槍と合気道26
本年(昭和56年)4月より横浜ACCでは、午後及び夜の部が増設された。特に夜のクラスは、第1回の募集で定員40名が満杯となる盛況であった。ということで、この会報を途中から読まれる方も増加したことになる。このあたりで「合気道とは何か」についての連載に係る経緯を説明しておきたい。
表題「槍と合気道」の連載を始めたのは、約1年前(会報第6号)であった。連載のきっかけは、東京ACC第13期に入会された関野(会社役員)氏が寄稿された「槍と合気道」「刀と合気道」「書と合気道」からなる3部作のレポートにありました。
補足説明:ここで、このnoteでは、上記3部作を参考のため引用しておきます。
槍と合気道 東京朝日カルチャー 関野直輔
私の剣道の先生(銃剣術範士・剣道教士)の支那事変の経験によると、綿入れなどの冬服を着ている人間は刀で斬っても効果が少ない。その場合突きが最も有効である。なお、刀で突くよりも重量の関係から銃剣の方がはるかに有効であるとのことであった。刀よりも銃剣の方が有効であるならば、銃剣よりも槍の方がさらに有効と思われる。なぜならば、戦国時代の戦場では、槍が最も重要な武器であったと思われるからである。
ずーっと下った徳川時代においても、会津藩の槍術は天下に名声が高く「東に会津、西に柳河」と称されており、戊辰戦争の時、長州藩をはじめ官軍は会津藩の槍隊を最も恐れ、鉄砲で対抗してようやく勝ったとのことである(網淵謙錠著『戊辰落日下巻』97頁以下)。鉄砲のような飛び道具は別として、もし槍が最も有力な武器であるとすれば、総合武術としての合気道はいかなる方法で槍に対応しようとしているのであろうか。
両手で一直線に突いてくる槍を身をかわして片手で掴んだ位では効果は薄いのではないかと思う。
会津藩の家老西郷頼母が武田惣角に伝授して大東流を名乗らせたといわれているが、西郷頼母は会津九家の中位を占める名家であり、戊辰戦争では天下に有名な槍隊を自ら指揮した人である。したがって総合武術としての合気道には、当然槍に対抗する方法があると思われるし、もし、ないとすれば西郷頼母の考えを知っておきたいと思う。
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