくなっているようだが、日の出に当たる宿の対岸は高くそそり立った岩山で、部屋の障子に直接日が当たらない。
日頃は早寝早起きで、それも過ぎたくらいの早寝で9時には寝て、4時には起きていた。夕べ床に就くと、姉さんは直ぐに寝付いてしまった。姉さんの寝息を聞いてると、川沿いの風呂で抱いていた時間が想い出され、それが右半身に貼り付いた、妙に艶めかしい湯とは違う温もりが、肌の熱と感触が残っていて、なかなか寝付けなかった。
寝返りを打つたびに布団を掛けてやり、胸元や襟からのぞいてる肌や、布団から飛び出てた足や、乱れた髪からのぞく耳元に近付き、息で目覚めないよう、おそるおそる気を付けて匂いを嗅いだ。自分の布団に戻っては、バカだなと心の中で呟いていた。もしも時代が今だったら、様々な不必要な情報までも得ていたなら、匂いを嗅ぐなどという変態行為よりも、より直接的な行動を取ってしまったかも知れない。
あの時のことを想い出すと、むず痒い思いがして、同時にあの時の、布団から出た姉さんの身体を鮮明に想い出す。
横を向いてる顔に近づき、まだ寝ているのを確かめて、浴衣着を正して朝湯に行くことにした。
「おはよう。もう起きたの。早いね」
「ごめん、うるさかったかな。ちょっとお風呂に行ってくる」
「待って、私も行く」
もぞもぞ時間を掛けて、まだ眠そうな目で起きてきて、また外の風呂に入った。
「夕べはごめんね。なんか急に眠くなって。でもチャンスだったでしょう、お母さんと一緒にお風呂に入っても、抱き付いたり出来ないでしょう。どう、お母さんとどちらがトクちゃんの好みかな」
余りにも直球な質問に、もしかしたら足や襟元の匂いを嗅いだことまで知られてるのかと、心臓の鼓動が強くなった。不整脈の時の、あの突然の強い鼓動になった。
「姉さん、すごく細くて・・・。カアさんは肩からお尻まで横幅が同じくらいだけど、姉さんは細くて腰がすごく細かった。幅なんかカアさんの半分くらいかな。母さんの背中から腰は太ってて膨らんでるけど、姉さんの腰はすごく細くてくびれてて、お尻も丸くて小さくすごく綺麗だった」
自分でも訳の分からないような事を、何も考えもせずにダラダラと話した。
「バカね」と、嬉しそうに笑う。
なんか、どうでも良いような下らない話をして、なぜこんな事を話してるのか自分でもおかしかった。
熱くなったと言って、川沿いの縁に腰掛けた。ちょうど斜めに向かい合う様になり、姉さんを見上げるようになり、目のやり場に困った。昔のように子供扱いをしてるのか、あるいは僕の存在など、もう完全に消えてしまったのか分からない。
「チラチラ見てないで、堂々と興味があるなら見て良いよ。お姉ちゃんと弟のようなものでしょう。見てても、少しもおかしくないよ」
「ちょっと・・・、お臍がキレイだから」
「オヘソ・・・」言ってから、姉さんは自分のお腹をのぞいた。
「雑誌に応募したら佳作を取って、懸賞品としてボールペンが贈られて来てさ。それを学校で自慢してたら、友達からエロ小説を書けって言われて書いて、お臍が割れて子供が産まれるという場面を書いたんだ。みな意味が解らないらしく、早く赤ちゃんが産まれる場面だと言うと、急に皆に笑われた。ずっと子どもはお臍から産まれると思っていて・・・」
姉さんも声を出して笑い、誰から教わったのと言う。
「母さんも言ってたし、竹沢医院の子と同級生で、中学の頃に遊びに行き、アイツのお姉ちゃんが医学書を持ってきて、この赤ちゃんが大きくなって足で中を蹴ると、お臍が大きく膨らんできて、パッカーンて割れて、そこから出てくるって言ってた」
「高校生になっても、それを信じてたの。純だね、だからトクちゃんが好きよ」
川の上流を眺めながら、良いねえ、高校生は良いねえ。真顔になって遠くを眺めて、どうでも良いようなことを呟いていた。僕は姉さんのお臍と、母さんのよりもずっと小さいけれど綺麗な形の、胸の膨らみとを交互にチラ見していた。
そっと近付き、一生に一度だけの大胆な行動をした。姉さんの腿(もも)に寄り添うように耳を付けた。本当は膝枕をして欲しかったのだが、足の位置が高すぎて、足の付け根に頭を挟む形になった。姉さんは避けることなく、上になった片方の耳を静かに揉んで、何事も無いように一緒に川の上流を眺めていた。
