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空腹というものが分からなくなった。
昔から食事という文化にあまり興味がなく、気に入った何かをひたすら食べていた。偏食なのかと言われるとそうではない。
好き嫌いがあるわけではなく、食事自体を実用的な行為だと認めた瞬間、妙な興醒めを覚えたのだ。
物心ついた時から、学校から帰ったら大抵「腹が減っただろう」と顔も思い出せないひとがおやつと称していろいろなものを差し出してきた。
それは洋菓子だったり、和菓子だったりとまちまちであった。
そんな中、とりわけ腹が減るわけでもなく、ただただその大人が悲しむからという理由だけで口に運んでいた。
人の目に怯え、嫌われないような妙に達観した子供だったせいもあり、それは悪癖的に今でも身についている。
食事においても、誰かと食事に行けばものの味なんて言うものはあまり理解できておらず、その空間とその人の表情を見て「美味しい」を判断するのである。
僕にとってはこれが「美味しい」という概念であるため、1人の時は別に食事を取る必要性がないと思っている。
その悪習慣が祟って一度倒れたことがあった。
栄養失調に近い診断をされて、無駄な時間を使ってしまってからは倒れないギリギリのところがわかるようになった。
同じように、腹痛や頭痛なんかも感じられなかった。
友人が片頭痛で悩まされているのを見て「大変だなあ」くらいにしか思っていなかったし、いざ自分が腹痛を患っても「痛い」自覚がなくただ妙に動けなくなってそのまま救急車で運ばれるなんてこともあった。
自分自身の異変に気づきにくいのだ。
僕は仕方がないと思っているのだが、周りに迷惑をかけることだけは避けたい。そう思ったので、腹が重くなって動きにくくなる事を「腹痛」と呼ぶ事にした。これで少しは周りに迷惑をかけることが減るだろう。
そんなことばかり考えている。
つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨な阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか? それなら、楽だ、しかし、人間というものは、皆そんなもので、またそれで満点なのではないかしら、わからない、……夜はぐっすり眠り、朝は爽快なのかしら、どんな夢を見ているのだろう、道を歩きながら何を考えているのだろう、金? まさか、それだけでも無いだろう、人間は、めしを食うために生きているのだ、という説は聞いた事があるような気がするけれども、金のために生きている、という言葉は、耳にした事が無い、いや、しかし、ことに依ると、……いや、それもわからない、……考えれば考えるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変っているような、不安と恐怖に襲われるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、どう言ったらいいのか、わからないのです。
まさにこういうことなのだ。