合気柔術のはじまり7
(ここからは、同タイトルの別稿)
合気武道が取り上げている各種の技法は大東流合気柔術の技法が中心とされている。植芝盛平先生が大正11年9月に京都府綾部で大東流合気柔術の教授代理を許されてから、昭和の初めは合気柔術、戦後派合気道の名称で大東流の技法を普及した。
合気道は柔道でもなければ、空手とも違う新たに創始されたものではないかと思われるユニークなイメージがあるが、その武術系譜をさかのぼってみれば、合気武術が柔道・剣道よりも古い格式と伝統ある歴史(いわれ)があることが明確となる。
徳川封建体制からの脱皮といった明治期の改革の大波が怒濤の如く押し寄せてくる中で、嘉納治五郎先生が講道館柔道を誕生させた。古来の伝承形式を改め組織的な教授方式ともいう方法が採用され、新しい時代の潮流に乗って、大正年間にその基礎固めがなされた。
一方の剣道は、明治19年に警視流撃剣形が制定された。これは「八相(直心影流)・変化(鞍馬流)・八天切(宝山流)・巻落(立見流)・下段突(北辰一刀流)・阿うん(浅山一伝流)・一二の太刀(示現流)・打落(神道無念流)・破折(柳生流)・位詰(鏡心明智流)」以上の10本であった。これを土台にして、明治29年改めて大日本武徳会剣術形が制定された。なお、撃剣と称されていたものが剣道と改称されたのは、大正元年12月であった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?