後になって、なぜあんな事をしたのか自分でも分からない。想い出すと恥ずかしいが、白い柔らかい肌触りは忘れない。その後しばらく会う機会も無くなっていたが、姉さんの友人が駆け落ちをして、一緒に東京へ探しに行った事があった。成り行きで渋谷駅前の交差点で、何となく口付けをしてしまった。姉さんは友人を思って心が沈んでいて、僕は急に胸の中に抱いていた小さな姉さんへの思いが募って、勝手に独りよがりの恋をして、結局は別れることになった。あの時の強い想いは、湯西川のあの時から始まっていたのかも知れない。
耳を揉まれてウトウトしてると、あら・・・って、驚いたような声がした。
「ごめんなさいね。誰も居ないと思って」
「え、いえ、ここは混浴ですから」僕は慌てて離れた。
年配の女性が入ってきて、続いてご主人らしき男性が入ってきた。姉さんも肩まで湯に浸って、何となく気まずい雰囲気で朝の挨拶をした。二人は毎年数回、数日間の湯治に来てるそうだ。
「他にも宿はあるけど、ここが一番お料理が美味しいって主人が言うので」
「お二人は若いけどご夫婦かな」
「止めなさいよ、あなた失礼よ」
若い男女が早朝から入浴してて、好奇心が湧いたのだろう。
「姉さんは若いし、僕はまだ高校生ですよ」変な答え方をした。
「ああ、ご姉弟ね」
本当の姉弟ではないと言うべきか迷ってると、姉さんが親しげに話し始めた。
「弟がドライブでここに来て、すごく良い所と聞いたので、写生に来たの。本当に良い所ですね」
「静かで良いけど、少し離れすぎてて、鬼怒川からのバスの本数も少なくて。乗り損ねてタクシーで来ると、1時間以上も掛かって高いでしょ。せっかく来たのだから、長く楽しまないと」
楽しそうに姉さんとの話しが弾み、ご主人の方はさすがに若い姉さんを見てはと思うのか、少し離れて湯西川の流れを見詰めていた。
「私たちは自動車で来たけど、道が狭くて川が直ぐ横でしょ。すれ違いで落ちたらどうしょうかと、運転も上手でないので恐かったですね」
姉さんは如何にも自分が運転して来た様な言い方をしたが、実はずっと横で寝ていた。慣れない車の運転で、僕の方が緊張していたのに。
しばらく温泉地の見所などを聞き、外湯を出て内湯に入りなおして部屋に戻った。
豪華な朝食
ちょうど姉さんのお化粧が終わった頃に、朝食が運ばれてきた。
「あ、ありがとうございます。ちょうどお腹が空いたので、良かったわ」
鏡台の前で白い華奢な腕を伸ばして、髪を一つに束ねていた。僕は窓際の椅子に座り、顔だけは外を向けながら、目の端で姉さんの動きの一つ一つを見ていた。浴衣着の前が少し乱れ白い足が見えて、僕は風呂で果たせなかった思いの、姉さんの膝枕を夢想の中で楽しんでいた。
「あら・・・、ずいぶん豪華な朝食ね」
「板長さんが、お客様にお礼だとかで」
「あら、気を遣わなくて良いのに。お礼を言っておいてね」
仲居さんの給仕で朝食の用意が調い、姉さんは今日の予定を話し、下流の地域について聞いていた。
「家は点在してますが、多くは無いですよ。ちょうどこの辺り、湯が沸くここが少し拓けてて家も多いだけで」
「平家の落人伝説を聞いたけど、いつ頃から温泉地として知られるように成ったの」僕が聞くと、待ってましたというように、湯西川温泉の歴史を述べ始めた。
落人として隠れていたときに、鶏の鳴き声で見つかり、米のとぎ汁が流れてきたのを見つかり、逃げに逃げてここまでたどり着いた。未だに鶏は飼わない、米のとぎ汁は川に流さないという。遠くから目立つので、節句の鯉のぼりも上げない。
追っ手が来なくなってしばらくして、ここ本家伴久萬久旅館は300年以上前から温泉宿として始まった。温泉は充分に湧き出てたので、しだいに近在の人達が来るように成った。狭い土地なのでお米は作れず、木を切り出してシャモジやお玉を作って里に売りに行き、食料を買ってきたそうだ。
