失恋の文学
「君のためなら死ねる」
こんな台詞めいたセリフを大真面目に言っちゃう大人が令和になっても存在するのか甚だ疑問だが、多分いる。
例えばバチェラーに出てくるような人達とか。
”究極の愛とは相手のために死ねるか”みたいな問答をやってた。
おいおいおい笑
バチェラーなんかどうせ台本でしょーと一蹴するのは簡単だけど、演劇には演劇の魅力があるんだからしょうがない。
でもそこまであからさまじゃなくても、それに近いような台詞を言ったり、考えを持っている人が実際たくさんいる。
大丈夫ですか?
SNSでインフルエンサーになる近道は”イタい奴”になること、って誰かが言ってたけど、
むしろ「君のためなら死ねる」みたいな台詞めいたセリフを大真面目に言えちゃうからバチェラーになれるんだろうなぁ…。やっぱり凄いぞ。
だってバチェラーになれないもん(私はどちらかと言うとなりたい)それなら”イタい”って思ってる側の負けですわ。
まぁそんなひねくれはともかく、もっと素直に人は「君のためなら死ねる」的なセリフに対してどう思うのかな、ロマンチック?
特に疑問を持たずに聞き流すだろうか。
これ全然、恋愛に限った話じゃないと思う、
令和だろうが昭和だろうが日本だろうがアメリカだろうが世の中は「君のためなら死ねる」なる価値観を推奨してくる。
「君のため、家族のため、あるいはすべての人類のために私が犠牲になろう」そんな人を”ヒーロー”と呼ぶらしい。
例えば、70数年前、我が国ではこのセリフが全然別の意味で使われていた。
「君のためなら死ねる」
君は大君、天皇のこと。もう半端ない覚悟で言ってた。もちろんヒーローだった。
一度死ぬどころじゃない、七回生まれ変わって死んだっていい。七生報国。
いまの私達からすれば本当に恐ろしいことだが。
でもよく考えてみてよ。
前者がロマンチックだとして、後者が恐ろしいのはなぜ?この違いはなに?
私はわからない。というかないんじゃないかと思う。
同じなら、恋愛においてこのセリフを恐ろしいと感じても良いし、
戦争においてこのセリフをロマンチックだと感じても良くないか?
●三島由紀夫と「堕落論」
三島由紀夫曰く、
「人は自分のために生きることにはすぐに飽きてしまう。それほど弱いから、すぐに何かの為に死にたがる」
戦時中、青年三島は自分が戦争で死ぬと信じていた。
少しも怖くなかった。むしろ幸福だとさえ感じていた。人は自分が死ぬと分かっていると妙に幸福になるのだそう。
しかも心の底から信じたものの為に死ぬ。惚れた相手のために死ぬ。三島はその”若き死”に”武士道”や”美学”をみた。
でも兵隊になれず、戦いもせず、死ぬこともなく、終戦を迎えた。ぽっかり心に穴が空いた。
心から愛した人に裏切られたみたいだ。「君のためなら死ねる?」そんな事言わないで、もうワタシあなたの事なんとも思ってないから。
夏の暑い日差しと、蝉の声だけが響いていた。この虚しさがわかるだろうか。
弄ばれた無垢な青年。二十の失恋。その強烈な体験が。
同じ頃、坂口安吾は40歳。
もっと大人でダンディな先生は、戦争と日本人を鋭く分析してみた。それで「堕落論」書いた。
戦時中の日本人がどういう気分だったか。
(安吾も三島と同様に曰く)世の中の雰囲気は、ある意味でとても幸せな感じだったらしい。
なんじゃそりゃと思うかもしれないけど、みんなで一緒に何かを頑張るのはシンプルに楽しい。と言うか盛り上がる。
善悪とかは関係ない(むしろ悪寄りの方が盛り上がるのかもしれないが)
ちょっと脱線するけど、なぜオウム真理教にあんなエリート達がのめり込んでしまったのか?
って仰々しくテレビで考察してたけど、そんなの簡単なハナシ、楽しいからに決まってるじゃん。
糞真面目で退屈な学歴社会の世の中に、彗星の如く謎の超能力のオカルト集団が現れたら、そりゃ楽しいよ。
ウソみたいなことほど、楽しい。バチェラーがウソみたいだから面白いのと一緒で。
(そんなこともわかんないで、バチェラーは台本だからつまらんとか言うヤツはマジでバカだな、モテないんだろうな)
戦争は”甲子園”みたいな感じだった。ウソみたいだけど。
大人も子供も男も女もみんなでワンチームだ!
