アメノツカイ
体長のわりに赤い大きなくちばしを携えた小鳥が、そっと目の前の小さな水たまりの上に舞い降りた。全身が鮮やかなオレンジ色に配されていて、細い二本の脚が水たまりの上に降り立ったとき、わずかな波紋がその水の上に起こった。アカショウビンだ、と反射的に感じた。初夏になると南国からやってきて、夏が過ぎると去っていく鳥。僕は公園のベンチに腰掛けていて、アカショウビンは昨夜の通り雨が残した水たまりの上に佇んでいる。
ふと、一夏昔、この火の鳥を求めて森の中を歩き回った記憶が蘇った。僕の隣には、穂香もいた。高校の野鳥観察クラブの活動だったが、部員は僕と穂香の二人だけだった。普段は学校の周りに生息している水鳥を観察しては、その鳥の名前や特徴を調べることが主な活動だったが、たまには、気になった鳥だけを求めて自然のなかへ駆けてゆくこともあった。目当ての鳥を観察することは至難の業であったが、それでも二人して森を分け入って、宝物を探すように鳥を求めることは楽しかった。
夏が近づく時期、アカショウビンが見たいと言ったのは穂香の方だった。
高三の夏、梅雨の時期の間を縫った、よく晴れた日だった。
「十年後、ふたり何してるんだろうね」その日、森の中で穂香は言った。
「十年後、二十八歳か。本当に何も想像できないな。働いて、結婚して、子供がいるかもしれない。あるいは、人生に絶望して半ば壊れかけてるかもしれない」僕は言う。
「そんな悲しいこと言わないでよ」穂香は笑う。「十年後も、鳥は好きかな」
「鳥は、好きだといいな。自分の人生と並行して鳥が飛んでくれていたら、それだけで幸せなのかも」僕は十年後も鳥を求めて同じように森の中を歩き回っている自分を想像していた。意識の上で、目の前に広がる風景は案外想像することができた。ただ、その主体は今と同じ背格好をしているだろうか。隣には今みたいに誰かがいるのだろうか。それは穂香なのだろうか。そこまでは想像できなかった。
「穂香は?」僕は問う。「鳥は好きかな」
「誰かが一緒にいてくれるなら、かな。鳥は好きだと思うけど、やっぱり隣に同じように好きな人がいてくれないと、どうしても熱が冷めてしまいそう」
彼女は、僕の目を覗き込んだ。真っ直ぐ見つめる彼女の瞳は、薄暗い森の中で、驚くほどに澄んでいた。澄んでいて、少し赤みがかっていた。彼女はその目を通して、僕に何かを訴えかけようとしているように思われた。
その意味を知るのが気恥ずかしくて、そして少し怖くて、僕は目を逸らした。辺りは見渡す限り木々で覆われていた。僕らの他に人影はなかった。風が吹くのを号令に、木々が揺らぎ、虫が鳴いていた。時折、雲間から日が差し込んで、少し明るくなったりもした。残りは、鳥の鳴き声。僕らはその音を聞き分けながら、目当ての鳥を追っていた。それは、丁度オーケストラの演奏でホルンの音だけを聞き出すように難しい作業だった。
「将来のこととか、難しい話は置いといてさ、当たり前の話でいいよ。例えば、昨日の晩御飯とかさ」僕は、彼女の真意に迫るのが怖かった。触れてしまったら、形が変化してしまってもう戻れないと思った。だから、いつも僕は逃げていた。割れやすい陶器をそっと包装紙に包むように、敏感に敏感に、核心を避けて逃避していた。
「そうだね」彼女は笑う。「昨日は、オムライスだったよ」
それから僕らは小一時間程度、森の中を歩き回った。しかし、アカショウビンを見つけることはできなかった。やはり、そう簡単には見つからないのだ。こんな時、いつも穂香は「どこにもいなかったね」と言って、そっとはにかんだ。僕は穂香のその表情と、その台詞を密かに、それでいて強く、愛していた。この先ずっと二人で鳥を探しにいって、そして、ずっと探している鳥が見つからなければいい、そう思いもした。それほどまでに、風の少し強まる午後の、帰り際の彼女のその情景が好きだった。僕は、そんな二人の関係が本当に永遠であることを希求していた。何も足さず、何も引きたくなかった。彼女の核心に触れず、かといって離れすぎず、ちょうど城の外堀の辺から天守閣を眺めるような立ち位置で、彼女と接していたかった。穂香は、どう思っていたのだろう。
水たまりのアカショウビンが一度、きゅるる、と鳴いた。アカショウビンは、梅雨時のこの季節になると、雨を乞うて鳴くらしい。そして改めて、その全身を隈なく観察しようと試みた。よく見ると、同じ赤でもその濃淡ははっきりしている。腹部はやや黄みがかった赤色で、翼は反対に黒みがかった赤である。そして、その鋭い大きなくちばしの赤は象徴的である。例えるなら、鮮やかな炎……。あ、と思った。穂香だ。
僕らがこの鳥を求めて森の中を彷徨ったちょうど次の日、穂香は火に焼かれて死んだ。仔細は覚えていないが、通行人の放火によるものだった。当時僕は、適切な感情を持つことすらできなかった。僕にとって、その出来事はあまりにも大きすぎて、むしろ僕とは関わりのない別の次元の話のように感じられた。その事実が僕に馴染んできたのはそれから何年も経ってからだった。それと同時に、少しずつ彼女の存在が僕の中から薄らいでいったのも、また事実だった。そうか、あれから、十年。穂香が、会いに来てくれたのだ。そして、目を閉じ、蓋をしかけていた記憶を、大切な記憶を、思い起こさせてくれたのだ。
水たまりのアカショウビンが、もう一度、きゅるる、と鳴いた。雨を求めて、鳴いた。
そして小さな翼を懸命に上下して、空へと飛び立った。明日の朝には、この水たまりも乾いてなくなってしまうだろうと思った。