今でも食料として、この旅館の番頭さんも他の村人と一緒に、熊などを狩りに出掛けてるそうだ。たしかに駐車場で会ったとき、熊を相手に戦っても勝ちそうな顔をしていた。源平の戦いから300年前までは、けっこうな時間が経っていて、両方ともとっくに忘れただろう、などと腹の中で笑った。
では、ごゆっくりお召し上がりください。テキストに書かれていたような歴史の解説を一通りして、満足そうな笑顔になって部屋を出て行った。
「何も無いって言ってたけど、今日はどうするの。鬼怒川温泉まで行かないか」
僕は鬼怒川温泉の、あの時はまだ団体旅行がやっと始まり掛けていた頃で、鬼怒川の両岸に並び建つ、大きくて古い温泉宿の光景が好きだった。
「だめよ。昨日少し歩いたの。ポツリポツリと木々に包まれたように建ってる、小さな藁葺き屋根の家などすごくステキよ。嫌でも一緒に来ないとダメよ」
もしも姉さんと二人だけで暮らすと、毎日こういう風に話しながら食べるのだろうか。何をニヤニヤしてるの、と言われたが、いつまでも空想から抜け出られない。
食事が終わり、姉さんは薄いピンク色の、少し長めの半袖のブラウスに、白に近い明るいグレーの、作業員のような肩で吊ったツナギ服に、薄手のニットに着替えた。帽子は昨日と同じ、ツバ広の透けて見えるようなニットが、姉さんの華やかさと、爽やかな美しさを引き立てていた。布団を直すように言われたので、とりあえず整えてた。
「いま、私のお布団の匂いを嗅いだでしょう。トクちゃんて何でも匂いを嗅ぎたがるのね。ほら、お乳の臭いがするわよ」
顔が赤くなるのを感じて横を向いたら、姉さんが飛びついてきて、僕の顔を胸に強く抱き押さえつけてふざけだした。子供の頃に相撲だと言って、こうして息が出来ないくらい抱きしめられ、いじめられていた。やめろよ、と言いながら、強い力も出さずに胸に抱かれて騒いでいた。
うふん、うふん、と咳払いがして、すみません、お声がけをしても返事がなかったので、片付けさせてもらいます。隣の部屋で、仲居さんが申し訳なさそうに背を向けて片付け始めていた。
「ごめんなさいね。子供の頃にこうして遊んでいたのを思いだして。少し早く帰って、休むかも知れないので、お布団はこのまま敷いて置いてくださいね」
「お出かけは何時頃になります。お昼のお弁当はその頃に用意しますので、帳場までお声がけください」
「9時頃に出ようか」僕の方を向きなが言った。
僕は姉さんの下僕です
姉さんは帳場に声を掛け、弁当を受け取ると僕に渡した。僕は大きな画材を入れたバッグをタスキ掛けに肩に掛けて、イーゼルと弁当や飲み物を入れたバッグを手に持って姉さんの後について歩いた。姉さんはいつもの小さなポーチを掛けて、レースの帽子を深く被り、颯爽と前を歩いてる。昨日のワンピースのように、今日も何となく温泉地の状況からは浮いた服装に思えた。少し流行の先端を行く服装を着こなし、颯爽と歩む姿、如何にも別格の姉さんの後を歩くことが、いつもと違い誇らしく感じていた。
「ここ」
姉さんの指さした所にイーゼルを立て、画材を整える。姉さんは少しの時間眺めていて、一気に描き始める。親指と人差し指と中指のない手袋をして、左に羽箒と鉛筆を数本持ち、右手をせわしなく動かして描いていく。
森に包まれた何気ない祠や、小川の横の藁葺き屋根が、姉さんの描く絵の中では浮き上がってるようで立体的に見える。描き終わると、黙ったまま僕の方に鉛筆と羽箒を突き出す。姉さんの顔は描いた風景の方を向いたまま、満足げに頷くと手袋をまとめてポケットに押し込む。黙ったまま次に移動を始める。僕は急いで絵をしまい、イーゼルを畳んで後を追う。次の場所でしばらく眺めて、時には描かずに移動する。小さな姉さんの身体が大きく見え、自然の中に佇んでジッと見詰めてる横顔は、涙が浮かぶほど美しい。そんな僕を、何をボーッとしてるの、などと茶化しながら笑う。
「お腹が空いたね」
ちょうど湯西川の川辺を描き終えて、そう言うと描くのを止めて鉛筆を渡し、土手に座るよと言い、バッグからシートを出させた。僕は黙ってシートを拡げ、その上に弁当と水筒を用意し、画材を片付ける。何も言わなくても、次に何をしたら良いのか解るようになってきた。
