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【エホバの証人】 懲らしめのムチ 【変遷と体験談】
聖書や出版物で繰り返し説かれる「懲らしめムチ」の重要性
聖書原理主義であるエホバの証人は、この世の終わりである最終戦争(ハルマゲドン)が迫っていると信じており、神に選ばれた善人のみが救済され、滅亡後の世界である神の楽園(パラダイス)に生き残ることができると考えている。そのためには神の律法や戒律に忠実に従い、更にはそれらを実践する必要があり、その一環として子どもに対しても神に選ばれるように正しく躾ける事が要求され、徹底した宗教教育が必要であると教えられている。
しつけを急がねばならないという事情もありました。ハルマゲドンという、この世の終わりを告げる最終戦争が迫っている。そのあとにくる神の楽園に生き残るには、エホバの証人として神の律法を守っておかねばならない。子どもを正しく育てるのもその一つだからです。
「エホバはもともとキリスト教系の宗教ですが、聖書の言葉を文字通り真実だと解釈し、その教えをできるだけ忠実に実行することが求められます。私は、やがて訪れる終末の時にも、信者だけは地上の楽園で永遠に暮らすことができると教えられてきました」
その宗教教育に関して、ものみの塔聖書冊子協会(以下、協会)は子育てや子どもに対する躾を『訓練』と位置付けており、信者向けの出版物(機関誌)である『めざめよ!』や『ものみの塔』などで、親が「ムチ」(正確にはムチ状の物)を用いて子どものお尻を叩くという体罰の行使が必要であるということを頻繁に強調している。
少年にこらしめを与えることをひかえてはなりません。子供のおしりをうんと叩いても,子供を殺すことになりません。おしりを叩けば,子供はあなたの愛をうけていると感じます。次の聖句は,こらしめを使用することの賢明なることを強調します。―箴言 3:11,12; 4:1; 13:1,24; 19:18; 22:15; 23:13,14。
こらしめと訓練
懲らしめを施すさい,むちを用いることを躊躇しないでください。「痴なること子の心の中に繋がる 懲治の鞭これを逐いだす」。「子を懲すことを為ざるなかれ 鞭をもて彼を打とも死ることあらじ もし鞭をもて彼をうたばその〔魂〕を〔シェオール〕より救ふことをえん」としるされています。―箴言 22:15; 23:13,14〔新〕。
こらしめと訓練
アダムの子孫はみなこらしめが必要です。そして時にはしっかりとこらしめるためにむちで痛みを加える必要があります。「愚かなことが子供の心の中につながれている,懲らしめのむちは,これを遠く追いだす」。(箴言 22:15,新口)ですからエホバのこらしめは,いつの場合もむちをひかえる世間の専門家がすすめようななまぬるいものではありません。箴言 23章13,14節は,もともと実際のむちのことを言っているのです。「子を懲らすことを,さし控えてはならない,むちで彼を打っても死ぬことはない。もし,むちで彼を打つならば,その命を陰府から救うことができる」。ですから両親は時折り,子供に痛い思いをさせて理解させる必要があります。そうして痛い思いをさせても,それで子供が死ぬことはなく,かえってよい影響を与え,子供を保護して「その命を陰府から救う」でしょう。
エホバのこらしめについての責任
子どもの命そのものがかかっているのです。誤った道を追い求めるままに放任されるなら,それは子どもの不幸,また神の恵みの外での死という結果にもなります。それゆえ聖書はこう述べます。『むちを加へざる者はその子を憎むなり 子を愛する者はしきりにこれをいましむ』― 箴 13:24。そうです,しりをぴしぴしとたたくことを含め,自分の子どもを正すために親がなんでも手を尽くすことは,子どもに対する本当の愛の表われです。世の権威者たちは,懲らしめに関するこうした神の助言を退けていますが,そのことがただ家庭の問題を増し加える結果になっています。―箴 29:15。
導きとなる原則と懲らしめ
むちを控える人は子供を憎んでいる。
子供を愛する人は懲らしめを怠らない。
13:24
エホバの証人にとって重要視される聖書や協会出版物では、子どもを躾けるため、お尻にムチ打ちを与えなければならないという必要性が繰り返し説かれているが、それらには具体的な方法(どのような「ムチ」を使って、何回、どのように子どものお尻を叩けば良いのか、等)が書かれていない。(ただし、例えば、比較的古い1954年4月1日号の『ものみの塔』によると、懲らしめのムチの一例だと思われる挿絵が掲載されている。また、1979年8月8日号の『めざめよ!』には「ムチ」として用いられるべき物として親自身の手やものさしが例として挙げられているが、特定の物を「ムチ」として指定しているわけではないと考えられる。)
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エホバの証人とムチ(鞭)問題より
「愚かさが少年の心に結び付いている。懲らしめの杖がそれを彼から遠くに取り除く」。(22:15)「単なる少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたが彼を杖で打ちたたいても,彼が死ぬことはない。杖をもって彼を打ちたたくべきである。その魂をシェオールから救い出すために」。(23:13,14)「むち棒を控える者は自分の子を憎んでいるのであり,子を愛する者は懲らしめをもってこれを待ち望む」。(13:24)― 新世界訳。ここに言及されている「杖」は,親から与えられるさまざまな形の懲らしめを指していますから,もちろん,体罰も含まれます。手で行なうにせよ,ものさしや他の適当な「杖」で行なうにせよ,親は愛を込めて子供たちを訓練する際に,体罰を与える権威を神から与えられています。
子供に体罰を与えるのは正しいことですか
1960年代半ば頃に開始されたとされる「懲らしめのムチ」
懲らしめムチを行う具体的な方法は、以下のサイトや記事によると、1960年代半ば頃に聖書研究(エホバの証人に興味を持った未信者と共に組織の出版物の内容を勉強すること)や集会の際に突如発表されたとされる。エホバの証人の親たちは、子どもの中には悪魔(サタン)が棲んでおり、それを追い出すために聖書で説かれている通り、子どものお尻をムチ(当時の発表ではベルトや足踏み式ミシンベルト等)を使い、渾身の力を込めて20回ほど叩くように指導される。尚、懲らしめのムチが子どものお尻に与えられるのは骨折などの怪我につながる心配がなく、叩かれた痕が外から目立たないからとされる。懲らしめムチを終えた後、親は子どもを抱きしめるように指導される。
その日は私が小学校2年生の最初の頃で1964年の寒い時期でした、火曜日の聖書研究会(今の聖書研究)の終了後にいきなりムチの発表が始まりました。当時は長老制度も排斥制度も無い時代で、監督(長老)と補佐の兄弟(奉仕の僕)と会計と書記しかいない時代でしたので、通常通りに聖書研究会が終わった後に、組織からの連絡事項の伝達の時間となり、監督が三田ベテル(海老名ベテルが無い時代)から送られてきた会衆宛の手紙を読み上げ、「悪いことをした子供の心の中にはサタンが宿っています。子供の心の中からサタンを追い出すために、ムチを使ってサタンを追い出しなさい。これは神のご意志です。」という発表がありました。そしてもう一通の個人宛の手紙を見ながら「子供が悪いことをした場合は、聖書に基づいて、子供が納得するまで時間をかけてよく言い聞かせ、子供が罪を認めたならば、椅子にひざまずかせて、自発的に子供にパンツを下ろさせて、親は皮のベルトで力一杯お尻を20回叩いて下さい。そして叩き終わった後、必ず子供を力一杯抱きしめてください。この場合のムチとは、女性用のウェストベルトの事です。」と言う解説が出ました。この瞬間、子供達は沈黙の大パニックになりました。
