Jの獄中大麻手記(4. ホメオスターシス)
前半(11月17日更新)
「宇宙とは、人間が認識したすべての世界である。」
私の好きな言葉です。
認識のやり方には二種類あります。アナログとデジタルという表現が分かり易いでしょうか。アナログは、無限に連続的な世界をありのままに認識するやり方で、完全な複製ができないので、白黒ハッキリとした答え合わせは難しいです。自分だけのものであり、世界そのものです。デジタルは、連続的な世界を任意に切り取り、名前をつけるやり方で、他者と共有し答え合わせがし易い、限界に合わせて単純化した世界です。
アナログの世界では、世界についての認識は二種類しかありません。認識いているか、していないかです。本当はそんなものもないのですが、そういうことにしましょう。世界をアナログ的に認識することを「悟り」と言い、永久的に認識し続けている境地を「涅槃」と言います。私は悟っては居るけれど、デジタルの世界と行き来することを選んでいるので、涅槃には入っていません。
デジタルな世界では、ミクロ的にもマクロ的にも、無限に認識を複雑化できます。これは物理学をイメージすると分かり易いです。ミクロ的には微生物の発見から細胞、分子、原子、今は量子の世界という様に、どんどんスケールが小さくなっていますし、マクロ的には地動説の発見から太陽系、銀河系、銀河団などという様に観測できるスケールが大きくなっていますが、想像に易いように、この営みは無限に続くでしょう。理論物理学者の中には、最終的には根源的な真理となる物理法則が記述可能な形で発見されると言う人も居ますが、私は根源的な物理法則を記述することは不可能という立場です。記述をするということは、何かしらの記号(文字とか)を用いるということで、記号を使う表現は必ずデジタルの世界になります。デジタルであるということは、前述の通り永遠にアナログにはなれないということです。具体的には、法則を記述する、つまり「世界をプログラミングする」と考えた時に、例えば「これぞ根源的な物理法則だ」という発見があったとしても、そのプログラムで私が感じている世界を出力するためには、最初に入力する変数が必要で、その変数を入力するためには、その必然性を担保する物理法則が必要になる。という具合です。
「世界があるのではなくて、我々が切り取って記号化したものが世界だ。それがつまり言語だ。」ということを、ソシュールが言っている訳ですが、デジタルな認識についてすごく分かり易い説明だと思います。またウィトゲンシュタインは、「我々はお互いのデジタルな認識をすり合わせる言語ゲームをしていて、それが世界の本質である。」ということを言っていて、この切り取り方はすごく上手だと思います。
言語には論理的な使い方、分かり易く言えば数学的な使い方があって、これは極端にデジタルな使い方だから、サルとか犬とかコンピュータとまで正確に答え合わせができるやり方です。一方面白いのが、「行間を読む」とかそういう、詩的な言語の使い方もあって、これは言語のかなりアナログな側面と言えます。ウィトゲンシュタインの言語ゲームモデルは、このことをよく分かっていて、「ある哲学を理解するためには、その人のパーソナリティを研究する以外に方法はない。」という定義を盛り込んでいます。これを上手に世界を切り取って学問化(追求可能に)しています。
ここで重要なのは、言語ゲームはアナログな側面があるということで、これはつまり、私がどんなに丁寧に言語化しても、あなたがどんなに分かろうとしても、私もあなたも言語を通して完全に考えを写し取ることはできないということです(注、非言語領域ではその限りではないよ)。これは恐ろしいことの様だけど、世界の本質はアナログなものなのだから、実は当然です。
ブッダことゴータマ・シッダールタも、この辺の事情を認識していた様で、彼はちょうど今の私くらいの年頃の時に悟った(世界をアナログ的に認識した)けど、「これを人に伝えるのって不可能っぽいんだよねー。どうしようかなー。」としばらく悩んだという記録が残っています。
何故いきなり哲学的な話をし始めたかというと、私は今の社会、というか、特に文字を使った言語領域が、あまりにもアナログ性(つまり世界の本質)を無視した認識を、排他的に信仰し過ぎている様に感じていて、中でも医学・生理学(というか生物学)というのは、私が悟るに当たって重要なファクトになったことで、私の哲学でも大きな役割を演じているのですが、これからお話するECSを理解することは、現代の物理学や生物学等の高度に専門化されたデジタル認識を使わずに世界の本質的なところを理解した、ゴータマ・シッダールタのアプローチにかなり近いと思ったからです。
ちょっと語り足りないことが多すぎて意味深な文章を出力してしまいましたが、このままだと完全に脱線してしまうので、詳しくはJ選手の今後の活動に期待して下さい。
とにかく、例えば「感染症は抗生物質で病原菌を殺せば解決する」とか、「精神病は神経伝達物質が原因だから薬で治る」とか、「侵攻するのが悪だからロシアやハマスが悪い」とか、そういうデジタル式単純化を信仰することで心の安定を得ている人にとっては、大麻やいわゆる東洋医学を「医学・医療」や「科学」として考えるのが難しいことがあります。といいますが、私も過去にはそうだったので、前置きとして哲学的な共通認識が必要と直感したのです。
さて、「ECSはホメオスターシスの調整をしている」と表現されますが、ホメオスターシスとは何でしょう?
