独劇
自分の劣等感と焦燥感、そして嫉妬に関して考えていた。
元より、劣等感は抱いてきたものでそれを払拭する様に演劇界に手を出して本来の自分を隠し、「役」の中の人物という人格に頼った。
自分がとんでもないもので、人に気をかけて貰えばもらうほどそんな大層なものでもなく、時間をとってもらってしまって申し訳ない––– そんなことばかりを常に考えている。
人より僕は劣っているのだ。
そう思う所以は自己肯定の低さからだ。何をしても無駄だと、自分は何をしてもどうせモノにならないと、もう一人の自分が虐めてくる。自己肯定が低い理由は簡単で、自分自身に罪悪感があるからである。
その罪悪感はなぜ生まれてくるのか。これがわからない。ただ常々思っているのが、「生きていて申し訳ない」ということだ。僕は、生きていることに罪悪感を感じているのだろう。
そんな自分自身が嫌になり、劣等感も罪悪感も自己肯定の低さにまで蓋をする様に生まれた別の考え方がある。それらとは全く真逆の考え方だ。
それは、「自分自身が最強でなんでもできる」と思うことである。祝福された人間だと思うことである。人間は誰しも二面性というものを持っているが、僕の場合はそれが非常に顕著に現れている。ある時は卑屈でどうしようもなく、またある時は自分が神に近く常人ではないと思う。厄介な事である。
この2人の自分は、お互いが表面に出ている時に裏で文句を言っている。例えば、浮き足立ってなんでもできると思っている方が出ている時は「何故できると思うのか。出来ないに決まっている」と卑屈な方が足を引っ張る。
このせいで出来ることが出来なくなったり、またその逆になったりするのだ。
尊大な自分の方は、なんでも出来ると思って役者不足な選択をして失敗をする。その尻拭いをするのは卑屈な方だ。そして、尊大な自尊心のせいで虎になりかねないと怯えているのも、卑屈な方だけである。
離人症というのを知っているだろうか。追い詰められるとふと自分自身を切り離して、自我がなくなる。何事においても自覚がなくなりぼんやりと夢見心地で現実感がなくなる。僕は、自分の自己否定が限度まで達するとこの離人を起こして殻に引きこもってしまう。
離人は心地の良いものだ。僕は嫌いじゃない。深く落ち込んだ時、逃げてはいけないという強迫観念から僕は、ふと自分自身をやめてしまうのだった。
誰かの記憶を見ているような、映画をみているかのような、そんな気持ちになるのだ。これは悪いことじゃない。そう自分自身に言い聞かせながら。
それとはまた別に、僕は生き急いでいる。これが焦燥感の原因だ。せっかちなのだ。急り、慌て、歩みを早める。
それを本来の自分の生き方として認めたくなくてわざと焦燥感に駆られる様な作品を好むのだ。
原因を内部ではなく、外部に作ろうとするといういかにも人間らしくもある逃げ方だ。
僕は焦ることで本来人間が生きるために必要な過程をすっ飛ばしている。これは、「生きることが罪悪感」な僕の正しい逃げ方だと思っている。
もの書かなくてはいけない、何かしなくてはいけないという焦りに駆られて、人間の3大欲求を全て忘れることだってある。食事は2日にいっぺんでも構わないとすら思っているのだ。
つまりのとど、僕は全くもって実用品じゃないのだ。生きることに無頓着で、嗜好すべき部分に自分の全てを注ぎ込みたい。
そういう欲求が、僕にはある。これを焦燥感と呼ばずになんといおうか。
そして僕はまた、僕自身から離れたいと思っているので他を妬ましく思うことが多い。そんな自分が嫌で離人するのだが...
僕の嫉妬の対象はあくまで「自分に似ている人間」だ。容姿や趣味嗜好ではなく、考え方の根本が似ている人間にその感情は向く。
考え方が近いのであれば、どうして自分はこんなに劣っているのだろう。
これに尽きるのである。
出来ることなど限られているのに、その出来ることすらもうまくできない。長く時間をかければ出来るはずなのだが、焦りのせいで結果を先急いでしまうのだ。
大丈夫、ゆっくりでいいとどんなに言い聞かせても、坂を転がる石の様に、急加速で落下していく。こうなったらも誰にも止められはしない。落ち切って石がひとりでに止まるまで、もしくは何かにぶつかって止まるまでは自分でコントロールが効かなくなるのだ。
良くないと思い、僕は嫉妬も劣等感もないフリをする。誰にもわからない様にうまく仮面を被って生きている。
僕はこの仮面が自分自身の顔に貼り付いて取れなくなってしまうことを想像する。
恐ろしいことでもあるが、とてもいい様な気もする。自分自身の感情を見せない様に、自分自身にも嘘をつきながら見ないフリをする。綺麗な仮面を被って、綺麗なふりをする。楽な生き方といえばそうなのかもしれない。
僕はこれを、最近では剥がそうとしてしまっている。楽であると同時にそれは人間ではないものになってしまう気がするからだ。仮面の下の顔を忘れてしまうということは自分自身を忘れるということだ。僕は自我が無くなることが一番怖い。
僕自身が変化していく前触れなのか、自分でこの状況を打破しようとしているのかわからない。
ただ、少しずつ何かが動いていることは確かだ。
それが毒味を帯びていっているのか、浄化されていっているのかは定かではない。
僕はゆっくりと、仮面を剥がして自らの汚い部分を流していく。そんな僕の、奇妙な独劇の観客に君はなってくれるだろうか。