姉さんの不思議は、ワガママなのに妙に手回しが良いと言うか、手の打ちが早いことだ。旅館に泊まることも、僕が電話してたら母さんはきっと反対をしていただろう。姉さんが電話したので諦めたのだろう。今日の宿泊にしても、早くから決めて女将に連泊を申し出ていた。この弁当にしても、いつの間にか用意を頼んでいた。
食べ終わると、バタリと後ろに倒れ、レースの帽子を顔に乗せ、そのまま腕を枕に寝てしまった。子供の頃はいじめられていて、今は意のままに動かされている。そういう自分に嬉しさも感じる。
母に以前、姉さんって東京から帰ったら綺麗になったね。そんな事を話したら、でも絶対にお前のお嫁さんにはしたくないねと言った。きっと僕は、姉さんの下僕として仕える事に、何よりも幸せを感じるのだろう。母さんはそう成ることが解ったのかも知れない。僕も横になりながら姉さんに目をやると、可愛い小さな胸の膨らみが見えない。でも目を閉じると形の良い胸の膨らみや、小さなぽってりとした唇が浮かんでくる。そしていつの間にか本当に寝てしまった。
自慢の姉です
人の話し声で目が覚めた。朝のご夫婦を姉さんが描いていた。もう鉛筆で二人の顔を描き上げて、今は川の向こう岸の、藁葺き屋根の家をバックに二人の立ち姿を描いてる。バッグの上に置かれた似顔絵は良く似ていた。
起きたのに気付くと、バッグの中に定着剤があるから用意して、と命令が出た。定着剤が解らない。こうするの。小さな、透明な液の瓶を出し、指で押すたびにシュシュッと霧状に出る。鉛筆画は汚れないように定着剤を塗るそうだ。
二人の姿を描き終わると、水彩の用意をして、茶色だけの濃淡でモノクロ写真のように仕上げた。
「上手いなあ」つい口から出た。
似顔絵は良く似てるが、それ以上に薄い茶の一色で仕上げられた絵は、見とれるくらい綺麗だ。描かれた二人も驚いていた。
「まだ乾かないので、後で宿の方に預けておきますね」
二人は離れて立っていたのに、絵の中では奥さんを抱き寄せるように描かれ、二人は感激して黙って絵に見とれていた。
その後も散歩をしながら何枚かを描き、宿に戻った。
宿に戻ると、仲居さん達や女将が、何やら忙しそうに立ち働いていた。僕たちが玄関に入ると、直ぐに女将がきて、どうでしたか、と訪ねる。
「とても素晴らしかったです。温泉も良いし、ここの自然の美しさも良いですね」
姉さんはそう言いながら、散歩中のお客様と会い、お二人を描いたので渡してくださいと、二枚の絵を出した。
「お名前を聞きそこねて・・・。まだ乾いてなくて、後で預けておくと言ったので、取りに来ると思いますので」
女将と、横から覗き込んだ仲居さんが驚いて声も出ない様子だった。
「これ、あの、あの部屋の・・・。良く似てる」
「お願いしますね」
それだけ言うと鍵を受け取り、疲れたから少し横になるね、と言って部屋に向かった。疲れたのは僕の方だよ、こんなにも荷物を持たされて、と姉さんが見えなくなってから愚痴を言う。宿の人達が興味ありそうなので、バッグからスケッチブックと、後で仕上げるであろう、少し大きめの紙に描かれたのを見せた。あまり皆が持つので、汚れると僕が叱られると取り上げた。
仲居さんが知らせたらしく、絵のモデルになった夫婦が来て、あらためて驚いて感激していた。鉛筆で描いた似顔絵はもちろん良く似てるが、それ以上に淡い色彩の茶色だけで仕上げられた絵は、二人の和やかな姿と、その背景にうっすらと浮かぶ湯西川と周辺の家が、まるで古い写真のように見えた。
「まだ完全に乾いてないので、しばらくは丁寧にとのことです。似顔絵は定着液を掛けたので、少しくらい擦れても大丈夫らしいです」
「あの、どのくらいお礼をすれば・・・」
「姉さんは趣味だから、そう言われると臍曲がりで破くかも知れない」
奥さんの方が絵を取り上げると、泣きそうなくらい嬉しそうに礼を言い、大切に抱きかかえていた。
「お姉さん、すごいですね」
そういう女将に、僕の自慢の姉ですからと言い残し、バッグとイーゼルを抱えて部屋に向かった。背中に聞こえる絵への賛辞の声がしだいに大きくなり、自慢の姉ですからと言った、自分の言葉をかみしめた。
人それぞれの秘密
