炭酸水がカライ。
妄言である。
「あなたは幸せなのよ」なんて言葉は、何も知らない第三者だから言えることである。
「幸せだと思い込めば幸せなんだよ」なんて言葉は、原因追及をしようともしない愚か者だから言える言葉である。
そんな尖った言葉ばかりが頭の中を駆け巡っているのだから僕は今途轍もなく精神衛生が悪いと言えるだろう。身体の真ん中から罪を乗せた血潮が体中を自由に往来している「生命」の原理にすら嫌悪感を抱くほどだ。
僕は、他人のことはどうも思わないが、自分自身の生命活動が途端に気色悪くなることがある。
僕の許可なく動いている心臓や、勝手に伸びる髪や爪を嫌悪する。生きていることがとても嫌になる。
考えれば考えるほど気持ちが悪くなるのだが、かといって血を見るような自死を選ぼうという気にはならない。どうして死ぬのに苦痛を伴う必要があるのかとも思う。自分自身の意志で死ぬのではなく、もっと大きな力によって命を終えたいという願望もある。
しかしその反面、きちんと自分の手で幕引きを行いたいという不思議な自意識もある。終わり良ければ総て良し、という言葉もあるくらいだ。最後くらい、自分の望む姿で迎えたい。
僕の数奇な願望の一つに、「4畳半のボロいアパートで大量の酒瓶と、たばこの吸い殻、家賃振込の催促状の束、大量のカストリ雑誌、書きかけの原稿用紙に囲まれて首を吊りたい」というものがある。
何故そんな願望があるのかと言われてもはっきりとした答えは出せない。ただ、その中にある自分の遺体を見られたら悔いはない気がする。
全うしている感じがあるからだろうか。もがきにもがいて、異端な者として生涯を終え、普通に生きている人間の心に何か衝撃を与えたいという欲求があるからだろうか。
僕は自分自身のこともよくわからないので、その点はあやふやである。
ただ漠然と、そういう欲求が心の中に生まれて、それに蝕まれることがある。
「死ぬこと」に美学を持ちたい。
何事にも美学が無いのは嫌なのだが、僕は前述したように幕引きを一番大事にする性質だ。だから、その最後の自分自身を如何にうまく魅せられるかが重要になってくると思っている。
美学のない死は好きではない。
そんな偏ったことを考えている。
気分が落ち込んだ時は毎回、理想的な死に方を考える。
いつか実現できることを願って。