「あれは確か1965年の、小学校の2年のある火曜日での集会のことでした」という。集会の終了間際に、日本支部から新しい「よい便り」が届いたとして次のことが会衆内で発表された。「子どもの心には悪魔が入っている、悪魔を追い出すために、聖書に書かれている通りムチでお尻を叩きなさい」。そのあと長老の補佐役が「男物の細身のベルトを使って、椅子などに跪ひざまずかせて、20回くらい子どものお尻を叩いてください」と補足した。「それを聞いて、やばいことになってきたなあと子ども心に思ったもんです。その週の土曜日、運の悪いことに、放課後遊びに夢中になって、2時間ほど伝道に行く時間に遅れてしまった。おふくろはさっそく懲らしめを実行した。ところが、細身のベルトはへなへなしてうまくいかない。そこで、おふくろは足踏み式ミシンのベルト(直径8ミリ)で、20回思いっきり叩いたんですよ」
“エホバの証人”元二世が明かす異常な“懲らしめ”の実態
たいていの場合はズボンを脱いで、お尻を何回か叩かれる。大人の素手で思いっきり叩かれたり、ベルトで叩かれたりとエホバの証人の体罰の種類は様々。ターゲットがお尻になっているのは、骨折のような怪我をすることもないし、叩いた跡も目立たたないから。
懲らしめのムチを行う際、子どもに自ら下着を脱ぐように命じる目的や、ムチ打ちを終えた後に子どもを強く抱擁する理由として以下のような見解がある。
このやり方により、子供の心に出来つつある自立心や独立心の成長が阻害され
て親に対する依頼心が増えて親離れ出来なくなり、性に対する罪悪感が異常に
増して、性に対する嫌悪感や潔癖感の強い子供になり、反抗期に親に反抗でき
ないように自立精神を叩きつぶして子供の人格を壊す。
子供の場合、パンツを下げることにより自尊心と羞恥心が必要以上に刺激され、
性に対して異常な罪悪感を持ち、大人になってから、私のように異性に興味を
持ちすぎて軟派師になるか、逆に異性に対して恐怖心を感じて結婚に縁がない
とか、結婚しても結婚生活がうまくいかないなどの悩みを、オフ会で元2世達
から多数聞いている。
1960年代から1970年代ぐらいの時期までは、上述のように、懲らしめのムチを行う際には、親が使用するムチの種類やムチ打つ回数、ムチで叩いた後に子どもを強く抱きしめることなど、一定の規則や制限が設けられていたように考えられる。
1980年代に入り更に厳しさを増す「懲らしめのムチ」
しかしながら、1980年代頃からは、ムチの種類としてベルト以外にも、電気コードやゴムホース等の使用も認められ、ムチ打ちの回数も1回の懲らしめにつき20回以上行っても良いとする風潮へと変化する。また、地域によってはムチとしてお尻を叩くために平手を用いることは相応しくなく、道具を使用するよう指示された例も存在する。
さらに80年代になってからはムチのルールが変わり、私がいた1970年代のムチの20発制限がいつのまにか解除されて100発以上OKとなり、聖書を前に子供に納得させるのもうやむやとなって、お説教の後ムチになり、ムチの種類も、竹のものさしとか、足踏み式ミシンの皮ベルト、女性用のウェストベルト、男性用の細いベルトのみ使用OKだったのが、水道ホース、ガスホース、布団叩き、鉄製チェーン、木のハンガー、樫の棒、アクリル棒、ステンレス製の靴べら、電気コード、自動車牽引用ワイヤーを短く切ったムチなど、ありとあらゆる物がムチとして使用OKとなり、さらにげんこつで顔を殴りつけるのもOKとなり、逆さにして風呂の水の中に長時間浸けるとか、頭から水をかけて素っ裸にして寒空の中、長時間外に立たせるのもOKとなって行きます。
自分の司会者のお子さんが私の子供より半年ほど上のお嬢さんで、その子を目の前で鞭うたれているのを見せられました。それから私も促されて自分の子を手で叩くようになりましたが、手で叩くと子どもに悪い影響があると言われ、必ず道具を使うよう勧められました。
エホバの証人によるムチ問題について
「懲らしめムチ」を推進したとされる「巡回監督」
巡回監督とは、「会衆」と呼ばれる、30~100名ほどの信者で構成された王国会館に集まる最小単位の集合体のリーダーである「長老」の中から選ばれた模範的な幹部信者である。巡回監督は、年に1~2度、所轄の会衆を1週間づつ巡回し、その役割の一環として、信者に対して講演を行ったり、信者達からの質疑に口頭で回答したり、相談に応じたりする指導的立場にあたる。一般の信者からは権威のある存在として捉えられ、巡回監督の指導は絶対的であり、異議を唱えることは非常に困難だとされる。そのため、仮に巡回監督が懲らしめのムチの必要性を説いた際には、信者達はそれに従わざるを得ない。
1980年代の前半から半ば頃にこの「ムチ」に関して決定的な転換点がありました。今も当時もエホバの証人組織には「巡回監督」と呼ばれる非常に権威のある宗教指導者がいますが、この巡回監督が自分の所属していた「会衆」(エホバの証人の信者グループの最小基本単位で、100名くらいが所属していたグループ)を訪問し、全ての信者を対象にした講話を演壇でしたときに、「今のムチの仕方は甘い」という趣旨を強く説法し、この巡回監督自らが「子供に最もダメージを与える」ムチを持ってきて、集会の後に信者の親たちに配ったことがありました。(中略) この巡回監督が配ったムチ棒は通常の人が想像するかもしれない水道やガスのホースとは全く違います。工業用の強化されたゴムホースで、中に非常に細い金属線のようなものが複数本入っていたのを覚えており、しかもやや柔らかくてしなりがあるために体に与えるダメージ・痛みが著しく酷いものでした。当時の私たち子どもにとり、まさに「拷問専門」の道具に他ならないものでしたし、大人になったいまでもその認識は変わりません。
多くの方はエホバの証人の鞭問題と聞くとガスや水道ホースでお尻を叩く程度と勘違いされてないでしょうか。現実は遥かに過酷で想像し難いほど残虐です。確たる根拠から真実と確認できる1例を提示します、70年代後半から80年代前半の時期の東京都内の実例です。上記の実在ケース。まず巡回監督と呼ばれる組織幹部が虐待用道具「ムチ棒」を信者に配ります。工場で入手した特殊工業用ホースで極めて頑強な上に(多くの拷問道具同様)やや柔軟性があるため子供の身体に食い込みやすくより激しい痛みを与える性状のものです。親が渾身の力でこれで子供を殴打します。
巡回監督の訪問のあと「会衆の必要」という会衆向けの説法があり「この会衆は子供達がよく躾けられています」と褒めてもらうと「私らが鞭を打たれているから満足したんだわ」と子供なりに穿った思いで聞いていました。
他方で、「懲らしめが必要です」なんて巡回監督の訪問の後に言われると、その日からどの姉妹たちも激しく子供を廊下に引っ張っていくので、恐怖でした。巡回監督の指示次第でムチの激化が起こっていたと言えます。
尚、懲らしめムチを行う方法については、巡回監督の他に、会衆内で最も権力のある地位である主催監督(現: 調整者)が講演の際に一般信者に指示した例もある。