見るからに華奢な姉さんは、休むことなく絵を描いて疲れたらしく、部屋に着くなり奥の間で乱暴に服を脱ぎすて、下着だけになり、敷いたままの布団に潜り込んだ。しばらくゴロゴロしていたが、足が痛いよ、と僕に訴えるように言う。僕はそれに応えることなく、新しく用意されていた茶を入れて、甘い物を食べた。
「ねえー、足が痛いよ」何度も言うものだから、仕方なく、どうすれば良いのと応える。
「さっき番頭さんに聞いたけど、良い鹿肉が入ったらしいの。トクちゃんに鹿刺しと熊さんのお肉頼んだから~、お願い~、ちょっとで良いから足を揉んでくれない。痛いよ~、動けないよ~」
僕が布団の部屋に入ると、こちらも見ずに、ありがとう、膝の下だけで良いからね、と言いながら、うつむきで寝たまま、威勢良く膝を曲げて布団をまくり上げた。白くて細い子供のような両足が並んでいて、足先に座って足首から揉み始めた。足を拡げると、いゃん、と変な声を出したが、抵抗もしなかった。足の間に座り、丁寧にふくらはぎを下からヒカガミまで揉み上げていく。
「ちょっと痛いけど、気持ち良いわ~」
5分も経たずに、もういいよ、ありがとうと言う。
「まって、足の裏も揉んでやるよ」
足先に座り直し、足の裏をしばらく指圧してから、丁寧に片足ずつ揉み始めた。かなり時間を掛けて揉んでから、土踏まずだけを指で押すように揉んだ。小さくて柔らかい足は揉みやすくて、揉んでいても手触りが良くて気持ち良い。男の足のように毛も生えてなくツルツルしていて、疲れたという母の足裏を踏んで揉んだ時のように大きく硬くもない。寝たようなので止めて立とうとしたら、「足、クサい」と言って上半身を起こして振り向いた。
「汗をかいて濡れてたけど、・・・臭くもないよ」
匂いを嗅いで見せ、少し汗の匂いと靴のゴムの匂いがするねと言う。
「バカね~、手を洗ってきてよ」
起き上がり、風呂に行こうと誘われた。
「鬼怒川から宿泊客を乗せたバスが着くのは4時頃らしいよ。それまで空いてるから、また外の風呂に入ろうよ」
なんで皆、こちらに入らないんだろうね、いつも空いてるね。などと話してると、あの老夫婦が奥さんの方から入ってきた。
「あの、あんなに素晴らしい絵をありがとうございます。お礼は・・・」
「良いんですよ、スケッチの合間に書いたものだから」
少し湯西川温泉の良い所を話し、話題も切れた頃。
「この露天風呂が好きなのは、湧いて出た湯がここに貯まり、こことここの二ヵ所から流れ出て、ほら、あそこで一緒に小さな川の様になって、湯西川に入っていくでしょう。だから・・・そういう人生になったら良いなあって」
・・・・・・
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ・・・
だったかなぁ、裂かるる、だったかな」
おかしな沈黙が嫌で、僕はどうでも良いような事を言って、場を繕おうとした。
・・・・・・
「あの、二人で湯西川に寄り添って立ってる絵、嬉しくて・・・、嬉しくて」
とつぜん奥さんが泣き出しそうな顔で言うと、ご主人も続けて話し始めた。
「僕たちは・・・、夫婦じゃないんですよ。世間的には不倫になるのかな。ずっと、ずっと、長かったね」
二人は子供の頃からの知り合いで、戦争前に結婚の約束をしていたという。奥さんの方は、戦中に病弱な親と一緒に、一家全員で田舎の遠縁宅に疎開をした。父親の病状が悪化して、戦後もその人の家に世話になり、復員してきた次男に結婚を迫られ、断り切れなかったという。
ご主人は復員して東京に戻ると、一面焼け野原になっていて、家族の行方も分からず、結婚の約束をしていた人の疎開先も分からず、食べるために懸命に働いてきたそうだ。小さな町工場に勤めたご主人は、戦前に帝大工学部に学んでいたので、その人脈と知識を活かして工場を大きくした。工場の経営者から、娘と結婚して後を継いで欲しいと頼まれて結婚をした。子供がいなかったので、現在は奥さんの兄の子供を社長にして、自分は会長職になり、顧問として社長を育ててると言う。
