沢庵和尚1
新陰流考の大柱のもとサブタイトル「沢庵和尚」とするメモです。一般には、たくあん漬けの考案者として有名な沢庵和尚こと沢庵宗彭についてのものです。なお、メモ中に宗矩との出会いに関する逸話(おそらく後世の創作)が紹介されていますが、出典は不明です。
沢庵和尚
柳生宗矩と沢庵との関係について研究した者がいない。宗矩に関する本はたくさんあるが、宗矩と関係した人間に関することを書いた本はない。また、沢庵と武術に関した本も存在しない。この2冊の本を完成させるには、どうしても沢庵を研究する必要がある。
沢庵は天正元(1573)年12月但馬国出石(いずし)に生まれた。父は秋庭能登守平綱典である。平氏を名乗るということは源氏ではない。このことは重要である。私(鶴山先生)も源氏ではなく、平氏に属しているからである。母は牧氏の娘、沢庵の幼名は五郎といった。この年、4月には武田信玄が53歳で没し、7月には織田信長が足利義昭を追放し室町幕府が滅亡した。
7歳の時、周嶽西堂に出家させられ、10歳の時但馬済船山の唱念寺(浄土宗)の僧が五郎の非凡を見抜き弟子に所望、春翁となった。天正14(1586)年14歳の時、理由は不明だが宗鏡寺(きょうじ)塔中の勝福禅寺に入り、希先西堂(きせんさいどう)の弟子になり秀喜(しゅうき)と改名した。希先没後、京の大徳寺に入り春屋宗園から宗彭(そうほう)という諱(いみな)を授けられた。文禄3(1594)年、沢庵22歳の時であった。この年、徳川家康が柳生石舟斎に入門している、このとき石舟斎に同行していたのが又右衛門宗矩(24歳)であった。