ホメオスターシスは、日本語では「恒常性」と書きます。似た言葉で、我々哺乳類は恒温動物と言いますが、これは外気が0℃でも40℃でも、体温を一定に保つ能力がある動物という意味ですね。この恒温動物に於ける体温調節能力の様な、ストレス(負荷。この場合は在るべき自分の体温と外気温とのギャップ。)に対応して身体を一定の状態に保つ能力のことを、ホメオスターシスと言います。つまり、傷を治したりするレジリエンスや、色々な活動によるエネルギーの処理能力も、ホメオスターシスの一部と言えます。ホメオスターシスがあるからこそ、細胞は生物の最小単位なのだとも言えるし、単体でのホメオスターシスがあるといえるか微妙だから、ウイルスは生物なのかといった議論にはなるのだとも言えます。
ホメオスターシスはあなたがあなたであるための、かなり根源的な能力、というか性質と言ってよいです。
後半(11月22日更新)
しかし、この説明だとあなたは「そんなこと言ったら身体のすべての機能はホメオスターシスに関わっているじゃあないか」と思うかも知れません。というか、私はそう思います。何なら地球にとっての生態系は、我々にとってのマイクロバイオーム(微生物叢)の様に見えるし、地球内部の対流や地磁気、大気と流れ星の関係なんかも地球の免疫等の機能としてホメオスターシスに見えます。アインシュタイン物理の目線で見れば、原子のエネルギーのやり取りから宇宙の振る舞いまで、一定の方向に向かって秩序立っていて、私には生命の様に見えます。さて、そんな私達の身体のホメオスターシスを、ECSが調整しているとはどういう事なのでしょうか。それを理解するには、ある程度単純化する方が簡単で、そのためには私達生物が普遍的に持っている理念を考えると分かり易いです。
中でも、重要且つ、ECSがその理念の追求に関わっているのが、「省エネの方が良い」というものです。同じ環境で同じスキルを行使し同じパフォーマンスを発揮して生きるのなら、より少ないエネルギーで生きられる方が、より環境の変化に強いと言えます。つまりコスパ良い方が良いよねという理念です。
すると非常時に不必要にエネルギーを使うというのは間違ったことで、非常時の緊急システムは適切な時に必要な時間だけ作動する方が望ましいことになります(誤解しないで欲しいのが、平常と非常はスイッチの様なON/OFFではなく、連続的且つ動的で多元的なグラデーションのものです)。
非常時というのも色々ありますが、ここではいきなり投獄されたJustin選手(このブログの筆者)のノルアドレナリン・システムを例に取って動きを見てみましょう。
捕まって環境が変わると、これまで使ってた平常時システムによる運転では、これまでとは明らかに違うフィードバックが返ってきます。すると、これは危険な状況かも知れないから、ノルアドレナリンが沢山分泌されて、(レセプターがそれを受容し)交感神経系が興奮して、緊急時システムに切り替わって行きます。その結果Justin選手は緊張し、脳は答えを求めて論理に記憶にフル回転し、筋肉はすぐに動けるように強張り、消化や栄養の吸収は抑えられ、Justin選手はジタバタ試行錯誤します。この状態は栄養の吸収を止めていますし、エネルギー消費も大きいので省エネではありません。ジタバタしている間も生存に成功している限り常に刺激がフィードバックされているので、ジタバタの中の特定の行動が成功と結びつけられ、日一日とJustin選手も、命の危険は無く、落ち着いても大丈夫であることを悟ってきます。つまり獄中の平常時システム(ニューロン)が構築されて、獄中でもリラックスして生活ができる様になってきます。この間ノルアドレナリン・システムでは、オートレセプターのノルアドレナリン代謝物が増えると、それに合わせて「何時まででも緊張モードで居るべきではない」とばかりにレセプターの数が減って行きます。すると、ノルアドレナリンによって興奮するニューロンが落ち着いて行くので、平常に戻って行く(そしてレセプターの数も戻って行く)。というメカニズムになっています。
あなたが新しい習い事を始めた時も、引っ越した時も同じ様なことが起きています。
