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それでも生きていく。後悔しながら、

朝9時半。東京、恵比寿。オカンからの着信があった瞬間、真っ先に浮かんだのは祖父のことだった。

99歳。大正14年生まれ。あの戦争を運良く生き抜いた祖父は、数年前から施設に入居している。8月に会った時は私のことを認識していたけど、その前は「誰や?」「誰や?」と気味悪がられていた。

ちょうど1週間前に、祖父は肺炎の疑いがあると施設から連絡を貰い、措置を受けていた。オカンから「いよいよ危ないかもしれん」「覚悟だけはしときや」と言われていた。「その日が来た」と直感した。

電話に出ると、オカンは案の定少し涙声で「病院に運ばれた」と知らせてくれた。ただ、その次の言葉に言葉を失った。

「運ばれたのは妹や」

ちょうど1か月前、私がお盆で帰っていた時に、妹はいきなり痙攣を起こして救急車に運ばれた。身体を震わせながら「心臓が止まる!」と声を震わせていた。しかし、10日ほどで退院していた。

この時で、既に5回目か6回目の救急搬送だという。体内に何らかの異常が起こっているが、病院では都度「原因不明」と診断されていた。1カ月前にようやく「脳内に血腫が出来ているから、それがホルモンに異常をきたしているのでは?」という仮説が出てきたぐらいだ。

そして今日。朝6時半に痙攣し始め、娘が通報したという。すでに心臓が止まっていたので、マッサージをしながら救急搬送したという。何度も心臓が止まったそうだ。その時間は、約20分。

東京から、実家・大阪まではどんなに急いでも3時間かかる。最期に立ち会えるだろうか。あんなに元気だったのに。腹の底から抉れるような酸味が込み上げて、その場で朝ごはんが口から出た。

「また連絡するから」と言われて電話は切れたものの、その日の午前中の記憶は全くない。



私と妹は、仲が悪かった。両親が離婚した際、妹は父親の方が好きだったから、その小さな「わだかまり」みたいなものが、ずっと2人の関係性に影響を与えていた気がする。

父親は、平成も初めの「DV」なんて言葉が浸透していなかった時代、「我慢しない女が悪いんだ」と言われた時代に、オカンに暴力を振るう人だった。刃物も飛び出す事態になり、家を飛び出して保護を受けた。妹だけは何ら暴力を受けなかったからか、父親のことを好意的に感じていたと思う。

一時は口もきかない関係だった。やがて妹が家を出て、家族が出来、子供が生まれて、私も家を出て、仕事に就き、社会人経験を積むようになり。ようやくポツポツと会話が成立するようになっていた。

でも、母子生活支援施設に入寮する時には妹を守ろうと必死だったし、数回だったけど誕生日プレゼントは何回かあげた。(そして、こんなんいらんわと言われて大げんかした)

嫌いだった。でもそれは、私より妹の方が、実は優れているという劣等感もあったように思う。自頭が良かった。運動神経も良かった。自慢できる妹だった。本当なら、良い大学に通い、良い会社に就職できたと思う。

「良い大学とか、そういう表現は昭和・平成のレガシーだ」というのは、東京でタワマンに暮らして涼しい部屋に暮らす金持った奴の意見だ。高校を出ていないという理由で職業差別に合っていたし、母子家庭という理由でバカにされていた。底辺扱いされていた。そのことを行政も政治家も問題にしてくれなかった。もちろん、それは本人の問題だ。だから、良い大学に行ってれば、と思っていた。

そんな妹からは、「おにい」と呼ばれていた。40歳になった今でも。結局、「おにい」ちゃんらしいことは何も出来ていない。

妹が務めていた会社が廃業して、無職になってしまう時も、私が起業して妹を雇う案があったけど、失業保険もあるだろうと私が面倒臭がり先延ばしにしていた。来年ぐらいで良いと思っていた。将来を不安に思い、酒量が相当に増えていたという。