当時は木曜日の夜に集会があったが、その時に上述の主宰監督が演壇で全信者に向けて「ムチにはこういう厳しい道具を使わないとだめだ」と言って工業用ホースの現物を見せて指示したことがあり、それを機にゴムホースが使われた。その後、「しなやかで身体に当たる範囲が大きく、子供に与える痛みがより大きいから」という理由でベルトが多く使われた。
エホバの証人によるムチ問題について
他にも、講演の際に懲らしめにムチに関して指示や助言された例がある。
内容は以下の通りである。
・「どんなに子どもが小さくても、集会中は静かにしなければならないことを教えましょう。小さい子をしっかり訓練しましょう。」
・「親の皆さんはお子さんを愛していらっしゃるなら、どうぞ実際に鞭棒を用いることを躊躇しないでください。」
・「ムチは我慢できない程の痛みがないと意味がないんです。このくらいの太さ(直径1cmくらいの45cm程の丸い棒)があれば、思いっきりたたいても折れないでしょう。」
・「実際に使っていらっしゃる兄弟姉妹(エホバの証人の信者)も多いようですが、 ガス用のホースや電気コードを束ねたものなどは鞭棒として有効です。」
・ 「神は懲らしめを受け入れる場所としてお尻を創造されました。50回や100回叩かれても身体に異常が出ることなく、効果的に懲らしめを受け入れられる場所です。」
・「泣くのはその子にサタンが宿っている証拠です。自分からお尻を出して泣かずに鞭を受けるまで何度でも叩いてください。決して止めてはいけません。」
・「ムチをされて泣くということは悔い改めていない証拠である。泣くのをやめるまで叩きなさい。」
・「もしムチで子供の心が壊れたとしても、楽園に行けばエホバ神が全て治して下さるので何も問題は無い。」
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一方で、方針として懲らしめのムチを推奨しなかった長老も少ないながらも存在する。懲らしめムチの是非に関しては地域差が大きいように考えられる。
またムチの回数は、儀式的に1回でいいと言う姉妹から、100回以上叩くべ
きだと言う姉妹までいて、ムチを指導する姉妹により様々な見解があり、その
うえ会衆ごとのローカルルールによって、ムチを禁止している会衆から奨励し
ている会衆まであるので、2世の子供達を何を使って何回叩いているのか断定
的に言うのは難しい。
東京理科大非常勤講師でセラピストの服部雄一の調査論文「エホバの証人の児童虐待」(98年)は、39人の元信者(元研究生を含む)を対象にアンケートと聞き取り調査をまとめたものである。
それによれば、39人の元研究生・信者のうち実に90%が子どもを叩くように教えられ、80%が集会などで体罰を目撃し、85%が周囲から叩くように圧力を受けていた。ある人がかわいそうだとムチを打つのをためらっていると、周囲から「霊性が低い人、子どもをサタンから守れない人」と陰口を叩かれたという。
“エホバの証人”元二世が明かす異常な“懲らしめ”の実態
子どもに愛を表す「懲らしめのムチ」
また、聖書や協会の出版物である『めざめよ!』や『ものみの塔』では、子どもをムチ打てない親は子どもを監督できず、子どもを愛していないと頻繁に言及されている。つまり、裏を返せば、懲らしめのムチを積極的に行うことは、子どもを愛している証拠となるのである。聖書原理主義のエホバの証人は(比喩表現を)文面通りにその内容を受け止め、その教えに忠実に従うのである。
子どもが生活上のさまざまな圧力としっかり取り組んでゆく備えを身に着けるためには,懲らしめを伴う訓練が肝要です。聖書は神について,「エホバは自分の愛する者を懲らしめる」と述べています。(ヘブライ 12:6)聖書はまた次のようにも述べています。「むちを差し控える者は自分の子を憎んでいるのである。しかし,子を愛している者は懲らしめを加えつつ子を見守る」― 箴 13:24,新。
懲らしめの果たす役割
真の愛は子供と楽しい会話を交わす以上のことを意味します。子供のために正しい指針を定め,それに従うべきことをはっきり教える,つまり懲らしめを与えなければなりません。はるか昔に,聖書はそれが真の愛のしるしであることを示してこう告げました。「むち棒を控える者は自分の子を憎んでいるのであり,子を愛する者は懲らしめをもってこれを待ち望む」― 箴 13:24,新。
考えてみたことがありますか ―
一方,親が子供に愛を示したいと本当に願っているなら,き然とした態度や懲らしめにより,賢明にもその愛を平衡の取れたものにします。「愚かさが少年の心につながれている」ので,子供を懲らしめることが愛を表わすことになる場合があるのです。神の言葉もこう述べています。「むち棒を控える者はその子を憎んでいるのであり,子を愛する者は懲らしめをもって子を捜し求める」。(箴言 22:15; 13:24,新)この原則は確かに男の子にも女の子にも等しく当てはまります。
理解力と平衡は不可欠
従って、エホバの証人の親達は、子どもをムチ打つことは愛の表れであると解釈して、更に協会の指示も相まって、子どもにより激しい苦痛を与えられるムチ状の物を使用するようになり、積極的に懲らしめのムチを行った。子どものお尻を叩けば叩くほど、子どもの中に取り憑いている悪が削がれて、エホバに受け入れてもらえるようになり、滅ぼされずに救われて楽園に行けると盲信するのである。
「たとえば、iidabiiさんのお母さんがもっていたムチは、罰のときにたたくためのものです。これは棕櫚(シュロ。ヤシ科の植物)の茎に、わざわざ手書きで聖句を書き写していて……、その創意工夫に怖さを感じました。そのお母さんは、下絵を描いている段階でも驚きがありました。下絵は、お母さんが鬼の形相で彼を殴っている絵柄でした。iidabiiさんに確認してもらったところ、彼の返事は『違います』と。もっと無表情だったというのです。つまり、お母さんは腹いせ的に子どものiidabiiさんを殴っているのではなく、宗教で教えられた通り、我が子をパラダイスに導くためにたたいていたというのです。これには衝撃を受けました」
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殆どの子ども達にとっては懲らしめムチは単に恐怖でしかなく、親の目を気にするようになり、ムチで叩かれまいと必死に行儀良く振る舞ったようである。集会中などで大人しく姿勢を正し、講演に耳を傾ける子ども達の姿を見て、会館に見学に来た未信者の親達の多くは感銘を受けたという。
エホバの証人の集会には、子供たちもたくさん参加しています。
普通3歳くらいの子供って、全然じっとできないですよね。そんな子供が、2時間も椅子に座って、親の宗教の難しい話を聞くとか普通は無理ですよね。
でも集会に行くと、子供たちはちゃんと前を向いて話を聞いています。
その理由は、大人しく座っていないとトイレに連れて行かれてムチされるからなんです。だから子供たちはみんな眠たくても動きたくても、必死にじっとしています。
初めて集会に連れてこられた一般の人は、そんな子供たちを見て「この子たちすごい!!」と思ったりします。「こんなにお行儀の良い子供見た事ないわ!うちの子供たちとは全然違う!何でこんなにお利口なんですか?」ってなる。
集会中、子供が泣き叫びながら引き摺られていく光景は、ごく当たり前の日常的な光景でした。子供がどんなに大声で「ギャーごめんなさ〜い!ごめんなさーい!」と叫んでいても集会は続行され、演壇から話している兄弟は、全く動じず、まるで聴こえていないかのようでした。それは本当に異常な光景でした。
