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妄想SF映画「御先祖様万歳」(ネタバレあり)

 映画化を試みることにした。
 原作は54年前に書かれた小松左京氏の短編SF「御先祖様万歳」。

 主人公の木村三平は、失業し田舎に帰ってくる。「神隠しの山」とよばれる裏山で、不思議な洞穴を見つける。なにげなく中に入り、出てきたのは入口と同じ風景。ぐるりと回ったらしい。が、よくよくみると微妙に違っている。出た側は1863年。文久3年、いわゆる幕末である。「神隠し山」の洞穴は、タイムトンネルだったわけだ。
 これはいい。
 ハリウッドばりのとてつもないセットもVFXも必要もない。この設定は撮影予算にやさしい。
 時代設定も実にいい。
 文久3年は幕末の中でも国内政治の混乱が表立ってきた年だ。尊王攘夷の思想が熱湯のように煮えたぎり、開国してしまった幕府はそれを抑える力を失いつつある。長州藩は外国船に攻撃、京都では新撰組が誕生する。現代人に大人気の坂本龍馬も脱藩して海軍所をつくる勝海舟の手足となって動いている。
 この時代は国営放送の大河ドラマでも、隔年で舞台にされているから、誰が見てもわかりやすいだろう。セットも、あちこちにある。これまた撮影予算にも優しい。
 そこから起こる騒動は、原作のままでも充分面白い。

江戸時代への実地調査に行けるとなると、当然のことだが歴史、社会学界がさわぎ出した。物理学者は、「穴」の構造の解明に、大がかりな調査をしたいといい出した。——婦人科医まで名のりをあげたのはいささかお門ちがいだったろう。視察旅行好きな議員方が圧力をかけはじめたのは当然である。それに時代小説作家が、自分たちの書いた小説の主人公、モデルたちに、実地にあってみたいといい出した。(中略)
 いや、時代小説作家に行かせるのはおかしいといい出したのは、ルポライターたちだった。時代小説はフィクションだ。だが、これはドキュメンタリイの書ける人間が行くべきだ。そのほか画家、写真家、音楽家、劇作家、民俗学者、ありとあらゆる芸術家、文化人が、行かせろとさわぎ出した。

小松左京「御先祖様万歳」より

 騒動はどんどんエスカレートする。
 「穴」をどこの管轄にするかで、各省庁はもめ始め、新聞記者はスクープを狙って厳重管理下に置かれていようが「穴」のまわりを跋扈する。
 そんな時、穴の向こう側、幕府老中・酒井忠積が現政府の閣僚要人に密談を申し込んでくる。

「この際、国内を統一し、国力を充実して外患にそなえざれば、清國阿片戦争の例を見ても、わが国は、外国の足下に蹂躙されるは必定——ついては、同胞のよしみをもって、力をおかしくださるまいか?」
 「といいますと?」
 「きけば、そちらには、空をとぶ機械、一瞬にして百発を放つ銃もあり、精鋭18万の威容をほこる軍団を備えておられるとか——そのうち、武器、軍隊の一部でもおかしくだされば……」(中略)
 「そ、それがその……」要人はいった。
 「憲法で、海外派兵はできないんですが……」
 「海外ではござるまい」酒井はおしかぶせるようにいった。
 「同じ国内でござろう」

小松左京「御先祖様万歳」より

 原作のまま、セリフもいただき。スパイスのきいた笑いがある。
 この密談が現代側に漏れ、大騒ぎとなる。幕府を救え、いやむしろ薩長を援助し、維新政府の成立安定を早めるべきだ。皇室を忘れてどうするか、孝明天皇暗殺を防げ…。きびしい警備の目をくぐって密出入時代者も両方から出てきだす。
 もちろん、過去を援助しようとしている日本に外国も黙っていない。「穴」は19世紀の全世界につながっているのだ。自分の国を救う権利はあると騒ぎ出す。さしづめ、2017年の現代ならば、「穴」の存在はSNSであっというまに世界中に拡散される。トランプ大統領はいの一番に「開国」ならぬ「開時」をゴリ押し、中国、韓国はそれ以上の勢いで開放を迫ってくるに違いない。国際世論に弱い日本政府はあたふたするばかり……原作通りコメディタッチで描けば、観客もおおいに楽しめるだろう。

 が、騒動だけを描いても映画にはならない。主人公の劇的欲求と葛藤、そして変化が必要だ。木村三平くんはこの騒動に何を考え、どう動くだろう。ヒロインも欲しい。ヒロインは原作に登場する少女たけでいい。
 失業中で現代日本に倦んでいる三平くんは江戸時代の郷愁に心を休めている。三平くんは自身の木村家御先祖様より、17歳の使用人たけに心をよせている。現代の17歳とはまるで違い、素直で、よく働き、信仰心のあつい彼女に惹かれたのだ。
 しかし、三平くんはたけを知れば知るほど、江戸時代の現実が見えてくる。

江戸末期の地方生活なんて、どんなに陰惨な感じのするものだったか!——百姓町人は、背が恐ろしく低く、特に百姓は重労働に背や腰は曲がり、その頭は絶えず卑屈に垂れさげられるためだけにあるみたいだった。栄養不良や風土病や寄生虫のために、顔色は青黒く、顔面がペシャンコで、つぎはぎだらけの垢じみた着物を着ており、まるで未開民族みたいだった。