ここではノルアドレナリンが増えたり減ったり、そのレセプターが減ったり増えたりしましたが、それは何を基準にどの様にして行われたのでしょうか。
その采配の所でECSが働いています。
(これもエクストリームな単純化ですが…)ECSは「平常」を知っていて、様々なシステムと関わって、身体を平常に戻そうとするオペレーションマネジメント的な仕事をしているのです。
生産工場で管理職が突然居なくなっても、実際に生産を担当している職人は生産を続け、工場は稼働することができますが、徐々に経営が上手く行かなくなってきます。
しかし、逆に職人が突然居なくなってしまったら、工場はその瞬間から稼働できませんね。
身体もこれに似ていて、例えばドーパミン・システムなど、呼吸や心拍を司る自律神経と直接関わっている所に問題が起きるとすぐに死んでしまったりしますが、ECSはそういった短時間で死に直結する様な領域では働いていません。なので、仮に魔法で身体からECSを取り除いても、すぐに死んでしまうということはありません。
だからこそ、ECSに作用する大麻は安全性が高く、様々な不調に有効なのです。
緊急システムから平常システムに戻ることを「馴化(じゅんか)」といいます。親しみのある言葉にすると、「慣れる」ということです。
ホメオスターシスを「慣れる仕組み」という意味で使う人も多いです。私の印象では筋トレ好きの人がそういう風に使っているイメージです。「毎日同じメニューでトレーニングしていてもホメオスターシスで慣れてしまうので、変化をつける方が鍛えられる」みたいなことを言っているのを何度か目耳にしたことがあります。
馴化がホメオスターシスの真理であり十分条件だというような認識は危険だと思いますが、馴化がホメオスターシスの重要な要素であるという視点には私も賛成です。
人は(というか生き物は)どんな刺激にも馴化します。快感にも、苦痛にも。そして殆んどの生物の本来の「平常」というのは、基本的には腹が減っていたりする欠乏状態です。だから満たされたままで居続けることは不可能で、必ず馴化して不安になったりします。
この我々のホメオスターシスの本質をよく理解し、諸行無常つまりダイナミックなありのままの世界像とのダイナミクスを哲学していたのが、ゴータマ・シッダールタその人です。だからホメオスターシスの話をする前に彼の名前を出したかったのです(因みにエンドカンナビノイドの一つ「アナンダミド」の名前は、ブッダの弟子のアーナンダから来ています)。そして最初の方の記事で、落ち着こうとする性質や、落ち着いているべきだとする価値観が大麻の薬理と関係すると書いたのはこういう事だったのです。
あなたがあなたらしく在るためのホメオスターシスを助ける安心安全な作物。それが大麻なのです。
私は過去長い間、世界をデジタル的に、またスタティック(静的)なものとして見ようとしていました。また、苦痛からは逃げ切れると信じていましたし、環境さえ整備すれば快感は永続すると思っていました。老いることも無く、美味な果実は無限に実り、乳や密の川が流れる天国という環境がそれを実現し、それが「幸福」だとするキリスト的な価値観を疑うことをしませんでした。
しかしその考え方は世界や身体の実態を捉えていません。だから認識との間に歪みが生まれ、それが私を苦しめていました。具体的には私は小さな頃から最近まで多くの精神病・神経症に悩まされていました。
それが物質的な意味でも哲学的な意味でも、大麻との邂逅が私を「幸福」という地獄いから救いだしたのです。
そもそも「幸福」というのは、明治時代に学者が西洋のキリスト的なテキストに頻出する「ハピネス」という概念が日本には無いので新しく作った言葉です。
この幸福論の蔓延は、これまで人類が経験したいかなる病原体によるものよりも、よっぽど深刻なパンデミックだと思います。
大麻や、そのほかの安全な生物の違法化が流行ったパンデミック、その歴史は、この幸福論という病気の副産物の様な形で各国に拡がって行ったとも言えると思います。
ということで、ここからは人類の友達である素晴らしい大麻が、どの様にして今の様に悪者にされてしまったのか、その「歴史」と言うにはあまりにも最近起きた一連の出来事を振り返っていきましょう。
つづく