久しぶりに妹の家に行ったら、部屋が相当汚かった。片付けられないというか、片付ける精神状態ではなかったかもしれない。

「女だから」「片親だから」という理由で、世間から、娘が通う学校から、馬鹿にされていた。大阪市は弱者にやさしい人が多い街だから、なんとか助かっていた面もあったと思う。



電話があった次の日、私は会社を休んで、大阪に帰った。妹は体にいろんな管を繋がれて、病室で眠っていた。

自然と涙が出た。

山は越えたという。血圧も安定している。なんとか生きているように見えた。話しかけたら、「うっるさいなぁ!おにい!」と起き上がりそうな肌の血色だった。

でも、妹は、(ほぼ確実に)脳死状態である、と医師から診断された。

38歳である。若すぎる。

子供もいる。オカンもまだ生きている。私だって生きている。早すぎる。

神も仏も無いんか?

もし神や仏がいて、妹に対してそういう寿命設定しているなら、私がすることは「なんでやねん」と突っ込むことである。狂ってる。

「脳死」という言葉が先生から伝えられて、子供は号泣していた。まだ何も返していない、まだ何もしていないと号泣していた。

実際にはそんなことは無くて、無事に生まれて、すくすく育ったことだけでも「返して」貰っているはずだ。妹も「そんなことないよ」と言うだろう。

でも、今じゃないでしょうよ。

もっと、やることあったでしょう。これからは、自分のために生きていくべきだった。子供が成長して、18歳を超えるまで、あと数年。これからは自分のために生きれるはずだった。

子どもたちを連れてディズニーランドに行く話はどうなったよ。東京の美味しいお店行くんじゃなかったんかいよ。まーた、嘘つかれた。

子どもは、あの時にもっと早く起きていたら、と泣いていた。もっと早く救急車を呼んでいたら、と泣いていた。医師は「やれることやってくれたよ」と優しく声をかけていた。

バカ野郎。そんな罪の意識を植え付けるような、そういう去り方をするんじゃないよ。私は胸が痛いよ。とりあえず、あの世にいる神も仏も信用ならないから、閻魔様に説教して貰おう。

私も、もし会社を起業して、妹が将来の不安を少しでも軽減させていたら…という後悔が拭えない。8月に妹の家に寄って、家の事情・心理の異常を察知していれば、何か変わったかもしれないという後悔が拭えない。

自分が許せなくなる。

この悲しさを、怒りを、苦しみを、罪の意識を、私は一生抱えて生きていくことになる。ちょっと触れれば、すぐに血がにじむような、一生治ることの無い切り傷。

妹は、これから数日か十数日、最期の日々を過ごすことになる。もしかしたら数十日か、数百日か。呼びかけても、もう応えてくれることはないけれど、私は何度も「おにい」と空耳がしている。



まったく公開する必要のないプライベートな話を、わざわざnoteに書いて公開するのは、自己顕示欲とかではなく、「もしお別れの挨拶をする時間も無く、今関係が良好じゃないけど大切な人が、突然いなくなったら?」という凍えるような悲しさを伝えたかったからです。

私と妹の、最後のLINEのやり取りは、2024年3月です。占いの結果を聞いていました。そんな最期ってあります?

体調が悪いとは思っていたけど、まさか命がかかわるなんて思ってもいませんでした。もちろん、心の準備なんてしていません。

「さよなら」と言ってお別れ出来たら良いのだけれど、せめて、心の中で良い関係を築けたねと言って、お別れしたかった。

仲の良い家族なんて少数だと思っています。家族だから許せないし、家族だから嫌になることもある。

でも、万が一を考えて欲しい。その人の最後が最期になるのが嫌なら、色んな想いはあるかもしれないけど何らかの手段で、繋がって欲しいです。

(追加)
妹は、10月6日午前7時32分に他界しました。38歳でした。

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松本健太郎
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