子どもに効率よく苦痛を与えられるムチの追究
同時期に、エホバの証人の親達の間では、懲らしめのムチが話題の一つとして頻繁に取り上げられた。主に、効果的に痛みを与えられるようなムチの種類に関する意見交換や、各家庭での懲らしめのムチの実践報告などが挙げられる。親同士の会話の例は以下の通りである。
・どのようなムチをすれば良いか
・より痛みを与えるにはどうすれば良いか
・傷跡を他人に見られた際に児童虐待と疑われるため、ムチはお尻に集中すること
・そのようなムチは甘い、ゴムホースの方が効果的
・跡がつかないようにするには、どんな叩き方が良いのか
・体に跡が残りにくいのは太めのベルトが良い
・泣いているうちは(子どもは)反省していない。ミミズ腫れになるほど鞭打ち、ひきつけを起こすくらいが良い
・(子どもの)口を抑えると叫び声や泣き声が外に漏れない
・子供に強い痛みを与えるようにゴムホースにワイヤーを入れたものが効果的
・東急ハンズなどで売っているシリコンの棒。 よくしなって、たたく音も出ないし、ものすごく痛い。 叩かれた子どもは大声で泣く代わりに「ヒィー」と悲鳴を上げるだけだから、静かで良い
・家ではムチを(和室、リビング、子ども部屋などの)壁にかけている。常に子どもの目に入るため気が引き締まり、抑止力にもなる
・最低50回は叩かなくては懲らしめにならない
・家では最低100回叩いている。自分からお尻を出せなかったら20回ずつ追加
・(子どもが)途中で姿勢を崩したら最初からやり直しさせるルール
・子どもが中学生になってもパンツを脱がせて厳しくムチをしている
・懲らしめの途中で(子どものお尻から)血が出た、血飛沫が舞った
・懲らしめのムチは(子どもの)お尻から血が出るまで行っている
・(子どものお尻の)ムチの痕は親の勲章
・子どもが見違えるように(親に)従うようになった。エホバは偉大
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会衆の姉妹(女性信者達)達は、どの鞭が効き目があるか、集会の後、鞭の見せ合いを毎回やっていました。はっきり覚えています。表面が赤くなるが内部の肉まで裂けない素材は何か?なんて嬉々として研究していて中が空洞のゴムホースは最適だと親達が話していたのを鮮明に思い出せます。
尚、以上のような内容を含む会話は、子ども達が一緒にいる場合(会話の内容が子ども達の耳に入るような状況下)においても平然と交わされることもあった。次第に、懲らしめのムチを行う親は素晴らしいと認識されるようになり、親達の間では、いかに厳しく懲らしめのムチを実践しているか、お互いに競い合うような風潮も見受けられる。また、王国会館に集まって、共にムチ作りをしていた親達もいたという。一方で子ども達の間でも各家庭で受けている懲らしめのムチに関する情報共有を盛んに行われていたという(以下の引用を参照)。
全く当然のことのようにエホバの証人組織の中でムチが勧められていたことはみんな知っている常識レベルで、みんなが「普通に」やっていたことだった。
そう言いきれる具体例を挙げると、例えば中学生の頃などに「ムチマウント」のような会話、子供たち同士で「自分がどれだけ酷いムチをされたか」「何々君のほうはまだ甘いな」とか、「それでもあれはさすがにやりすぎなので、自分に子供ができたら到底できない」という会話などがあった。
(参考: エホバの証人】 “懲らしめのムチ” 体験談関連のスレッドまとめ)
親に「従順」であることは子どもの義務
エホバの証人では、子どもを正しい方向に導くことは親の責務であると考えられており、この世の終わりが到来し、無事に生き延びて新しい世界である楽園で幸せに暮らせるよう、子どもは親の言うことに対して忠実に聞き従う必要があると教えられる。従って、例えば、子どもが親に反抗的な態度を示したり、言いつけを守らなかった場合や、エホバの教えに反する行為を働いた際には、子どもは親から懲らしめのムチを与えられることとなる。更に協会は、乳幼児に対する懲らしめのムチも時には必要であると言及している。
『研究を始めた頃、二人の子供はまだ就学前で、司会者の子供のように行儀が良くて親の言うことをよくきく子供にしたいと思いました。ずっと後になって、親に従順なその態度が「ムチ」によって形成されてきたものだと知りました。 (中略) その姉妹のお宅に伺った時、50センチぐらいのガスのゴムホースを見せてくれました。おしりにホースの跡が残るくらい、つまりもう二度とムチをされたくないと子供に思わせる程に叩くのだと教えてくれました。 (中略) エホバの証人の子供達は、生まれたばかりの赤ちゃんの頃から、「親に従順でありなさい」と徹底的に教えられます。滅びないためには従順であらねばなりません。エホバがそれを望んでおられるのです。どの親も必死だったと思うのですが、強い親であればある程、子供の正直な感情は押さえこまれてしまいます。自分の親が大好きで、その親を必要としている優しい証人の子供達は、 結局、親と組織との二重の犠牲になっているんじゃないだろうかと私は思うのです。』(2001年8月)
子供は,主に喜ばれるよう親に従ってください。そうするのは正しいことです。
子供は幼い時から両親に対する尊敬と従順を教えられ,いいつけを守るようにしつけられます。両親は互いに,また子供に対して愛を示します。必要な時には,子供の愚かさをためるため,こらしめのむちが使われるでしょう。クリスチャンの両親は,子供の霊的な福祉に責任を持つことを十分に認識しています。行いと奉仕において忠実なクリスチャンの手本を示す両親のゆえに,未成年の子供は間接に清い者となって,エホバの恵みと祝福を受けます。―テモテ前 3:4,5。エペソ 5:22。箴言 22:6。コリント前 7:14。
身近にある新しい世の社会
たとえば,使徒パウロは,クリスチャンの親をもつ子どもたちにこう命じました。「子どもたちよ,主とともにある,あなたがたの親に従順でありなさい。これは正義にかなうことだからである。あなたの父と,『あなたの母を敬いなさい』。これは,次の約束を伴う,初めの戒めである。『それは,あなたが無事に過ごし,また地上で久しく長らえるためである』」― エペソ 6:1-3,新。
「あなたの父と,あなたの母を敬いなさい」
聖書は子供に,親に従い,親を敬うよう命じています。また,そうした道の正しさを強調し,それが永続的な祝福をもたらすとも述べています。次のように記されています。「子どもたちよ,主と結ばれたあなたがたの親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです。『あなたの父と母を敬いなさい』とあり,これは次の約束を伴った最初の命令です。『それはあなたにとって物事がよく運び,あなたが地上で生き永らえるためである』」― エフェソス 6:1-3。
ですから,親を敬うことには,親に従順であることも含まれます。それはなぜ「義にかなった」ことと言えますか。もちろん,親を敬いなさいという命令をお与えになった方が公正の神であるという事実そのものは,従順が義にかなっていることを必然的に示すものとなります。しかし,神はなぜそうした命令を与えられたのですか。
確かに,親に従順であることは子供の義務です。もし子供が全く顧みられなかったら,どうなっていましたか。自分一人で成長できましたか。そうであれば,優先させるべき,神とキリストの律法に従う妨げにならない限り,子供はすべての点で従順を示し,親が自分のためにしてくれたことに対して,感謝を表わしてしかるべきではありませんか。