地域一丸となって球児を応援しよう!誇らしげに汗を流し戦う少年たち。彼を見守る南ちゃん。
人生で一番、輝いてる瞬間。ああ青春。
理想のために命を賭した義士がいた、帰らぬ夫に一途に身を捧げると誓った聖女がいた。
でも戦争が終われば、勇士と同じ立場だった生き残りの帰還兵は生きる為に闇屋になり、
夫の位牌に額ずいていた女もやっぱり新しい人、好きになっちゃう。
”堕落”
何かの為に死ぬことを”やめる”のは堕落だ。理想は崩れ、もっとリアルな毎日がやってきた。
甲子園は終わった。勝てなかった。
君は巨人には入れないよ。パリーグも難しい。だからさ、プロ野球は諦めて、就活しようよ。
南ちゃんもサッカー部のヤツと付き合ってるし。
青春、終われり、夢破れり。
その”堕落”は悪じゃない、夢から覚めただけだ。安吾は堕落を肯定する。
というか、当然のことじゃない。明日からまた頑張れ、
生きることは”堕落”から始まる。
それは地獄の道のりだけどね。生きてる限りどうやったって堕落は防げない。失恋も防げない。
戦争に負けたから堕ちるのではない。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。
”生きよ堕ちよ”
安吾は容赦ないリアリストだ。孤高の男、エゴイスト。
虚構を徹底的に疑い。実益を愛する。
武士道?美学?なんですかそれは。権威なんてのは政治的な作品でしかない。
法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に構わない。必要なら駐車場にすればいい、
便利は良きこと。それでいいじゃねぇか。
家庭もまた然り、そんな狭いとこにわざわざ収まるのが、どうして美徳なんですか?
そんな檻みたいなとこに幸せがあると思ってんの?そりゃあるかもしれないけど、暗いよ、君たち。
虚しい義理や約束の上に安眠してどうする。檻の中なら安心安全かもしれない、でも安全で良いのかよ?
人は孤独。偉大で厳かな孤独を持ってる。
その曠野を歩いていくのだ。サバイバルだよ。
飯を食えばうまい、恋をすれば楽しい、酒を飲むのは楽しい。それでいいじゃねぇか。
娼婦、いいよ、尊敬してる。太陽みたいに明るいその日暮らしの女と遊びたい。
人生なんてな”遊び”だよ。
もっとも、その遊びにも近頃は随分退屈してるがね、本当に楽しい遊びなんて…
まぁ、退屈は遊びの同義語だ。結構結構。
うーん、ロックですね、先生。アナーキーだ、無頼漢だ、ライオンみたいですわ。なるほど動物こそ究極の実利主義者だ。
エゴイストがサバンナでエゴイストに食い殺されたって、それが大自然ってやつなんだからケチつけようがない。
人間だってanimalだ。
三島由紀夫は堕落できなかった。安吾みたいな大人は”不潔”だ、
animalの美は美学じゃない、美はもっとhumanismなもの。
”理想”無くして、”追求”無くして、なんの美か。
老いは哀れ、純潔な死の方がずっと美的だ。無垢なまま、処女のままでいてくれ。
どうしても、どうしても美しさにこだわる男。美への執着は、金閣寺を燃やすほど熱い炎。
執念は炎、炎はエンジン。文学を生み出すエンジン。
”益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜”
ウソみたいなコスプレして、ウソみたいな”劇団”楯の会を作って、切腹して死んだ。
天皇だ、国家だ、っていつまで経ってもあの人のこと、ひきずってた。ずっとひとり甲子園やってた。
「グッバイ、君の運命のヒトは僕じゃない、辛いけど否めない、でも離れがたいのさ」
って、Pretenderかよ。
もっと違う設定で、もっと違う関係で、出会える世界線、選べたらよかったね。
いたって純な心で「好きだ」とか無責任に言えたらいいな。たしかに。
晩年の三島がボソッと「ディズニーランドに行きたい」って言ったらしい、
ああ、ホントにホントの”夢の国”に行きたかったんだね。
ピュアな人、なんだか切ないね。
でも、アウトだろ。
要は、失恋を受け止められなかったんだろ。青春を終わらせたくなかった。
わかるよ。「からっぽのぼく」になりたくなかったんだろ。
みんな失恋して、夢破れて「からっぽのぼく」になっちゃう。それもこれもロマンスの定めらしい。
そんなに辛いならいっそ、全裸になってサバンナに行きません?
多分水がなくて死ぬか、動物に食われて死ぬけど。どうせ死ぬなら良いじゃん。
でも、もし生き残って、真っ赤な夕日の曠野で、偶然巨大な象が目の前に現れたら、きっと震えるぐらい感動するよ。
でかい。悠々として偉大。触れるぐらい近くにいるよ、象が。動物園で見るのとは、わけが違うぜ。踏み潰されるリスクが伴ってる。
でも1000冊本を読むより、感動するよ。野生だって結構ロマンチックじゃないか。
そうやって形を変えて、ロマンチストが帰ってくる。
坂口安吾ですら、堕落しきれるほど人間は”強くない”こと認めてた。本物のライオンに敵うはずない。
リアリストかロマンチストか、割り切れないよ。人間はanimalで、humanだ。どっちでもあって、どっちでもない。
黒鍵と白鍵みたいに行ったり来たりするだけだ、それがどんな音楽か知らんけど。
多分、失恋の音楽だ。
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