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三角帽子の魚屋さん
三角帽子の魚屋さん
それは何の前触れも脈絡も前兆もなく、突然起こった出来事だった。妹が突如として押し入れの中に引きこもってしまったのである。それを知っていたのは僕だけだった。両親は、初めのうちは妹の不在に気づいていなかったが、昼過ぎになるとようやく妹がいなくなったことを認識した。母は妹の名前を呼びながら家じゅうを探し回り、返事のないことを悟ると、やがて友達の家庭や学校に電話をかけ始めた。父は翻って冷静だったが、時間の経過とともに焦りが垣間見え、やがてパソコンをひっきりなしに操作し始めた。僕はさっき妹が押し入れの中に引きこもったことを知っていたと言ったが、実際には正確な意味で知っていたわけではなかった。というのも、事前に妹からそのことを聞かされていたわけでもなく、実際に妹が押し入れの中にいることを目撃したわけでもなかったのだ。だから、正確には「感じていた」の方がニュアンスとしては近いのかもしれないが、事実妹は押し入れの中にいたので、それがより「知っていた」に近い意味を帯びていたのは確かであった。ここで、なぜ僕が妹が押し入れに引きこもることを、確信をもって感じ取れたかというのは僕にもわからない。しかし、それは山に雨が降って、その水が山間を縫って地上におり、やがて川を形成して海に還ることと同じくらい、自明のことのように僕には思われた。
壁にかかっている掛け時計がちょうど三時を指し、それを伝える小鳥が時計から出てきて「ポッポ」と三回鳴いて、また時計の中に戻っていった。そこで僕は時計の下の小机の上においてある貯金箱の、500円玉が一枚なくなっていることに気が付いた。貯金箱には500円玉が全部で7枚あったはずだが、今は6枚しかない。とすると、僕以外の誰かが勝手に使ったのだ。僕は絶対に使ってないと言える。なぜなら、500円を使うことに対する抵触感をここ3か月で身に着けて、最近ようやく板についてきたからだ。これまでの貯金がうまくいかなかったのは、貯金したお金を使ってしまうことにあった。というか、貯金がうまくいかない原因は必ずそこに帰着してしまうと思うが、そもそもそれは10円玉や100円玉が比較的容易に使ってしまえることに問題があるのだ。そのことに気が付いて3か月前、500円玉だけを貯金することに決めた。500円玉は、金に近いものに配されたその色と大きさから昔からお店で使うことにやや抵抗があった。それを逆に利用してその抵抗感を最大限まで大きくし、500円玉を使わない心理を肉体に埋め込むことで、貯金を成功させようと試みたのだ。事実、その試みはうまくいった。3か月で7枚もの500円玉をためることができたのだ。金額に換算すると過去最高額更新である。僕は大事に貯金していた500円玉を不意に失うことになるのはとても心苦しかった。同時に底知れぬ怒りも沸いた。
時計の針が四時を過ぎ、五時を過ぎ、六時を回った。その間に小鳥はきっちりと三回ずつ鳴き、元の位置に戻っていった。同時に貯金箱の500円玉も一枚ずつ消えていった。時計の針が七時を回ったとき、同じように小鳥がその内部から出てきたが、その時は鳴かなかった。代わりに小鳥はその小さな時計の世界から抜け出し、現実世界へと羽ばたいていった。初めその小鳥は時計の近くをぐるぐると三周ほど回り、その間にみるみる形を大きくして、やがて巨大ともいえる羽を引き延ばして窓から夜の空へと飛んでいった。それとほとんど同じ瞬間に妹が押し入れから出てきた。妹は相変わらず同じ様子で、「スマホの充電が切れそう」といった。近づいて画面をのぞくと、ちょうどあと5パーセントから4パーセントに減ったところだった。その空間には僕と妹しかおらず、辺りには家具一つ、鉛筆一つとして存在していなかった。両親もどこかに姿を消していた。僕は妹になんで怒っていたのかを尋ねた。「三角帽子の魚屋さん」と妹は答えた。僕は初めその意味をとらえきれなかったが、「三角帽子の魚屋さん」の店内の情景を思い浮かべ、その音を聞き取り、魚の生臭い匂いを感じ取ると、ようやく意味を理解することができた。妹の髪は背中の辺りまで伸びていた。長い間押し入れの中にいたが、それほど薄汚れた感じはしなかった。むしろ想像以上にさっぱりとしていたので、僕は安心した。「三角帽子の魚屋さん」は赤身の魚しか売っていなかった。しかし、そのことで妹は怒ってはいなかった。多分店長の態度に怒っていたのだ。「みんな嫌い」と妹は呟いた。
瞳を閉じていても、それを貫通するほどのまぶしい光がカーテンの隙間から差し込んできた。僕は壁にかかっている時計を確認した。ちょうど7時を回ったところだった。僕はカーテンを開けて、少し窓を開いた。外ではたくさんの小鳥たちが元気よく鳴いていたが、その中に「ポッポ」と鳴くものがあった。掛け時計の下の小机の貯金箱には500円玉が全部で7枚あった。僕はほっと一息をついた。