被害者と加害者と暴力
性犯罪もハラスメントもいじめもSNSの誹謗中傷も加害者側は自分の行動の正当性を主張する。
加害者だ。と他者から指摘された時、何のことを言っているのかわからない、自分のいちゃもんをつけてくる奴がいる、自分を陥れようとしている、事実無根だ、自分はいつも通り振る舞っているだけだ。と主張することが多い。
これは「正当化」しようとか「言い訳」をしているわけではない。本当に心からそう思っているのだ。
つまり、加害者の「日常」が常に暴力的になってしまっている。人の「日常」や「常識」を覆すことはほとんど不可能に近い。多くの場合、このタイプの加害者に「正しさ」を説いたとしても受け入れることはできない。
被害者に直接会うことができる距離の第三者がやるべきことはまず、加害者と被害者を物理的に離すこと。噂や加害者に関係している人ともできるだけ関わりを持たないようにする。そうやって被害者を守る必要がある。正義感の強い人は加害者に「正しさ」や「謝罪」を要求するが、「日常」が暴力的な加害者の場合、時間の無駄にしかならない。その時間を被害者を加害者から離すことにあてた方が意義がある。
被害者は自分を守ったりは基本できない。それどころでない傷を負っている可能性が高いからだ。第三者が必ず関与すべきだ。
当事者両方にあまり関係がない第三者にできることは、加害者を擁護する声や被害者の非を指摘する声を否定することだ。
加害者を擁護する声は「そんなことする人じゃないはずだ」「それくらいのことは暴力には当たらない」などがあるだろう。しかし、擁護する人は実際暴力の現場に居合わせたのだろうか。仮に現場に居合わせたとしても、被害者に向けられた暴力を自分に向けられたものと同等に捉えその暴力性の数値のようなものを正確に測ることはできるのだろうか。また、もし自分の生活環境に近い家族・友人・尊敬する人・恩人などが加害者として挙げられてしまった場合、信じたくない気持ちは起こるだろうが、決して擁護してはいけない。苦しいだろうが、万が一そうなってしまった時のことは考えておかなければならない。
被害者の非を指摘する声には「被害者が暴力を誘発するような行動をとった」「暴力を受けて、どうしてすぐに訴えないんだ」「これだけ時間が経って訴えるのは、自分にも後ろめたさやバレたらまずいことがあるんじゃないか」「過去をねじ曲げて過大に感じているだけだ」「当時は当たり前のことだった」などがあるだろう。
被害者本人がすぐに語り出せない理由として、一つは、このような「被害者の非を指摘する声」は、まず被害者自身が自分に向ける言葉だからではないだろうか。暴力を受けた直後、自分の身に起きた信じ難いできごとについて、瞬時に冷静に客観視して判断できるだろうか。その暴力が、強ければ強いほど、直後は混乱しているだろう。冷静さを取り戻すためには、「結論」を急いでしまう。この悲劇に結末をつけて終わらせたい。そうすると、「加害者」の行動や考えを推測するより、「自分自身に原因があったのだ」と結論づけてしまった方が手っ取り早い。そうして混乱を鎮めるために「間違った結論」を自分の中で作ってしまうということは大いにあり得る。そうして自分で自分の言葉を封じてしまうのだ。
大きな傷は「間違った結論」で蓋をして思い出さないようにする。思い出してしまえばまた大きな苦しみに襲われる。自分の精神と命を守るためにいったん忘れようとすることは自分の非を隠蔽するためではなく、自己防衛本能である。
冷静さや客観性を取り戻すためには時間が必要だ。その長さは人によっても違うし、受けた暴力の強さにもよるだろう。
よって、「○年も経ってから訴えた」というのは「それだけ強力な暴力を受けた」ということでもあると言える。
被害者が語り出せない理由はこれだけではない。
「他者に自分の言葉を封じられる」という事もあるだろう。暴力を受けたことを身近な家族や友人や尊敬する人、あるいは全く面識のない第三者に相談したときに、加害者を擁護する言葉や態度、また自分自身の非を指摘する反応が返ってきたらどうだろう。これはまた別の暴力として、被害者をさらに傷つけることになる。この広い世の中で、自分を守り、支えてくれる人を探すのは困難だと絶望してしまうだろう。冷静さと客観性を取り戻すのにさらに長い時間を要することになるだろう。
逆に、相談者が理解してくれ、自分ごとのように傷ついてしまうことによって、言葉を封じられることもある。自分が受けた暴力により関係ない他者まで傷つけてしまうのなら、自分と相談者を守るためにも暴力については触れないでおこう。ということもあるだろう。暴力は被害者だけでなく被害者を大切に思う人をも巻き込んでしまう。
何とか自分の傷と苦しみに蓋をして、もう開けないよう深い場所に封印し、被害者としての自分を殺してしまった人も多いだろう。封印に失敗したり、傷と苦しみに蝕まれて命を落としてしまった人もいるだろう。暴力とは、いとも簡単に命を奪ってしまうのだ。それでも凶悪な暴力に立ち向かい、生きて、自分を取り戻そうとしている被害者がいたならば、私たちは寄り添い支えるべきなのだ。
最後に、加害者の周りにいる人はどうするべきだろう。
加害者が自分の暴力にきづき、後悔や反省をしたとしても、その暴力について肯定してはいけない。慰めるつもりで「仕方なかった」「当時の風潮だ」「あなただけが加害者じゃない」などと言ってしまってはかえって加害者を混乱させてしまうかもしれない。慰めるなら今後の加害者の行動を信じて寄り添うしかない。しかし、自分の暴力や日常の異常性に気づかず、被害者や摘発者に恨みを持ったり、以前の日常や言動や態度から何も変わらないということもあるだろう。周りが加害者の異常性や暴力性に気づいているならば、暴力が行われそうな組織、場所、環境から少しでも離そうとすることが必要だ。それができるのはひとりではない。加害者から距離が近い人だけということでもない。加害者の周りにいる人は被害者と同等とも呼べる苦しみを抱えることもあるだろう。その苦しみが耐えがたければ、やはり加害者との距離を置くのも一つの手段かもしれない。しかし、例えば加害者が自分の家族なら、簡単にその人との関係を断ち切ることも距離を置くことも難しいかもしれない。また加害者が暴力を振るい誰かを傷つけることは、本人を含めて周りも望んでいることではないだろう。だからこそ加害者の周りにいる人は加害者がいつか暴力に気付き、同じ間違いを繰り返さないために寄り添い支えなければならない。権限を持つ人や組織なら時には加害者に対し部署移動や停学、逮捕のような措置を取らなければならないこともあるだろう。
また、加害者本人が自らの暴力に気づいても、第三者には加害者の暴力を肯定したり、被害者の非を指摘する人もいるだろう。そういう人や言葉からも、加害者を離していくことが必要だ。これもまた、加害者本人ではなく、第三者が関与すべきことだ。
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