「友人と檸檬」2021年6月18日の日記
友人がいる。
僕からしたら同胞といえるような友人で、妙に達観して物事を見ていてとても豊富な知識を持っている。時々会って、映画の話だとかどうしようもねえ人生だよとか言いあいながら酒を飲むのが僕はとても好きである。
話の組み立てもうまいし、知識に説得力を持たせるようなサーチ力もある。好きこそものの上手なれとはよくいったもので、彼は彼の好みとする治安の悪い情報を常に大量に抱えている。
僕は彼の文章が好きだ。緻密でどこか悲哀を含んでいるが、彼の語り口同然に論理的で読みやすい。考え抜かれて書いた文章なんだろうなというのがよくわかる。着眼点も面白い。彼は胸中の吐露を作品だとは認めていないようだが、僕は評価している。(なんだか上から目線ですまない)もっと恐れずに自分を出すべきだ、と思う。なーんて、僕自身もこうはいっているが自分の文章に自信があるわけではないのだから質が悪い。なにせ僕は結果が残せていないのででかい口を叩けるような存在ではないのである。
まあなにはともあれ、彼が自己否定しようと、僕は彼のことを友人として尊敬している。
さて、最近は「自分の文章じゃない文章」を書いて小銭を稼いでいるのだが、そうなると自我が失われていくような気になる。書きたいことを書けない世の中はポイズン、という感じだ。
自由にものを書けることがどれだけ素晴らしいか実感している。これがマッチポンプというものである。
ここ最近低気圧の影響なのか、倦怠感が凄い。何をするにしてもやる気にならず、ぼうっとして体が重い。なんなんだこれは。そうして何かわからない巨大な不快感と不安感に悪態をついていたら、一日が終わるのである。僕はこういう時、檸檬を思い出す。梶井基次郎のだ。「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。焦躁と言おうか、嫌悪と言おうか――」である。これを思い出し、彼もそんな風に思っていたなら仕方がない、と疑似文豪体験をして自己満足に浸るのである。
なんかこの話前もした気がする。
年を取ると、同じ話を何度もしてしまうのはきっと記憶の容量に新しく上書きできず、過去の思い出ばかりにしがみつくからなのだろう。
年は取りたくないものである。常日頃から過去に依存している僕としては、年を取ってぼけたときにずっと同じ話ばかりしてしまいそうだ。そうなる前に、さっさとおさらばできたらいいが。
そんなこんなで残業である。まったく。