従順であることによって親を敬うことは,家族および社会全体の一致と秩序を保つためにも不可欠です。子供が親を敬うことを学ばないなら,恐らく他のどんな権威をも尊敬しないでしょう。その結果,そうした不従順のゆえに,彼らは他人の権利を無視する,社会に順応しない者になってしまいます。さらにまた,自分に心からの関心を示してくれる両親に従わない子供が,どうして目に見えない天の父エホバ神に従順になれるでしょうか。
親に従順であることの正しいもう一つの理由は,親は年齢や経験の面で勝っているという点です。子供の経験は確かに限られており,分別や理解力もやはり限られています。子供は,問題を避けるため,若い時には特に親の導きと訓練を必要としています。その点が聖書の箴言の中で,次のように指摘されています。『おろかなること子の心の中につながる こらしめのむちこれを逐いだす』― 箴 22:15。
親に対してどのように敬意を示すべきですか
小さいとはいえ家族も一つの組織ですから,頭の権と服従の原則は家族の各成員にも当てはまります。神の言葉は,子供たちがきちんとしつけられ,あらゆる点で行きとどいた世話を受けられるようにする責任は両親にあると教えています。ですから,「子どもたちよ,すべての事において親に従順でありなさい。これは主にあって大いに喜ばれることなのです」という命令が子供たちに与えられています。(コロサイ 3:20)子供が親に服すべきことは,聖書的であると同時に理の当然です。子供たちは経験に乏しく,自活することができません。さらに,賢王ソロモンはかつてこう述べました。「愚かさが少年の心に結び付いている。懲らしめの棒がそれを彼から遠くに取り除く」― 箴 22:15,新。
家族内で
その典型のようなよちよち歩きの子供を持っていた母親カルメンの話によると,その子は,「自分の思い通りにならないとかんしゃくを起こし,金切り声をあげ始めた」ということです。ではそれはどう解決されたでしょうか。「私たちは息子に懲らしめを与えなければなりませんでした。ですから息子は,大騒ぎを演じるなら必ずぶたれるということを知っていました」。しかし,小さな子供に罰を加えるという考えに仰天する向きもありますが,カルメンは,子供たちを訓練し,懲らしめるよう聖書が励ましていることを知っています。(エフェソス 6:4。箴言 23:13)これは時々子供をぶつということにもなるでしょう。でもカルメンは,「おしりをたたいても,しばらくするとまた母親のところへ来て抱き付きます」と言いました。ですから,子供は注意と愛によってすくすく成長してゆくとは言うものの,時には愛の懲らしめを与えることが大切です。
甘やかすことと甘やかさないこと
「懲らしめムチ」の流れ
最後に、子どもが親から懲らしめのムチを受ける際、一般的な一連の流れを体験談やニュース記事などの内容に基づき、①ムチの宣告、②説教、反省、納得、③脱衣、④ムチを受ける姿勢、⑤ムチの回数とペナルティ、⑥ムチで打たれる子ども、⑦懲らしめのムチを終えて、⑧ムチで打たれたお尻の惨状の順で紹介する。
懲らしめのムチを与えられるに至った主な原因や理由(3点)
(1) 戒律を破った
「親に従順」ではなかった(口答えなど、反抗的な態度をとった)、暴力的表現が含まれるTV番組やアニメを観た、誕生日会やクリスマスの祝い事に参加した、国家や校歌を斉唱した、世の友達(信者以外の友達)と遊んだ、自慰行為をした、証言(聖書の一節を引用しつつ、体育行事や武道の授業などに参加できない理由を述べること)をしなかった、等。
「信者の禁止事項は多岐にわたります。特に、偶像崇拝・淫行・血の誤用(他人や動物の血液を体内に取り入れること)などは厳しく制限されていましたね。淫行には婚前交渉も含まれていて、もしその掟を破ると“排斥”になって、ほかの信者や、同じく信者である家族との接触や会話を禁止されてしまいます。高校生の時に、気になっていた男子から告白されたことがあるのですが、付き合ったら母親がどんな行動に出るかわからなかったので、断ってしまいました」
ほかにも、異教の行事であるクリスマスや誕生会、七夕まつりなどの祝い事への参加も禁止。偶像崇拝にあたるので、校歌や国家を歌うのも禁止。また、聖書には「争いを避けなければならない」と書かれているため、運動会の応援合戦に参加することも禁止されていたという。
「校歌斉唱の時は、みんな起立しているのに自分だけ座りっぱなしだったり、クラスの行事の時にも自分だけ机に座ってじっとしていました。そうしていると、やっぱり学校では浮いちゃうから、そのうち自分からほかの人と関わるのを避けるようになっていきました。もっとも、エホバでは信者以外の人のことを“世の子”と呼んでいて、必要以上に仲良くすることは禁止されていたんですけどね」
(2) 集会中や野外奉仕(布教活動のこと)中などで態度が悪かった
ウトウトした(警告として太腿や腕などをペンなどで突かれる場合もある)、居眠りをした、落ち着きがなかった、ノート等に落書きをした、集会参加を渋った、講義の予習復習を怠った、注解(挙手して発言をすること)をしなかった、(勧誘訪問の際に)インターホンを押すフリをした、笑顔ではなかった、等。
(3) 躾の一環として
悪戯をした、嘘をついた、約束を破った、門限を破った、成績が下がった、等。
①ムチの宣告
子どもが懲らしめのムチを受ける際に、親からは以下のように宣告される。
ここでは例として2パターン紹介する。
・「帰ったらムチです」「帰ったらムチよ」「帰ったらムチだからね」
集会中や奉仕活動中などの出先で、子どもが粗相をして懲らしめのムチが必要な状況でも、ムチを持ち合わせていなかった場合(多くの親はムチを鞄に入れて携帯していた)や、諸事情により王国会館ではムチを控えるような指示が発出されていた場合など(以下の引用を参考)で親が冷酷に子どもに言い放ったセリフの例である。ムチを宣言された子どもは、その多くが絶望感と恐怖で帰宅が憂鬱となり、中にはその場で泣き出す子どももいたという。
毎週3回こうやってムチで叩いていれば、トイレとはいえ子供の悲鳴が外に漏
れるのは当たり前ですから、1970年代初頭の日曜日になると、必ず王国会
館の近くにパトカーが常駐する事態になります。最初は3ヶ月間は連続で常駐、
その後は月に2回位常駐に変わっていき、警察がJWをマークしているのは明
かでした。
しかし、マークされた当人達はいたってのんきなもので、社会常識からして異
常な事をしているという意識は一切無くて、平和で友好的なJW信者が警察に
マークされるのは何かの間違いで、いつか誤解が解けるだろうとのんきに考え
ていましたので、当時中学3年生で兄弟になったばかりの私はパトカーの中の
警察官に目ざめよをプレゼントして、一緒に研究をしないかと証言までしてい
ました。
この頃から王国会館の中でのムチは急に少なくなり、たまにむずがる子供がい
ると親は子供を外に連れ出し、叩かずに落ち着くまで一緒にいて、落ち着いて
から会場内に戻るというパターンになり、それまで母親姉妹達が自慢げに話し
ていたムチの話が急に聞こえなくなったので、中学生の私は警察のおかげで王
国会館のムチは廃れたと思いこみ、警察に感謝していました。
私が子供の頃、1980年代には既に、懲らしめの時には子供の声が王国会館の外に漏れないようにしろという指示が組織側から発信されていた。外部の人に不審感を与えないようにと。もしかすると既に過剰な体罰問題が露見し始めていた頃だったのかも知れない。
