【邦画】伊丹十三よ!「お葬式」よ!「マルサの女」よ!
伊丹十三さんとすれ違った一瞬の幸福
伊丹十三さんを間近に拝見したのは、1992年のことでした。
ある役者さんの舞台が跳ね、楽屋を訪ねたとき、彼は出ずっぱりの舞台上で燃え尽きたのか、「あしたのジョー」がリング上のコーナーでぐったりしているような様相でした。
ところが、わたしたちの背後からバスバリトンの声がすると、彼はパッと顔を輝かせて、「やあ!」と片手を高く挙げて会釈したのです。
とっさに振り向くと、至近距離で、伊丹十三さんの彫りの深い顔、そして伊達なファッションに身を包んだ長身が目に飛び込んできました。
陣中見舞いに訪れた伊丹十三さんを見て、わたしたちは、驚くやらあわてるやらで、サッとその場を離れました。
でも、このような光景を目に焼きつける機会は、めったにあるものではありません。
楽屋を出るとき、振り向きざまに中をうかがうと、ひそひそ話をするように、お二人は顔を寄せて話し込んでいました。
そこにだけ強烈なスポットライトが浴びせられ、まるで名優ふたりが演じる舞台を観ているような幸福な感覚に襲われたものです。
NEW伊丹映画が10作品~こうなったらオールナイト上映だ
それからほぼ30年、伊丹十三さんの劇場公開映画の全10作品が、4Kデジタルリマスター版の高画質映像でよみがえってきました。(放送は2K)
<伊丹映画>が、いま欧米で再評価の動きがあるなか、世界の伊丹ファンにとってのこの偉業は、<スカパー!>の<日本映画専門チャンネル>の特別企画(2023年1月8日~9日放送)として実現したものです。
さっそく、全部録画して<伊丹十三コレクション>を作り、<池袋文芸坐>の東映ヤクザ映画で慣れ親しんだ<オールナイト(自主)上映>と銘打って、ぶっ続けで観ることにしました。
これが、NEW伊丹映画のすべてだ
●お葬式(1984年)●タンポポ(1985年)●マルサの女(1987年)
●マルサの女2(1988年)●あげまん(1990年)●ミンボーの女(1992年)
●大病人(1993年)●静かな生活(1995年)●スーパーの女(1996年)
●マルタイの女(1997年)
――かくして、全作品をあらためて通しで観てみると、いずれもプロローグからして記憶がおぼろげだったことに気づき、巨額脱税の摘発や暴力団との闘い、大手スーパーのコストカットの手口、新興宗教の問題など、娯楽作ではあるけれども今も十分共感できる<社会派>作品なのだ、という再発見に新鮮な驚きがありました。
「伊丹十三が足りな過ぎる。」というコピーは秀逸だった
また、<日本映画専門チャンネル>が打ち出した「伊丹十三が足りな過ぎる。」(↑トップ画像)という<伊丹映画特別企画>のキャッチコピーについても、考えさせられました。
その場合の<伊丹十三>とは、<エンタメでくるんだ政治・社会批判>の複合的なシンボルであるわけですが、秀逸なコピーの全文は、次のようなものです。
――「この四半世紀ほど、この国には、伊丹十三が足りな過ぎる。」
四半世紀とは、およそ25年間ですが、伊丹十三監督の遺作となった「マルタイの女」の公開は、1997年9月27日。
伊丹十三さんが衝撃的な謎の死(*1)を遂げたのは、そのわずか3か月後の12月20日のことでした。
つまり、「この四半世紀ほど」というのは、1998年以降から現在までということになります。
<伊丹映画>以後の“失われた25年”とは?
では、「この国には、伊丹十三が足りな過ぎる。」というキャッチコピーは、いったいどのようなことを指しているのか。
まず、この国に生きる民衆が、経済、法律、福祉、文化、芸術ほかで構成され、相互に影響し合う社会の重層的な要素と、それらの基底に沈殿する<社会悪>に苦しめられているという現実に対するシビアな眼が背景にあると思われます。
いっぽうで、<社会悪>を正そうとするどころか、助長するような<政治悪>がいつの世にも存在します。
それら<社会悪>と<政治悪>をコミカルかつ小気味よく諷刺しながら、事の本質を衝こうとする表現行為が、<ポスト・伊丹十三>の今日までめったに現れず、たとえ現れたとしても、まだまだ足りなかった……映画だけでなく、ジャーナリズムにも……そう言いたかったのではないでしょうか。
ためしに、遺作「マルタイの女」を発表した1997年以降を支配する<この国のドン>を振り返ってみると、<まやかしの沖縄普天間基地返還協定>を手柄とした橋本龍太郎から、小渕恵三、森喜朗、小泉純一郎、安倍晋三、福田達夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦、そして再び安倍晋三(*返り咲き)、菅義偉、岸田文雄へと、目まぐるしく変遷してきました。
つまり、平成の世(平成21[2009]年9月から24[2012]年12月)の3年3か月で(“ドジョウ”こと野田佳彦首相による政権トップにあるまじき、安倍の挑発に乗った国会論戦上の大失策により)志半ばに終わった民主党政権を除き、すべて自民党政権(自社さ・自公政権を含む)による<政治悪>が<モリカケサクラ疑惑>を持ち出すまでもなく、連綿と続いてきたということになります。(*2)
伊丹十三さんは、政権交代の民主党政権を知らずに亡くなったわけですが、<伊丹映画>以後を、もしも“失われた25年”と呼ぶなら、表現分野では、(是枝裕和監督など一部を除き)視聴率や商業性を追求するあまりに<観客のニーズ>にこたえる社会性というものを失ったドラマ・映画が量産され、時の政権への忖度と社内の出世競争に明けくれた報道界のジャーナリストと同様に、自己の栄達と保身の陥穽にはまってしまったように思われます。
“軍靴が響き渡る”今だからこそ、伊丹十三よ! 永遠なれ!
その間、あれよあれよのうちに、韓国、中国、台湾、インド、タイなどアジア諸国に、貧困や格差などの社会問題をテーマにした、記憶に残る秀作映像を先んじられてしまったのは、<ハングリー精神>と<映像表現の無垢な情熱>の不足からくるものとして、必然だったように思えます。
そうは言っても、<社会>や<政治>を撃つ作品が、少しずつですが、「この国」のドラマ・映画にも出てくるようになりました。
映画「新聞記者」(松坂桃李、シム・ウンギョンのW主演)もそうですし、最近のTVドラマでは「エルピス」(長澤まさみ主演・関西テレビ制作)や「Get Ready!」(妻夫木聡主演・TBS系放送中)は、そろって例のA副総理とおぼしき悪徳政治家を登場させ、<社会悪>とともに<政治悪>を懲らしめんとする主人公が活躍します。
でも、その程度では、きっと「伊丹十三が足りな過ぎる。」のです。
民放TVには、スポンサーへの遠慮があって、現下の政権や政治家を糾弾するような作品は創りにくいという事情は分からなくもないのですが、そんな配慮は無用であるはずの劇場映画やWOWOWのオリジナルドラマでさえ、どこか及び腰のように思えます。
伊丹十三よ!――あなたが健在だったなら、戦前の大政翼賛会を模した自公(+維国)政権によって“軍靴が響き渡る国家”になり果てた今こそ、エスプリとユーモアに富んだ精神を利かせたディープな娯楽作品を提示してくれたはずで、そのような映画を皆が心待ちにして劇場に足を運んだと思います。
なんども、なんどでも言う――伊丹十三よ! 永遠なれ!
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