沖縄で生まれ育ち
こんにちは
今日も少し私のお話にお付き合いください。
私は昭和生まれ
ドルで通貨がやりとりされている時代に那覇市のど真ん中で生まれました。
小さい頃の私は、よく夢を見て夜中からトボトボ歩き出すという、面白い癖を持っていました。(いわゆる夢遊病的な)
私の父と母は、通常の夫婦という形ではなく、そんな家庭環境で育ちました。
弟が2人。
長女として、育った私。
もともと責任感が強かったというより生育歴の中で、そうするしかない感じで育ち。
必要にかられて、母や弟たちを私が守らなきゃ、しっかりしなきゃという思い込みを刷り込みながら大きくなりました。
そんなこんなでスクスク?と、小学高学年になる頃には、ちょっぴりやんちゃな感じに成長していました。
6年生の頃、突然股関節付近に痛みを感じて、歩けなくなったり、また、すぐに走れるようになったり、熱も出たり下がったり。
繰り返す症状に授業も休みがちになり、母は心配しながらも専門家ではないし、今で言うワンオペ状態だったものだから、医者の言う通りに薬を飲ませたり、あちこち受診したりしていたのです。
その頃、沖縄で一番大きな大学病院にやっとの思いでたどり着いた時には経済的にも精神的にもいっぱいいっぱい。
そばで見ていて、子供ながらに緊張が伝わってきました。
それでも、歯を食いしばり、幼い弟たちを預けながら私の病気はなんだろう?と必死になっていました。
しかし、原因がわからない(その頃の技術では、レントゲンくらいだから診断が難しかったのでしょう)と、つっけんどんに医師に辞典を叩きつけられて、「お母さん、この子の病気はどの辞典にも載ってない、病気かどうかもね?」みたいに言われて、しばらく凹んでいました。
そんな時に、当時、町医者と言われる整形外科のクリニックを細々と営んでいる医師に診て貰いました。
お顔がとても怖かったのを覚えています。(根は優しい先生でした。)
その先生のところでも、レントゲンでは、特に異常は見つからない。
しかし、先生は私の話、母の話、学校の様子、どんな時にどんなふうに痛くなり、どうしたら痛みが止まるのか?
そして、その痛みのあるときに君はどう感じているのか?
詳しく聞いてくれて、しばらく、私を観察してくれていました。
観察していると、やはり、跛行(びっこ)があること、それは、随時ではなく、運動後にひどくなることなどを客観的事実として、あげてくれました。
その後、なんと、京都の知っている先生に症状やレントゲン共有(コンサル)をしてくださいました。
そんな気の長い状態観察の期間が終わり、発症から1年後にやっと病名がついたのでした。
それからは、ある治療施設に入所し、治療に専念するために、3年間の車椅子生活が始まったのでした。
続きは、明日