その後、二人は出逢う機会があり、不倫関係になったそうだ。奥さん、で良いのかな、子供が出来て間もなくご主人を亡くし、女手一つで育てた。男性はまだ不安定な工場を見捨てて別れることも出来ず、10年以上も隠れて逢ってるという。必ずいつかは約束したとおり一緒になろうと、湯西川では数日を夫婦として過ごしてるという。だから本物の夫婦のように、抱き寄せられた様に描かれた絵が嬉しいという。
まだ高校生の僕にとっては重すぎる話しで、言葉も出なかった。姉さんは黙ったまま、少しずつ僕に近づき寄ってきて手を握り、しだいにそれが強くなってきた。
「おかしな話をしてごめんなさいね。わたし、一人暮らしなので、あの絵は大事に飾らせてもらいます。あの絵があれば、いつでもあなたと一緒で、寂しくないもの」
そう言いながら、不倫の時だけ夫の方に目をやった。
部屋に戻ると、姉さんはいつもの傲慢な快活さが消えていた。タオルを干しながら、ときどき鼻をすすっていた。当時の僕にはあの二人の行為、不倫ということが許せなかった。互いに家庭を持ちながら、陰で別の人を愛せるだろうか。少し憤慨するように姉さんに言うと、ふらふらと近付き、ぶつかる様に抱きついてきた。
「抱いてよ。・・・もっと、力を入れて抱いてよ」
僕は女の人を抱いたこともなく、戸惑いながら背中を抱えた。
姉さんは、う、う、う、と小さく声を上げて泣いていた。不倫の話しに感激などしたのだろうか。聞いてみようとしたら、スーハアー、スーハアー、と大きく息を吐きながら呼吸を整えていた。
「もしも、もしもよ、私とトクちゃんが男と女の関係になり、結婚したいと言っても全員が反対をすると思うよ。歳が同じくらいでも、私が年下でも」
などと、おかしな事を言う。
ひとしきりグスングスンと鼻をすすりながら、僕の胸に顔を付けて泣いていた。僕は姉さんを抱いたことで、不思議な感覚になった。不倫とか男女の関係というよりも、夕べ風呂の中で寝てしまった姉さんを抱きしめたことも、今朝は一世一代の大冒険で姉さんの足に頭を乗せようとしたことも、そういう事ではなく、今ここで姉さんを受け止める事が、本物の大人になるための大事な一歩のように。
「今度は内湯に行ってくるね。顔を洗って、サッパリしなければね」
僕を突き放すように離れた。
「あなた・・・、トクちゃんも行ってきなよ」
何事も無かったように素早く出て行ってしまった。その時の僕は、何が起きたのか良く理解できなかった。フラれたのか、振り回されただけなのか。
帰ってから母さんに不倫夫婦のことと、姉さんが泣いたことを話した。急に真顔になり、もしも、もしもね、あの子との結婚話しが出ても、絶対に反対だからねと言った。姉さんとの旅行も今後は絶対にダメだと言い、その強い言葉に、僕が聞いてはいけないような、秘密にすべき何かが有ったと感じられた。姉さんと一緒に風呂に入ったことや、抱いてしまったことなど言わなかった。
何事も無く終わった
姉さんが戻ってきて、間もなく夕食の配膳が整った。仲居さんが最初の給仕をしながら、姉さんの絵が評判で話題になってると話した。姉さんはまんざらでも無さそうに、先ほどまでの涙も忘れたように笑顔になっていた。
姉さんが特注をしたという、様々な珍しい料理が並んだ。姉さんの前には瓶ビールと一緒に、骨酒が二つ火に掛けられて置かれた。
「この子ね、マッサージが上手で疲れも飛んでしまったの」
あら、と言う仲居さんと話が弾む。
「温泉がもったいないほど一杯流れてて気持ち良かったわ。温泉て良いよね。湯西川の家や自然や景色もすごくステキ。お料理も美味しくて、ついつい飲み過ぎそうね。温泉も良いし、トクちゃんのマッサージも最高だし、トクちゃんありがとうね」
「あら、本当に仲の良いご姉弟ですね」
ご機嫌良くビールで、僕はジュースで乾杯をした。仲居さんがいなくなると、姉さんはビールよりも骨酒が気に入ってたようで、ビールは一口だけで僕に押しつけ、まだ熱くなってないのに、小さなお猪口で飲み始めた。一升ベラやイワナの塩焼き、鹿刺しが気に入ったらしく、僕の鹿刺しも取ってしまい、骨酒が終わると日本酒の小瓶を頼んだ。
