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文学神話

僕のこの焦燥感と憂鬱感は、今に始まったことじゃない。
胸の奥がじりじりと燃えて肺の中に煙が充満していくような感覚はずいぶん昔からずっとある。
小さなころはそんなものを言語化できるわけがなく、ただ疑問と息苦しさを覚えながらそれを押さえつけるようにしてきた。

文章を読むのが好きだった。
たくさんの本を読む子供ではあったものの、それはあくまで児童書の範囲を超えることはなく、本屋に並んだかわいらしいイラストの表紙の小説を好んで購入していた。児童向けの本は、感情移入がしやすい。自分もまるで冒険者のような気になって、たくさんの世界を渡り歩いた。


国語の教科書は、凄い。
ドラゴンと戦ったり、不思議な本を手に入れたりすることが読書だと思っていた僕に、身近な物語を教えてくれたのは教科書だった。
同級生たちはめんどくさがって馬鹿にしていた教科書の小説を僕は授業中にこっそりと読んでいた。日常の中にあること。誰かのぐじゃぐじゃとした感情。そう、教科書の小説は人間の感情を凝縮したものが多かったように思う。それが衝撃的だった。
酷く共感したのを覚えている。
「少年の日の思い出」という作品では、少しの悪意がいつの間にか取り返しのつかないものになっていくという恐怖。嫉妬心。
「えんびふらい」では姉より早く食べきらないように様子を見ながらゆっくり食べていく子供ながらの競争心ともいえぬ感情。
「山月記」では自己への臆病な自尊心と尊大な羞恥心による憂虞。
など、子供ながらにたくさんのものを国語の小説から学んだ。

初めて読んだ時の衝撃と、脳裏に浮かぶ映像を今でも鮮明に思い出せる。そのくらい、自分にとっては印象深い本との出会いだ。
その時から、純文学とよばれるものを愛するようになった。

僕の心を慰めてくれるのはいつでも小説の中の言葉だ。最も身近で、優しくて、寄り添ってくれる。心がどうしようもなく寂しくなったときは、本棚から目についた本を一冊手に取る。そうすると、大体自分のいまの感情を代弁してくれている。本には、そういう信頼を寄せている。

本でつながっている友人が最も信頼できるのもきっとそのせいだろう。
「ひどい焦燥感だ」と言えば「檸檬を買ってきなさいよ」と言い、「発狂してしまいそうだ」と言えば「虎になるか?」と言ってくれる友人程、頼りになるものはいない。
僕の世界は、そういうふうにできている。

貰った言葉は忘れないが、心にしみた言葉はもっと忘れない。
そういう僕は、少しだけ僕を好きになれる。
文学の世界はずっとずっと優しい。

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鬼堂廻
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