「伝える」ための「エモい」
皆さんは「エモい」という言葉をどうお考えでしょうか。
肯定派ですか?否定派ですか?
かつての私は、「エモい」や「ヤバい」などの若者言葉に対して、肯定的とは言えませんでした。あらゆる感情をたった一言で言い表すことができるこれらの言葉は、多くの言葉を、そしてそれに付随する感情を失わせてしまうように感じていたのです。
とは言え自分も若者の端くれであるため普通に使っていたのですが、使うたびに「今伝えたかったことって、これ以外のどんな言葉で表せるかな」と考えたりしていました。そうしてこれらの言葉が消えていくことへの恐怖を募らせる。今思えば面倒くさいやつだなと自分でも思います。
後々になって気がついたのですが、この時私は「消えていく言葉」に注目していて、「新しい言葉が生まれてくる」とは捉えられていなかったのです。
考えてみれば、言葉が移り変わっていくことそれ自体はなんの変哲もないことで、古来より続いてきた必然の変化でしょう。
現代を生きる私たちは、「この景色いとをかしだね~」なんて普通は言いません。おふざけで言うことはあるにしても。
では、「をかし」の意味を知っている人はどれくらいいるでしょうか。
これはきっと、結構いると思います。
言葉っていうのは、そう簡単に消えることはないのだと思います。もちろん消えていった言葉だってゼロではないでしょう。そういう言葉に思いを馳せると、やっぱり少しもったいないな、残念だなという気持ちにはなりますが、それでもこの世界にはまだまだ、美しい言葉がたくさん残っています。それが、日常的に使われなくなった言葉だとしても。
「エモい」という言葉の語源は「emotional:感情的な」だと聞きました。最近知ったのですが、「えも言われぬ」が語源だという説もあるらしいですね。ちなみに私は後者の方が断然しっくりきます。母国語だからでしょうか。
私は「エモい」のことを、「心が確かに動くんだけど、なんとも言えない あの感じ」を表す言葉だと認識しているんですが、とても守備範囲の広い言葉だなあと思っています。その曖昧さゆえに、あまり好感を抱かない人も多いのだと思います。言葉の美しさに魅せられて、自分の言葉に責任を持とうとしている人なんかは、なおさら。
確かに詩や小説など、じっくりと言葉を吟味してつくられるものにおいては、適切な表現を探す方がいいと思います。
言葉の伝達にラグがある場合には、「エモい」は真価を発揮しない。その場で同じものを共有しない人に対しての時間差での「エモい」は、あまりにも曖昧で幅広すぎる。こういう場合には、辞書を繰って満足のいく言葉を追求していくのがいいのかなぁと思います。
けれど、「言葉にできない、ぴったりな言葉が見つからない。けれど、隣にいるあなたに、この感覚を伝えたい」と思ったとき。そんなときに使える言葉があるのは、それはそれで素敵なことではないでしょうか。
もちろん、その感覚を言い表す言葉は確かに存在するのかもしれない。知らないだけで探せば見つかるかもしれない。
けれど、瞬間的にこの気持ちを言葉にしたい!と思ったタイミングなら、適切な表現を模索するより「エモい」を使う方がいいのではないか、と私は思っています。
ぴったりな表現を探して、なかったら諦める。それはとてももったいないことのように感じます。
では、その場面で「エモい」を使ったら?
「何て言うか……エモいね」と相手に伝えられたら?
「言語化は上手くできないけど、自分と共有したい感覚があるんだ」ということは伝わりますよね。
そして相手も同じように、言葉にできない感覚を感じていたとしたら、
「そうだね」
と返すことができます。
それによって、共有が可能になる。言葉にはできなくとも、確かに同じものを感じている。その点で、私たちは繋がっているのだという感覚を得られる。
自分と相手の思考を共有すること、そしてそれに共感すること。それはとても素敵なことで、嬉しいことだと思うんです。皆さんも経験上、そう感じたことがあるのではないでしょうか。
その感覚の正体をはっきり言葉にできなくったっていい。適切な言葉なんていうのは時にどうでもいいもので、「共有している」というその感覚を得られること。それが一番素敵なことなのではないでしょうか。
どこまでいっても言葉は、「伝える」ためのものであって、言葉のために伝えることを諦めるなんてことがあってはならない。
言語学者でも作家でもないただの大学生のひとり言ですが、私はそう考えています。
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