またお風呂で寝てしまう姉さんを介護するのだろうかと、今度はもう少し進んでキスなんてしても許されるのだろうか。キスをして、姉さんが起きて手が滑って溺れたどうしようか。などと妄想が大きく膨らみ、こうして大人への経験を積むのか、などと勝手な期待感ばかり大きくなった。姉さんが、いよいよ酔いが回ってきたと期待していたら、もう寝るわ、と隣の部屋へ行き布団に入り、すぐに寝息を立て始めた。
女心と秋の空、とはいうものの、命令され振り回され続けてる自分自身が、初めて味わう喜びのような感覚を覚えた。
一人でテーブルの上の物を食べ終え、風呂に入りたくなり、内線を繋いで片付けをお願いした。姉さんが寝てしまい、風呂に行きたいので鍵を掛けるけど、と言うと、合い鍵が有りますとのことだった。
隣を覗くと、布団に斜めに入った、女性らしくない寝方だ。仕方なく掛け布団を除けて、きちんと布団に乗せ、乱れた浴衣を整えてやった。裸で風呂の中では邪心も湧かなかったのに、乱れた浴衣を直してると、肌に触れたくなる衝動が湧く。帯の下から大胆に拡がった両腿の足を揃えて、浴衣の裾で隠すときには、抑えがたい衝動に駆られた。はだけた胸元を揃えるときに、手を入れてはいけないと思いつつ、見えてる肌に手を触れた。酔いのせいか大きく呼吸に合わせて上下し、肌は熱かった。抑えられなくなり、抱くように、はだけた胸に頬を付けた。
この後で、もしも姉さんと間違いが起きて結婚をする事になり、命令ばかりされて嫌になっても、僕は姉さんを裏切って不倫など出来るだろうか。ワガママで高級品ばかり身に付けて、自由気ままに生きてる姉さんが浮気をしたら、僕は許せるのだろうか。
例え裏切られたとしても、この人を守り続けなければいけない。この人の一生を幸せにするためには、例え自分自身の命を失っても良い。僕は化粧もされていない本物の姉さんの匂いと、ビールと慣れない日本酒で酔いが回ったらしく、姉さんのお腹の辺りに顔を移し、泣きたくなった。この人を一生幸せにしなければいけない。
ううーん、と声を出して横を向き、ハッと妄想が消えた。掛け布団を掛けて、タオルを持って出ようとしたら、ちょうど仲居さんが戸を開けた。今までの自分の行為を見られていたようで、合い鍵がどうのこうのと戸惑ってしまい、訳の分からないことを言ってしまった。合い鍵は持ってますよと見せられ、姉さんは酔って寝てしまったことを伝え、風呂に行く。
翌朝は、日の光を感じられるまでグッスリと寝た。布団には姉さんがいない。隣の部屋に行くと、もう起きて、洗面道具や化粧品をビニールポーチに入れていた。
「おはよう。よく寝てたね」
「おはようございます。ビールの他に、残ってた酒も飲んで、参った。姉さん、疲れは取れた」
「トクちゃんのマッサージが効いたね。今度、疲れたら呼ぼうかな」
簡単に朝の挨拶をして、風呂に行くことにした。今朝は内湯に入り、髪も洗って整えたいと言った。時間が掛かるから、先に部屋を開けてねと言う。
あまりにも普通の、明るい姉さんとの会話で、昨日のことや姉さんを幸せにするのが自分の使命だ、などと思っていたことが嘘のように消えていた。なによりも、外の風呂に入るという夢が消えた。
仲居さんが朝食の用意をしながら、姉さんにいろいろと話しかけてきた。ちょっとした有名人になったらしい。
「食べ終わったら早めに帰りたいので、お会計の用意をお願いね」
姉さんが早く帰るというと、ハイと言いながらまだお時間はありますよ、と言う。時間が過ぎても、他にお客様も少ないからユックリしても大丈夫ですと言うが、姉さんはスケッチした絵を、油絵として仕上げたいので早く帰ると言う。
仲居さんが出てから、帰りに鬼怒川温泉に寄らないのか聞いた。田舎の風景画として、二科展に応募したいらしい。
「イーゼルとこの絵の鞄は後ろね。他のと一緒にトランクには入れないでね」
「はい、はい」
僕が荷を運んでる間に会計を済ませたらしい。
迎えに行くと、玄関帳場前で女将や仲居さん数名と、コーヒーを飲みながら話していた。僕を見ると、あなたもコーヒーを頂きなさいよ、などと寛いでる。早く帰ると急かせていたのに。
