「ガザ 素顔の日常」の上映会を行なって思ったこと
映画上映会を開催するにあたって、パレスチナ問題、ガザについて調べたり、ニュースをたくさん見たりして2023年10月7日以降のことを知ったつもりでいた。
第二次世界大戦後の1947年からパレスチナはイスラエルに侵攻されてきた。パレスチナ人にとって土地を追われ、色んなものを奪われる苦しみは76年継続し、現在も続いている。
土地を追われ、住居を奪われ、隣人や家族を失い、怪我や病気、飢餓に苦しみ、仕事や文化を奪われ、ついに壁で囲われ、厳しい制限を設けられ、外との交流を遮断された。
映画に写っている人たちにも、それぞれ苦しい現状、トラウマ、終わりの見えない絶望を抱えていた。それでも将来の希望と信頼をもって子どもに漁を教え、隣人と笑い合い、仲間とハイタッチし、客と歌い、パーティを開催し、夢を追いかけ、仕事に精を出し、家族を愛していた。パレスチナ人の友だちや知り合いがいない私にとって、ガザの人々の気丈さと、人としての豊かさに驚いた。おそらく日本人にこのような気丈さを持っている人は少ない。不満や絶望に日々眉をひそめて生きるのではないか。少なくとも私自身はガザの人たちと同じ状況なら、ああやって笑って過ごすことはできないだろうと思った。
それは苦しみを払拭するための「から元気」のようなものだけではなく、いつだって他者との繋がりを一番に大切にしているからなのだと感じる。
友だちでなくても嬉しいことがあれば人とハイタッチしたり、客の経済状況を心配して「お茶でも飲んでいけ」と大きな声でせきたてたり、不当に逮捕されていた人が釈放されたら家族は泣いて喜び、街全体で祝福していた。イスラエルの砲撃で負傷した人がタンカで運ばれる時もそこらじゅうの人が寄ってたかって泣いたりやるせなさを叫んだり、かたまりとなって病院までついていく。
たくさんの負傷者が出た時の病院の様子はまさにカオスだった。救急車で搬送されてくる人、治療する医療関係者はもちろん、怪我人の家族、仲間、現場から救急車を追いかけてきたであろう人、病院の近くにいた人、ありとあらゆる人が病院にごった返していた。治療の様子を覗く人、大声で泣き叫ぶ人、半狂乱になった母親、怪我人に泣きながら覆い被さる人…。医療の優先を考えると救急車の搬送の邪魔をしてはいけないし、患者以外の人が病院にたくさんいると処置が遅れてしまうかもしれない。それでもみんな押しかけてしまう。
それはみんながみんなのことを心配だから。他者をまるで家族、恋人、子ども、一番の親友、自分の体の一部、自分の命と同じように愛し、大切にできるからだということが伝わってきた。
「日本に生まれてよかった」「戦争のない、安全な日本で生活できる日々に感謝したい」「世界が平和になりますように」
映画の感想にはこのようなコメントが複数寄せられた。
日本が安全で平和であると確信していないと書けない言葉だな、と感じた。もちろん、ガザのように5分後に何が起こるかわからない、命の危険にいつも晒されているわけではないし、食事も住居も日本の方が環境は良い。
でも私はガザの人々が笑い合う映像を見て、日本の乏しさを感じてしまった。私は今まで誰かのために泣き叫んだことがあるだろうか。私が傷ついたときに、泣き叫びながら抗議する人はいるだろうか。
「国の安全のため」という理由で生活を制限され、海や土地を奪われ、戦闘機が空を飛ぶ沖縄、ヘイトスピーチを浴びせられる在日外国人、「生産性のない人間は死ぬべきだ」という人、その人の意見にうなづく人・笑う人、間違えた人を言葉で殴り続ける人…。
日本にもあらゆる暴力が存在し、自殺という形で命を奪い続けている。自分はいつも「そっち側」じゃないと言い切れるだろうか。安全だろうか。平和だろうか。豊かだろうか。
「向こうより、こっちの方がマシだから」
そういう思考になれば、優劣をつけているだけになってしまう。自分より上か下かで見るようになってしまう。
複雑なことを単純に判断してしまう。
つまり、日本は豊かで、パレスチナは劣っている、かわいそう、貧しい。だから助けなくちゃいけない、だから応援しないといけない。それはとても危険な発想だと思う。
「日本に生まれてよかった」には、他人事ということだけでなく、日本以外を下に見ているような臭いも感じさせる、危うい言葉に聞こえる。
あらゆるものを短く結論づけたり、単純に判断したり、カテゴライズしたり、悪を定義し正義を掲げること。これらは結局暴力に繋がってしまう気がする。
ハマスが悪いから倒す。イスラエルの首相が悪いから倒す。テロ行為を許さないから手段は選ばない。宗教対立が起きるから宗教は悪。イスラム教は野蛮。他民族とは分かり合えないから交わらないようにする。
戦争をしている国はばか。テロを起こすのは命を軽んじている。戦争がなくなれば平和。平和を尊く思えないのは罪。
「悪とはこれ」と簡単に決定づけたものを排除するには暴力しか手段がない。
パレスチナにもイスラエルを憎み兵士になる人もいる。自爆テロした人もいる。でも「暴力では解決できない問題だ」と気づいている人もたくさんいる。10・7のハマスの行動を非難するパレスチナ人もたくさんいる。「和平合意が唯一の解決だ」と訴える人も。
イスラエル、ユダヤ人はナチスによるホロコーストを経験している。ドイツ以外のユダヤ教信者も迫害を受け各地を転々としてきた歴史がある。そのイスラエルがパレスチナ人を追いやり、ジェノサイドを起こしている。
この不可解さというのは、原爆を投下された唯一の国である日本が原子力発電に依存していたり、抑止力のための武力を肯定し海外から兵器を購入し、抑止力のための原爆保持論を国外だけでなく国内でも否定することができない不可解さと似ている。
あらゆる暴力こそが否定し排除すべきものだと学んだはずなのに。
2024年3月21日
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