
ジャズピアノ日誌 BeBop奏者になりたい(1)これまでのこと
1963年生まれですが、株式の運用の仕事をしています。ファンドマネジャーになってかれこれ28年。証券調査や企業のリサーチャーということになれば、1990年の某証券会社の投資銀行部門での入社までさかのぼります。いまは2025年ですから、かれこれ35年の月日が流れてしまいました。
もともと、1985年当時、ソロピアノで週に3日ほどお店で弾いていました。当時のわたしはジャズミュージシャンを目指していたんですね。ちょうど40年前のことです。高校時代は音楽に明け暮れていたので、歌や詩ばかり書いて、放課後の教室で友達の前で自作自演していました。授業中も歌詞を作っていました。
そして、高校2年生のとき、彼女ができちゃったんです。中学校のとき、交換日記を数回やったことはあります。でも、とくにそれだけで、その後、彼女はいませんでした。ところが彼女が急にできてしまった。高校2年生で毎日、彼女いちゃいちゃしていて、先生たち(英語のユアサ先生って知らないか!)や芸能人(田原俊彦の哀愁デイトを音程をずらして歌う)のモノマネをしては、彼女を喜ばせることに懸命でした。
二人とも案の定、成績は急降下でした。わたしも受験勉強を馬鹿にしていたし、将来は、音楽関係の道に行くんだと当時、決めていたので、どこでもいいから進学して、軽音部に入って、そこからプロ!という計画でした。
そして、大学2年のとき、週3回のピアノ弾きのバイトが見つかったので、大学を休学して、ピアノだけの生活を始めました。
もちろん、挫折するわけです。
世の中、甘くないって。
2年ぐらい頑張っていましたが、月収は2ー3万円にしかなりませんでした。ピアノ弾きっていっても、毎日、レギュラーで儲かっているキャバレーとかでない限り、生活はできなかった。儲かっているキャバレーでは、演歌の伴奏。客の音域に合わせる移調をするのがピアノは苦手なのでそればかり練習していました。
移調やって、一番終わって、短い間奏、そこで音量上げて、二番に入るときに、ふっと音量下げて、と。客がリクエストしないときに、リーダーのベテランドラマーがスタンダードジャズをやって、その瞬間だけ、ジャズミュージシャン。1980年代っていうのはまだ、そうやって音楽でメシを食っているおじさんたちが結構いたんです。
結局、音楽ではメシは食えないということがわかり、私の場合は、腕もそんなにないし、歌もそんなに上手くないのに、なぜか音楽が大好きで、それを諦めることがなかなかできずにいました。
きっぱり諦めたのは、大学五年生になったときでした。授業に出ていなかったので、五年生もやり、六年生もやり、単位をとって、その後、法哲学という学問をやり始めて、大学院にも進んでいくことになり、そのころ、高校時代の彼女に振られたのです。
彼女は、絶対、プロミュージシャンになれると励まし続けてくれた唯一の味方でした。わたしは自分でミュージシャンに見切りをつけてしまったので、彼女を裏切った形になったのだろうか。ピアノ弾きを辞めるといったときに辞めないでもう少し頑張ろうよと言ってくれたのは彼女でした。
その後、大学院を修了してから、東京に。そして1990年からわたしの金融マンとしてのキャリアがスタートしました。95年に結婚。4人の息子たちができて、もうすぐ結婚30年。長男に孫もできた。
去年、2024年。久しぶりにピアノの練習を再開して、今に至ります。諦めてしまったジャズピアニストという夢。いまは趣味として、少しずつ、練習している状況です。
金融のプロでもある、ファンドマネジャーという仕事は、フィナンシャルの理論的なバックボーンも必要ですし、リサーチという文献に当たったり、取材をしたりする物書きとしての仕事でもありますが、マーケットを相手にしているので、アート的な要素も多い仕事です。そんな運用という仕事を30年近くやっていると、高校時代に遊びまくったり、大学時代にピアノだけをしていた時代があったことが、なぜかとても役立っていると感じることがあります。アドリブは全体の構成が大事ですし、それでも、ピークでは全力の全力を出さなければ勝てない。自分のすべてを出し尽くすという気概がなければプロの演奏とはいえない。それは音楽も運用も同じです。
ピアノソロでBeBopというジャズのひとつの分野を極めるのが今年のわたしの趣味での目標です。フィンガートレーニングをしっかりして、よい指を数年かけて作り上げて、忘れてしまった大切なフレーズをひとつひとつ取り戻していこうと思っています。