見出し画像

健やかなる感性の死

昔…そう、まだ大学生だった頃だろうか。


3冊本を出した。
もちろん、自費出版ではあるんだけれど。
大学のころから被写体活動はしていたが、文字を書く自分と人前に出る自分は完全に分離しているのだ。文字を書く側の人物に今回は注視して思考を巡らせていきたい。


1冊はエッセイホラーのような、詩集のようなよくわからないテイストで、1冊は完全なホラーで、もう1冊は歴史小説(と言ってもそんなたいそうなものではなくて、ただ駄文を書き連ねたものだが)というラインナップだ。


あの時は大学生特有のなんだか肥大した自尊心と想像力のはざまで若者ならではの苦悩をぶつける術が文字だと自信に言い聞かせていた。


執筆スピードは案外速いもので、まあ暇を持て余した中で金もなかったから想像しか娯楽というものが無かったのだろう。


文字を書くことは僕にとって脳の整理であり、声にならない叫びであり、救いであり、呪いでもある。僕は僕の吐く言葉に呪われながら生きているのだ。


きっとこの先も自分自身で吐いた言葉に縛り付けられながら生きていく。
誰に求められているわけでもなく僕は自分自身との対話と何か見えない焦燥感と大きな不安の中で文字を連ねていたのだ。


4年間の間に3冊の小説を出したその時の想像力と行動力を考えると、いまの僕には何があるのだろうか。
まだ卒業してから半年程しか経ってはいないが、この半年で自分自身大人になってしまったと思うことが増えた。


大学のころのように一日中薄暗い部屋に籠って適当なジャズを流しながら酒と煙草と文学に溺れて死にそうになる日はもう二度と来ない。
深夜冬の川に浸かることだって裸足のまま家を飛び出して檸檬を買うことだってベランダから見上げる星を曜変天目になぞらえることだってあの頃にしかできなかったことなのだ。


僕の感性は変わってしまった。


歳をとり、酒に逃げることを覚えてしまった今僕の思考は停止しているにも等しい。実に惨めで、最も思い描いていた「なりたくない大人」像の通りの末路だ。


この気持ちを吐き出すにも「めんどくさい」という感情が先走りどうにも自分から何か行動を起こす気にはならないのだ。
気づけばもう20をとうに超え、自分でもわからないほど生を重ねてしまっている。実に不愉快だ。


僕の計画では最も、早くに現世を解脱していくつもりであり(これは自らの死ではなく、超自然的に起こる死を望んでいる)命というものをあまり重く考えてはいなかったせいでもある。
いつのまにか現世自体にも愛着がわき、そこまでの嫌悪を抱かなくなってしまったせいもありぬるま湯に浸るように、この生き地獄に心地よさを感じている。

角が丸くなったとでもいうべきだろうか。自分に負荷をかけられなくなっているのだ。

僕は文字を書くときはぎりぎりの状態じゃないといけない。食べるものもなく、頼れるものもなく、お金もなく、いつも孤独に怯えながら共存していかなければ文字を書けない。


文学的な才がずば抜けているわけでもなく、ただ少しだけ他のことよりも好きだというだけの面白みのない状態のまま生きるしかばねのごとく僕はこの文章を書いている。


どうして書けなくなったのだろう。


もう1年ほど作品という作品を生み出せていない。文字を書き始めると脳が途端に切り替わり自分でも笑ってしまうほどに文章が生まれてくる、あの感覚が今はもう恋しいだけのものになりつつある。


大学のころも同じようなことはあった。しかしそれは数日経てば治る様な、典型的な軽度なスランプだったのだ。


僕は思い出す。


お世話になった教授がいつも言っていた「青春を過ぎたらあとは暗闇」という言葉を。


青春の感性の後味で残りの人生は生きていくという言葉が忘れられない。
僕はもう暗闇の中に入ってしまったのだろうか。



答えはわからないまま、夏が終わってしまった。

いいなと思ったら応援しよう!

鬼堂廻
有意義に使わせて頂きます。