車に乗ろうとしたら、鍵は、と運転席に乗り込んだ。帰りは運転するという。少しで良いから鬼怒川温泉に寄ろうというのに、絶対にダメ、イメージが消えないうちに描くと言って引かない。こうなると、もう何も言えない。
今の鬼怒川温泉は、閉館したホテルの廃墟群、バブルの負の遺産として有名になってしまった。姉さんと湯西川に行った頃は、団体旅行やバブル期の始まる前で、山と山の間の鬼怒川の流れに沿って長く続く旅館群は、他のどの温泉街よりも整って、建物の美しさと自然が調和し、日本の温泉美として誇れるものだった。
けっきょく僕はこの日に寄ることが出来ず、次に行けたのはバブル期も終わり、閉館が続いていた時期になった。
余談を少し書き遺す
二回目に行ったのは、22歳か21歳の頃で、飛び込みだったので満室だった。姉さんと過ごした印象が遺っていたせいか、この人とは最初にこの宿でと、強い想いというか、拘りが在ったのに、見事に出鼻を挫かれてしまった。この頃には「本家伴久萬久旅館」として立派な看板が立ち、誰にでも勧められる本格的な日本旅館の門構えになっていた。温泉街として街並みは整えられ、中心の道は綺麗に舗装されていたが、途中の道は狭くて舗装はされていなかったと記憶してる。
二人の子供が出来て、本家伴久萬久旅館に泊まった。お出迎えの太鼓が叩かれ、玄関をくぐると、帳場はそのまま風格を保っていた。帳場と反対側に平家に伝わる武具などを飾る展示室が出来ていた。食事は部屋出しではなく、食事処に一部屋毎に囲炉裏を囲んで出された。子供は囲炉裏で焼ながらの料理を楽しんでいた。
たしか、この頃に観光用の「平家の里」が出来たと思う。新しい道は直線で舗装されていた。運転も楽だが、秘境感は無くなってしまった。
次は伴久ホテル。湯西川温泉の途中に一軒だけの、湯量も豊富でホテル形式の清潔な建物だった。露天風呂は子供も喜んでいた。食事は食事処で、旅館とは違うまた違う並びだった。接客は子供への対応も良くて、旅行というと本家伴久萬久旅館よりも伴久ホテルへ行きたがった。「平家の里」の整備がされ、少し距離はあったが、伴久ホテルで自転車の貸し出しがあり、子供用の自転車も用意されていたので家族全員で行った。
震災後、伴久ホテルは計画停電や湧出量の関係なのか、詳細は分からないが閉館となった。現在は伊東園グループの傘下に入り、去年、ここに宿泊したのだが、露天風呂は半分の広さになっていた。湧出量の変化なのか、聞くことも出来ずに気になった。サービスに関しては以前と同じで、他の伊東園グループと比較すると、ここのホテルが一番良いように感じた。
「本家伴久旅館」に改名したのか、かずら橋も出来て、食事処は川を渡った先の建物になった。狭い道を挟んで姉妹舘が出来て、そこにも泊まった事があった。
去年行ったときに、湯西川駅と併設された立ち寄り湯や道の駅が出来ていた。湯西川温泉までの途中には「湯西川 水の郷」が出来ていた。食堂や土産コーナー、広い駐車場と立ち寄り湯、生活舘として民族博物館のようなものも出来ていた。
「平家の里」も以前よりも立派に建て替えられ、絶対に行くべき、湯西川の歴史も学べる所になった。
長く続いた不況のためにか、栄えていた頃に比べ、残念なほど寂しいものを感じた。インバウンドの恩恵も及んでいないようで、だからこそ決して高い宿泊費ではなく、湯西川温泉の自然と温泉を楽しめるかも知れない。宿も初めて行った頃に比べ増えた。豪華な宿や、民宿なみの価格で源泉掛け流しの宿もある。
アクセスは湯西川駅は離れすぎて、バスを利用するしかない。道路は見違えるほど整備され、快適に運転できる。ダムの見学や途中の立ち寄り湯を楽しむのも良いかもしれない。
ただ、姉さんと行ったあの頃の藁葺き屋根や、自然の中に飲み込まれたような点在する家など、全く面影さえ無くなってしまった。
今これを書きながら、姉さんの事を思い出す。田舎の旧家に嫁ぎ、子供も三人とか。近くには親戚も多く、厳しい義父母とも同居になったそうだ。暮らしぶりなど、その後誰からも聞く機会はなかった。
それと、湯西川温泉で出逢った、ここに来た時だけは夫婦になるという二人は、その後同じ流れに成れたのだろうか。