・「ムチをします」「ムチよ」「懲らしめをします」「お尻を出しなさい」
主に家庭内で懲らしめのムチが確定した場合、上記のようなセリフで親が子どもに宣言することが多いようである。多くの子どもがムチの痛さの恐怖と絶望感で地獄に叩き落とされたような感情に見舞われたという。
②説教、反省、納得
親は子どもに(時には聖書を用いて)説教を行い、「なぜ、懲らしめムチが与えられるのか」という理由を述べさせて、自らの行いや、犯した過ちを反省させる。そして、理詰めてムチを受けなければならないことを納得させて、子どもが自ら「懲らしめのムチをお願いします」「ムチで叩いてサタンを追い出して下さい」と親に懲らしめを申し出るような流れを作る(以下の文献を参照)。懲らしめのムチが確定すると、「ムチ」を子どもに持って来させる親もいたようである。また、家庭によっては複数の種類のムチが使用され、子どもにどちらのムチで叩いて欲しいのかを選択させる親もいたようである。その際、痛みが少ない方のムチを選択し、ムチ打ちの最中には故意に痛いフリをした子どもも見受けられる。中には、子どもに聖書の一節(エフェソス 6:1、箴言13:24、箴言22:15など)を読ませる親もいるようである。家庭によっては懲らしめのムチを専用の部屋(和室など)で行われることもあったという。
親の愛の見過ごせない証拠について,箴言 13章24節(新)はこう述べています。「むち棒を控える者は自分の子を憎んでいるのである。しかし子を愛する者は,懲らしめをもってこれを捜し出す」。聖書にはほかにも似たような指針があります。「細棒と戒めは知恵を与える。放任された少年は自分の母に恥を来たらす」― 箴 29:15,新。
ここで述べられている懲らしめとは,単に体罰だけを意味しているのではありません。もっとも,時として体罰が必要になる場合もあります。子供たちは何をすべきか,また何をすべきでないかを知っているだけでなく,ある事柄がなぜ正しいか,あるいは間違っているかを知らねばなりません。言い換えれば,子供に効果的な懲らしめを与えるには,子供が納得して受け入れられる,矯正となる助言が必要です。
子供たちはエホバからの相続財産
うちの母はベルトを2本用意して「細いムチ」と「太いムチ」のどちらにするか選ばせました。細いムチって、痛いんですよ。おしりをムチで叩かれると、完全にやる気を削がれます。服の上からではなく、服を脱がせたうえで直接肌に叩きつけるので刺すように痛い。
③脱衣
親からムチの宣告を受け、懲らしめのムチを受け入れることに納得した(または、させられた)子どもは、下半身に身につけている衣服を自発的に、速やかに脱がなければならない。多くの子ども、特に、小学校高学年や中学生になり思春期を迎えた年頃の子どもにとって、親の前でパンツを脱ぎ、裸の状態の下半身を曝け出すことは非常に恥ずかしく、性的な羞恥心を覚え、精神的にも耐え難いものであり、胸を締め付けられるような感情と、この上ない屈辱感を抱いたようである。親に極力生殖器を見られないように、シャツの裾を引っ張り、前を覆い隠すなど、健気な努力を試みた子どもも見られる。尚、たとえ子どもが生理中であったとしても例外なく下着を脱がせて懲らしめのムチを行うのが一般的だったようだ。中には、ムチに対する恐怖と与えられる苦痛を想像し、そして何よりも下着を脱ぐという恥ずかしさと屈辱感により、パンツを下ろすのを躊躇う子どもも多くいたようである。その場合、親の怒りを買い更にムチが厳しくなったり、親が10カウントを行い、カウントダウンが終わるまでにパンツを脱ぐことができなければ、ペナルティとして後述であるムチの回数が増やされた例も頻繁に見受けられる。稀ではあるが、子どもが高校生(または、それ以降)になっても懲らしめのムチを継続する家庭や、懲らしめのムチを与える際に子どもを全裸にさせる家庭も存在した例もある。
往生際の悪い兄は鞭をされる前に「ちょっと祈ってもいいですか」と言い始め、「どうか痛くありませんように、鞭の回数が少なくなりますように」と延々と祈るので、父も段々イライラしてきて結局30回ぐらい叩かれていた記憶があります。
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④ムチを受ける姿勢
子どもがパンツを脱ぐと、いよいよ裸のお尻に容赦のないムチが飛んでくることになる。親は子どものお尻を叩きやすいように、以下の例のような様々な姿勢をとるように命じる。
・正座や着席した親の膝にうつ伏せにさせる(主に、就学前や小学校低学年の子ども向け)
・座布団、布団やベッドにうつ伏せにさせる
・テーブルなどに上半身をうつ伏せで預けさせる
・直立にさせる
・壁や椅子に両手をつかせてお尻を突き出させる
・四つ這いにさせる
・四つ這いの姿勢から胸を床につけさせ、お尻を高く突き出させる
また、より強い恐怖を与えるために子どもに目隠しをさせたり、うつ伏せにさせて懲らしめのムチを行う場合など、子どもが痛みに耐えきれず、反射的にお尻に手を持っていくことを防ぐために、腰の部分で両腕を組ませたり、厳しい家庭では子どもの両手首を紐で縛ったりする親もいたようである。
道具は、普通のガスホースを「わざわざクロスさせ交わった部分を縛って」子供への苦痛を強化した手作りのムチ(その色も今もしっかり覚えている。ホースはオレンジ系・縛る部分は黒。)
1度のムチにつき10発程度たたかれる。ベルトの時もあったがガスホースのほうが超痛い。なのでわざとベルトの時に痛がるふりをしていたりした。
手首を縛られてつるされてムチされたこともある。その時の光景が焼き付いているので記憶に間違いない。
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⑤ムチの回数とペナルティ
親が一回の懲らしめのムチで子どものお尻をムチ打つ回数は家庭によって様々である。前述の通り、懲らしめムチが一般的に開始されたとされる1960年代中頃から1970年代にかけては20回程度が望ましいとされていたが、それ以降は回数制限が撤回され、何回でも叩いても良いとされた。会衆での指導や各家庭での親の方針、子どもの年齢、子どもが犯した過ちの程度などにより、ムチの回数は大きく異なる。1~3回と比較的少ない家庭や、一般的な回数とされる10~30回、多い場合では40~60回、さらに厳しい家庭では100回、若しくはそれ以上の回数、お尻をムチで打たれた子どももいる。子どもの年齢と同じ回数を叩いたり、また、親によっては子どもにムチ打ちの回数を自己申告させたり、キリストが鞭で打たれた回数と同じ数(39回)だけ懲らしめのムチを与えた親もいたようだ。一方で、具体的な回数を定めずに、親が納得するまで(或いは、気持ちが済むまで)ムチで子どものお尻を叩き続ける家庭も存在したようである。ムチで打たれる数が明確に決まっていないため、子どもにとっては「いつ終わるのか分からない」ので逆の意味で恐怖だったという。
私の場合は物心がついたときから母親によってムチによる懲らしめ行われていました。正確に申し上げますと、本当に幼い頃は平手でお尻をたたいていたんですけれども、あるときを境に、正確なちょっと時期は言えないんですけれども。お手製のムチに変わりました。その家はビニール革製のベルトがあると思うんですけれども。それを20とか30に折ってさらにガムテープでぐるぐる巻きにしたものを、あのムチとして使われていました。
---それは2歳から3歳の頃から何歳の頃まで続いたんでしょうか?
