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無価値観と闘う

自分に自信を持てなくなったのはいつからだろう。

小学校の時、人がたくさんいる場所ではなぜか感覚が過敏になることがあった。自分でも理由がわからないが、平常心でいられなくなってしまうのだ。
ショッピングモールやテーマパークでは毎回人と会話ができなくなり、入ってすぐトイレに駆け込んだ。
小さいながらに「なんで周りの子は普通なのに自分だけこんななんだろう」と思っていた。

中学では人間関係の軽いいざこざから、自分を主張することができなくなった。
思春期特有の対人の悩みがきっかけなのか、それとも元々なのかはわからないが
今でも自分を積極的に出すのは得意ではない。

部活でも土壇場に弱くて頼りにならなかったし、そんな状況を覆すほどの努力もできなかったので
なんて情けない人間なんだ、と思いながら毎日を過ごしていた。

こうして振り返ると、自分の自信のなさは何階層にも重なってできた強固なもののようだ。
ちょっとやそっとの成功体験では自信を持って振る舞うことなんてできない。
少し自分を認められても、他のダンジョンに行けばまた自信ゼロに元通りだ。

「無価値観」という言葉をどこかで聞いたことがある。
自己肯定感が低いという感覚に近いかもしれないが、要するに自分に価値がないと思い込んでいる状態のことだ。
私はこの感覚にずっと苦しめられてきた。

怠惰な自分、努力できない自分、言い返せない自分、人と違う自分。
要求された人になれない自分。

普通の人になってなんの枷もない生活を送りたい。
何度もそんなことを考えた。

最近もずっと仕事がうまくいかないことで自分を責めることが多かった。
自分が悪い部分もあるのでなんともいえないのだが、過度にダメなところを反芻しては落ち込む日々を送っていた。

そんなある日、母親とあるTV番組の話になった。
その番組は一般人の夫婦を長期間撮影するドキュメントタリーだった。
あまり内容は憶えていないが、家事ができない妻を夫が叱責するシーンだけは強く印象に残っていた。
夫が激しく罵り、妻が俯いて涙を流すその状況は画としてショッキングだったが
どちらにも共感できてしまうという意味でも印象的であった。
要求している当たり前のことができない妻。一日二日であれば笑って受け流せるだろうが、毎日そんな生活が続くと夫もストレスが募るだろう。
一方で、どうしても家事や炊事ができない人もいる。彼女は専業主婦がほとんどだった時代、たまたま女に生まれただけなのだ。
だが置かれた状況で役割を全うできないという事実は、人を執拗に苦しめる。

その番組のことを思い出し、私はふと自分の環境と重ね合わせた。
仕事でも人間関係でも、要求した通りにできる人間ではない。怒られ、自分を責め、それでもうまくやれず自己嫌悪。負のループだ。
怒られることより、呆れられることより、自分で自分を認められない事実がなによりもつらいのだ。

その時初めてはっきりと気がついた。
私は自分を卑下することに疲れていた。
自分を傷つける毎日に嫌気がさしていた。
変えたかった。

普通になれない人間は、普通のレールから外れるか、その勇気がなければレールの中心に近づこうと努力するしかない。
中途半端は自分を苦しめる。
自分を守るために、普通になろうと努力することを決めた。

今は仕事も少しずつだが本気で工夫し、なにかうまくいったことがあれば自分を褒めるようにしている。
ほんの少しだけれど、以前よりは自分を認められるようになった。
自信なんて大層なものはまだ手が届くものじゃないけれど、自分を否定することが減っただけでも大きな進歩だと思っている。

一切皆苦、という仏教に出てくる用語の意味を最近まで知らなかった。
みんな苦しいから頑張れ、という程度に捉えていたが本質は違うらしい。
どちらかというと「思い通りにいかないこともそのまま受け入れる」というような意味だそうだ。
今自分を認められない人は、そのままでもいいと思う。無価値観を毎日感じて、自分を否定して、どん底まで落ちたらいい。
そんな毎日に飽きる日がきたら、きっと新しい自分を受け入れるようになったサインだ。
あなたはもう、無価値観に畏れを抱く必要はない。

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