小松左京「御先祖様万歳」より

 近年、幕末を描く映画やドラマで、このような描写がはたしてされているだろうか。

武士はやたらにいばっていた。地主が土下座する小作人の肩を足蹴にするのも、酔いどれ役人が、何の罪もない中年女の背中を、木の枝でうちすえるのも目撃した。それを見て、何度とび出そうと思ったかわからない。(中略)暴力が正当化されているのは、何百年の間、武士にとってのみであり、維新後だってそうだったのだ——。

小松左京「御先祖様万歳」より

 この文章こそ原作者・小松左京氏の譲れぬほどに強い視座に違いない。ここにはご自身の体験が重なってみえる——戦争中の体験が。
 小松氏のエッセイ「やぶれかぶれ青春期」は戦時中、中学生だったご自身の体験がつづられている。そこには横暴な軍人や先生、大人たちが描かれている。
 小松少年は理不尽な暴力と、終戦となったとたん手のひらを返したように民主主義を口にし始めた彼ら大人に、強い不信感を持つようになる。
 上記の引用の「武士」を「軍人」に置き換えていい。

それにしても、現代の普通人の眼を持ってながめるならば、何という暗い、陰惨な、不潔で非生産的な時代だったのだろう。傾いた臭い藁屋に、家畜のようにごろ寝している農民たち、ほこりだらけの道、不作と、物価暴騰と、苛斂誅求と、病疫と、飢餓と——しかもそんな中で、生きる努力が人々の間でつづけられ、上層部では、新時代の嵐がさわいでいたのだ。

小松左京「御先祖様万歳」より

 「戦争が自分のSFの原点である」と小松左京氏は云われた。どの作品であれ、この視座からSFを描き続けた。タイムパラドックスなどどうでもよろしい。「時間」というギミックが扱えるならば、人類が、文明が、国家が、庶民がなぜ今ここにあるのかを問い直すことは容易ではないか。
 そうだ、映画では現代人の中からも江戸時代に失望する人間がではじめたことを強調しよう。労働は生存を左右する時代だったのだ。ブラック企業どころの話ではない。御先祖様の実態を知り、幻滅する現代人、続出。サムライスピリッツなどごく一部のレアな幻想。

 原作では、この話は「穴」の自然消滅で終わっている。だが映画では、結末に主人公の変化と行動を描かねばテーマをあぶり出すことはできない。
 「御先祖様万歳」は過去テレビドラマやラジオドラマに脚色され、放送された。そのなかで1977年に放送されたラジオドラマは原作とは異なる結末が描かれた。
 三平くんは、エスカレートする両時代をよそに、ダイナマイトで「穴」を塞いでしまうのだ。
 とがめる人に三平くんは言う。

 「彼ら(江戸時代の人)は、ヒロシマもナガサキも知らない。幕府や藩のためなら、ためらいなく核兵器も使うだろう」

 これを書かれた脚本家は、小松氏と同世代だったのかもしれない。戦争を背負い、急激に世界で最も豊かな国となった戦後を生きてこられた世代の警告だ。
 映画では三平くんとたけの行動こそが、原作者・小松左京氏の想いをつなぐことになる。ふたりの姿は戦争に蹂躙された小松少年であり、家族であり、庶民の姿である。
 映画の結末では、三平くんとたけは周囲の妨害を乗り越え、「穴」を自らの手でふさぐ。
 およそ千年前、鎌倉にはじまった幕府という軍事政権が、1945年8月15日、やっとこの国の歴史から消えたのである。  それは今、懐かしむものでも、手を加えるものでもない。 
 三平くんはそれを発見するのである。

 この小説が書かれた翌年1964年、東京オリンピックが開催された。街角にはまだ傷痍軍人の姿があった。54年後の今、3年後には再び東京でオリンピックが開催される。すでに戦争の跡はどこにもない。
 政治を司る世代も、すでに戦争を知らない。新しい法案は次々に制定されているが、誰がどれほどの関心を持っているだろう。

——しかし、農協の明るい白ぬりの建物や、どの家にも立っているテレビアンテナや、自動耕うん機のひびきや、明るい子供たちの声の下に、やっぱりどす黒い過去がぬりこめられているような気がする。(中略)それが完全にぬりこめられてしまうのには、あとどのくらいの世代と、改造がつみかさねられねばならないのだろうか? 過去はもう、二度とよみがえって、現代の上に狂気としてとりつくことがないのだろうか?

小松左京「御先祖様万歳」より

 「時間」を客体化できるSFこそが、隠れた「今」をあぶり出す力を持っている。
 コメディだけど、ちょっとピリ辛い「御先祖様万歳」。
 原作好きの映画会社、いかがですか? 予算も莫大かかりません。著作権利をクリアにし、シナリオ化するので、ぼくに作らせてくれませんか? 
 だめなら、海外の製作会社に売り込みます。

 「おたくの国に置き換えてみてはいかが?」

 なぜなら、どこの国であっても、御先祖様を持たない国家はないはずだから。

(記・2017年)

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