私の場合は中学生ぐらい中学生ぐらいまでですね。
---割と頻繁にそういったことがあるんですか?
ええ。もう本当に幼いときですと、やはり集会で落ち着けなかったムチされてるいることありますけれども、集会に2時間、3時間聖書についてのお話だけをずっと座って聞いていなきゃいけないんですけれども、2歳とか3歳でその話をずっと聞いていくっていうのは非常に難しいことだと思うんです。足をバタバタしていたとにかく落ち着きがなかった。声を出すのを止めていないか、止めることができなかったという様々な理由でトイレとかその会館内にある宇治入室に連れて行かれてお持ちいただかれるというような感じ私の場合は母親になぜムチで叩かれるのか。事前にこう言われるんです。何が悪くて懲らしめ受けるのか、自分の口から言わされるんです。例えば集会で落ち着きがなかったということで自分の口でそれを言わされるんですけれども。それは誰が悲しむのか、誰に対して悪いことをしたのか。それを言われるんですね。それは私は天のお父さん「エホバ」が悲しむからです。というふうに言わされる。そして、そこからムチが行われるんですけれども。事前に何回叩くということは私の場合は言われなくて本当に母親の気持ちが済むまでというのが、終わりのタイミングだったように思います。
新たな『宗教2世問題』が噴出
また、懲らしめのムチの最中に、子どもがムチ打ちの妨害行為を働いた際にペナルティとして回数が追加される場合がある。具体的な例は以下の通りである。
・姿勢を崩した
・お尻を手で庇った
・泣き叫んだ(泣くことは反抗心の表れと見做されるため。)
家庭によって様々ではあるが、「10カウントまでに姿勢を戻さなければ1回追加」「お尻を動かすと1回追加」「姿勢を崩すごとに10回追加」「お尻を手で庇ったら最初からやり直し」「泣き止むまでムチ打ち」など、親によって細かなルールが決められていたようである。また、親の手元が狂い、お尻以外の部位(背中や太腿など)にムチが当たると、その分は無効となり、やり直しさせられた例も見られる。
⑥ムチで打たれる子ども
懲らしめのムチを受けている間、子どもは泣き叫ぶことを禁止されることが多い。泣いたり、なかなか泣き止まない場合などはムチ打ち追加のペナルティが課せられる場合があるため、子どもはムチを受けている間、布団のシーツなどを必死で掴みんで激しい痛みになんとか耐えようと試みたようである。親にもよるが、手で子どもの口を押さえたり、泣いて暴れる子どもを強く押さえつけたり、タオルを咥えさせたりすることによって泣き声を漏らさないような工夫をしていたという。痛みに耐えきれずお尻を手で庇った際、手製の電気コードのムチが手に当たり、中指にヒビが入った例もある。叩かれる回数やムチを受ける子どもの態度(中には1回叩かれる毎に飛び上がり、転げ回る子どももいる)にもよるが、1回の懲らしめのムチで1時間程の時間を要するという。ムチを振り翳して「ビシ、ビシ、ビシ」と連続で子どものお尻を叩く親もいる一方で、1回叩く毎に説教を挟む親もいたようである。後者の場合は、叩かれた部分に痛みと熱がじんわりと生じてくる頃に新たな1打が加えられるため、より苦痛を感じたという。懲らしめのムチの際中、親によってはその都度「サタンよ出ていけ」と言いながら子どものお尻を叩いていた例もあり、親の代わりに何回叩かれたか声を出してカウントさせられていた子どももいるようである。ムチ打ちのあまりの痛さに耐えきれず、途中で失禁をしてしまった子どももいたようである。
ムチを宣告されると子供はまずは恐怖感絶望感で泣き叫びます。自ら服を脱いで臀部を突き出すよう要求され、それができないと時間を計られ、一定時間が過ぎると回数が増えます。「1回1回の殴打の苦痛でまた飛び上がり泣き叫び、次の殴打まで泣き叫び」が続き1回の鞭行為で1時間程度の時を要します。
叩かれているときに泣き叫んだり,お尻を動かしてムチをよけようとすることも許されなかった.もしそうするとムチの回数がその度に増えることになっていた.だからじっとしているしかなかった.
妹は私より明らかにたたかれる回数が少なかったが,叩かれる度に泣き叫び,ごめんなさいごめんなさいといい続け,ムチをよけようとしていたが,今から考えるとそれで本当にムチの回数が増えていたのかは謎である(所要時間が私とたいして変わらなかったので).
私は黙って耐え忍んでいたのだが,それはそれで母親の癇に障るらしく,本当に反省しているのかと言われ,だからごめんなさいというと,ごめんなさいって本当にそう思ってなかったら全然意味ないんだよ,どういう意味でごめんなさいって言ってるんだよ,などとそれはそれでまた怒られていた.
回数にすると15回から20回(年齢や罪の重さによる)だったが,結構これはきつかった.何故かというと,母の場合,びしびしびしびしと連続で叩くのではなくて,びしっと一回叩かれて(ちなみにカウントも子供がしなくてはいけなかった),いろいろ言われて叩かれた部分がじんわりと熱を持ってくるところにまたびしっとくるのを15回から20回である.
