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17年目に向けて、音楽と
祝、16年!
2006年12月23日。
教室で初めてのライブを企画してから、なんと16年が経ちました。
思いついた時には、まさかこんなに大人になるまでレッスンを続けているとは思いませんでしたが、
さまざまな人やご縁のおかげで、細々と続けることができています。
グループレッスンから始まり、
スクールで教えていた時代を経て、
数え切れないほど多くの人の歌声を見る機会に恵まれました。
一つに見える理論を軸に、どれだけ人それぞれの豊かな解釈が広がるか。
人間の多様な感性をまざまざと見せつけられてきました。
もともと、全員が同じような歌を目指す、タイプの教室に違和感を抱いていました。
同じようなものを目指した結果、最も似ている人、次に似ている人が生まれるだけで何の意味もない気がしました。
日常と音楽、真剣な娯楽をテーマに掲げ、
コツコツと生徒さん達と曲を積み重ねてきた16年間は、私の人生そのものです。
生徒さん達と、多くの曲との出会いを通して、
私のこの人生が出来上がっています。
音楽を日常に取り入れることは、
産声を上げて生まれた時点に持っていた可能性を、自ら迎えに行くことでもあります。
あんなに大泣きしても喉が枯れなかったあの時。
動物としての、全方位性の声が、社会的発話を獲得する前の私たちには確かに備わっていました。
自らの体を楽器として選び、音の森を散策することは、
日常で感じているのに置き去りにしている感情を迎えに行く行為です。
いつもはわざわざ口にはしないようなこと。
それでも人として、社会の中で日々感じている感情。
まさに赤子が産声を上げ、新しい世界の面白さを知り、自らの限界を突きつけられ、それでも誰かのために自分のためにまた立ち上がり、一歩ずつ前に進んでいく営みです。
私たちは他の何者にもなれません。
友人や同僚、家族でさえ時には選べるけれど、
自分自身とは、最後まで付き合い続けるしかありません。
そんななかで、曲と"友達として出会う"ことが、どれほど助けになるでしょうか。
しかも自分自身の本当の姿を教えてくれる友人です。
嬉しい時も、辛い時も、語りかけることができる友人です。
真剣な娯楽としての音楽には、
大会も試験もなければ、ゴールの設定もしなければなく、
地味な日々の鍛錬です。
それは調子の良い時も、悪い時も、
自分の心身の変化に気づいて受容する鍛錬です。
いくら新しい知識を獲得しても、頭で理解し整理できたと思っても、
ピアノの音を前に声を出す時、私たちは私たちの身体が表現するものでしかないのです。
歌を歌うとき、
家のタンスやポケットにしまっている物事は全て忘れ去られて、
今この瞬間この場所に現前している身体が、世界の全てになります。
物理的な身体と、マインドが同じ地点に一致しているときしか良い歌は歌えません。
自分に嘘をつかないこと。そのために、曲に合わせる方はではなく、曲の方を変えて自分に合わせる方法をお教えしています。
すべてはその人自身の感性を生かすために。
私の小さいキャパの、短い人生で、
できる限り出会うべき人と出会い、音楽との自由な付き合い方を伝えて行けたらな、と思います。
これからもどうぞ、お付き合いくださいませ。