エホバの証人の家庭とモラルハラスメントの関係について考察してみます
自分のうちだけの特有のルールってありませんでした? まず、我家の場合、ムチの数を自分で決めさせられました。 あまり少なめに言うと結局大変なことになるので、すごい悩んだよ。 (一回とか言ったら母が激怒して、結局50回ぐらいムチられたことがある) あと、懲らしめの前に必ずトイレに行くこと。 小さいときにムチの途中でおもらしをしたことがあったらしく、 それ以降ルールとなりました。 「トイレ行ってらっしゃい」と言われるのが、ムチの合図でした。(泣)
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寝子氏のTwitterより
⑦懲らしめのムチを終えて
一通りムチを受け終えると、子どもは(泣いている場合は速やかに泣き止んで)親に「ありがとうございました」「ムチで叩かれてサタンは出ていきました」などと、一般的にはお礼の言葉を述べなければならない(根拠だと考えられる以下の協会出版物の引用を参照)。尚、子どもがこの「お礼の言葉」を言い忘れると、反省の色が足りないとみなされて追加のムチ打ちが科される場合もあったという。また、親は「あなたが憎くて懲らしめのムチを行なっているわけではない」「一緒に楽園に行くための訓練だと思いなさい」と子どもに告げて、中には子どもを強く抱きしめる親もいたようである。
クリスチャンには懲らしめが本当に必要ですか。イエスは,命に通じる道は『狭められている』と言われました。(マタイ 7:13,14)その道からさまよい出るのは容易です。では,辞書で「訓練」と呼ばれている懲らしめを受け入れるのは,賢明なことではありませんか。誤って道に迷い,まずいことに,危険な地域に近寄る旅行者の場合を考えてみてください。もし,見知らぬ人から元の道への戻り方を教えて上げようと言われたなら,その旅行者はどう思うでしょうか。自分には自分の望むところに行く権利があると主張して,怒ってその援助を退けるでしょうか。自分の権利を侵害することだとして,その親切な見知らぬ人を非難するでしょうか。多分,そうはしないでしょう。差し伸べられた援助に感謝することでしょう。
ですから,賢明なクリスチャンは,親切な懲らしめという形で差し伸べられる援助を感謝します。自分の年齢や人生経験にかかわりなく,預言者の述べた次のような言葉は真実です。「エホバよ,地の人の道はその人に属していないことをわたしはよく知っています。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいるその人に属しているのではありません」。(エレミヤ 10:23)ですから,わたしたちは皆,懲らしめを必要としています。
懲らしめは本当にそれほど悪いことか
⑧ムチで打たれたお尻の惨状
ムチの種類やムチの回数、叩く親の力の程度などにもよるが、懲らしめのムチを受けた子どものお尻は以下のような状態を呈する。また、ムチの種類に関しては多くの地域で共通して使用されたとされる「ベルト」「電気コード」「ゴムホース」の3種類を主に取り上げる(ムチの具体例は以下の引用画像を参照)。
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懲らしめのムチを受けた多くの子どものお尻は内出血を起こし全体が真っ赤に腫れ上がり、赤いミミズ腫れが叩かれた数だけ浮き上がったという。酷い場合には皮膚が裂けて血が滲むことも多々あったようである。また、ムチで打たれたお尻は皮膚が硬変し、しばらくの間傷や痛み、痕などが残るため、入浴の際に傷口がお湯で沁みたり、学校で椅子に座る際に中腰になるなど、座ることが困難な日が続いたという。お尻や太腿などのお尻以外の部位にムチが当たった場合は、ミミズ腫れの痕が制服の半ズボンや体操服のブルマ、水泳の水着などを着用した際にはみ出し、他人から見られることがあったため、恥ずかしい気持ちになったという。
1回ムチをされると子供の身体には「酷い二重のミミズ腫れ」が数週間残存します。2回なら4本、3回なら6本の腫れが残存し数日は痛さで椅子に座れないこともあり、ムチをされている際に失禁・気絶することもあります。そしてその腫れがまだ残存している間に再度ムチを繰り返しされることもあります。
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・「ゴムホース」ムチの事例
私らの頃は百叩きと呼ばれるゴムホース百連打の刑も珍しくなかった。あまりに叩かれすぎて皮が破れ、血が出、暴れるためにお尻以外のあらゆる場所に痣ができ、傷を作っていた。それでも母はやめなかった。
実際のムチの際は、幼少期と同様、自分でズボンとパンツを下ろしてお尻を出すことを要求され、痛みへの恐怖感からためらってそれができないでいるとストップウォッチで時間を計られ、1分ためらうごとにムチの回数が1回増えました。母はムチ棒を使って渾身の力で1回尻を殴打しますが、たった1回で飛び上がり、転げまわり、泣き叫ぶほどの痛みで、打たれた箇所には2重のミミズ腫れができ、2,3週間は腫れが続き、ムチをされてから数日は椅子に座るたびに痛みがあり、された当日は風呂に入ることもできませんでした。自分が犯した「罪」の大きさに応じて、このムチを1回、3回、5回、多い時は10回と回数を決められ、5回以上される時は泣き叫び、痛みで転げまわるという永遠に続くような時間が1時間、2時間と流れました。そして、子供が決して逃げられない「家庭」の中で、1週間とか、数週間に1回の頻度で、何年にもわたって行われ続けていました。このことに気づいてくれて助けてくれる大人は誰もいませんでした。
我が家の場合は、必ずお願いしますって言わないとダメ。
そしてやっぱり少し反抗したからムチ5発!
ゴムホースですよ あのしなる。あれを大人の力で力一杯振り下ろされる時って、『ひゅん』ていう独特の音が鳴るんです。
そして、ズシー!!
お尻に激痛とも閃光とも言えない痛みが走る!もう、めちゃくちゃ痛い!お尻に直だから本気で痛い!
5発されたら5本お尻にミミズ腫れができます。(これ本当にミミズみたいに膨らみます)
そして我が家はムチされた後 、泣きながらでも『ありがとうございました』と言わないといけないんです。
しかもすぐに泣き止まないといけないから、必死にタオルを顔に当てて声を押し殺して泣いていました。
すると母親に、ぎゅーっと抱きしめられるんです。
うちの母親は、まじに手加減なしで叩くので(ガスホース)、その痛さは半端じゃなかった。 最高刑の40回でも喰らおうものなら、蚯蚓腫れどころかお尻全体が腫れ上がり 後で触ってみると夏みかんの皮みたいに固くデコボコになってた。 中学卒業までムチされてたけど、恥も外聞もなく毎回ごめんなさいって泣き叫んでたよ。(自爆)
ムチをされると毎回尻が内出血状態を超えて板みたいにガチガチになった。体感では座るとかが無理というレベルを超えて、もう通常の痛覚が麻痺するようになった。学校では体育とかプールで虐待がバレないかが心配だった。
ムチの道具は、ゴムホースの中にワイヤーを何本も入れたものが良しとされ、同じ物が私の家にも王国会館にも置いてありました。それは自分の親も含めた周りの信者たちが「なるべく子供に強い痛みを与えるようにわざわざワイヤーを入れたもの」で、つまり子供により苦痛を与えるための手作りの道具で、しかも親の手が痛くならないようにムチ棒を持つための「持ち手」を作っていました(ワイヤーを捻ってそこに持ち手のひもを作っていました)。
集会中のよそ見、居眠り、親の機嫌を損ねる、周りへの体裁等の理由でムチをされました。ムチをされるとミミズ腫れが体に残りました。集会中にちょっとよそ見をしただけで母親は指で「あと何回よそ見をしたら鞭を打つ」というカウントをしていて、1度の集会で何人もの子供が外に引きずられ、地獄の様な時間を過ごしました。鞭への恐怖心から集会に来る度に吐いている子もいました。当時のエホバの証人の大会会場のトイレは全て鞭打たれる子供達の為埋まっていました。
・「ベルト」ムチの事例
「下着を取られて、お尻を出した状態で叩かれますので、皮膚も裂けて、ミミズ腫れになり、座ることやお風呂に入ることが地獄だった。同じ組織の信者同士の間で、何を使えば子どもに効率的なダメージを与えられるかの話し合いが日常的になされていた。一家庭の問題ではなく、組織的に体罰が奨励されていた。性的な羞恥心も覚えるようになり、私は毎日、いつ自殺しようかと本気で悩んでいた」
彼女は父親の皮ベルトでたたかれたというが、靴ベラやゴムホースを用いるというケースもあった。私もかつて取材中に「ミシンの皮ベルトがちょうどいいのよね」と楽しそうに語る女性信者たちの話を聞いたことがある。
・「電気コード」ムチの事例
恥ずかしながら、中学卒業まで平均して週に1回はムチをもらってました。 やはり電気コードを二つに束ねてテープでぐるぐる巻きにした奴が最強最悪だと思います。 これで50回も叩かれると、表面はデコボコになり、1㎝ぐらいの厚みで皮膚(肉?)が固くなります。 これが治る頃に次のムチをもらうというのが当時のお決まりのパターンでしたが、ラッキーなことに痕は残っていません。
集会や布教に行きたくないと言うとお尻を出して電気コードで何十回も叩かれました。皮膚がさけました。悲しくて辛くて苦しくて怖かったけど私が悪いからだと言いました。親は宗教活動をしないと本当に世界の終わりに滅ぼされると教団の教えを信じていたので、これも親の愛なんだと思うようにしむけられていました。お祭りや友達の誕生日パーティーも行きたいと言うと鞭で叩かれます。祭り事や楽しいことは全て禁止で破ったら鞭です。