春日狂想⑵
玄関の扉を開けたら、すこぶる笑顔のピザの配達人が、両手にピザを持って待ち構えていた。同い年くらい見えた。
「あの、頼んでないですけど」春樹はボソッと言った。
「え、小池さんのうちとちゃいますん?」
「違います」と言って、春樹はピザ屋の男に小池さんの家を教えた。
「あー、あのサザエさんの家みたいなところか」とピザ屋の男は言って、去っていった。春樹はふと、ピザ配達が間違えられたのは、結局回り回っておれのせいじゃないかと思った。全ての悪いことは自分に関係があると思った。生きているだけで申し訳ない。生き苦しい世の中には腹が立つけど、同じくらい自分自身も憎い。だからさっさと死んでしまおうと、改めて自殺の意思を固めた。
再び風呂場に戻ったが、包丁を手に持ったところでまたチャイムが鳴った。男は包丁を持ったまま玄関にでた。
「なんですか」
「そんな、包丁持って、どないしたんですか?」
「要件は」
「小池さんのところ行ったんですけど、注文ミスやったみたいで。よかたらこれ」
「あ、結構です」
「いいから、受け取ってくださいよ」
「いや、いいから早く帰れよ」と春樹はキツく言った。瞬間、言いすぎたかとビビってピザ配達の男の顔を覗き見たが、思った以上に剣幕な表情をしている。「あんた、死ぬつもりやな?」とピザ配達の男は春樹の顔に近づき、ドスの効いた声で睨みつけて言った。
「やめときや」
「なんで、おれが…」
「俺の友達が自殺した前の日、そいつも同じような目してたわ」
と話してピザ屋の男は靴を脱ぎだした。
「まあ、ええわ。俺も腹減ったし、一緒に食おか。タダやで」なんて理不尽な事を当たり前のように話して、親戚の家に上がる感じで彼は春樹の部屋に侵入した。
春樹は何も言えないまま、ただ、ズカズカと部屋に上り込む男をなすがままに受け入れざるを得なかった。現場の空気は完全にこの男に支配された。もはや、春樹の頭には自殺はなかった。むしろどうでもよかった。今はただ、このカオスな状況をどう潜り抜けるべきか。それを考えるべきだと思った。
*
24の誕生日をこんな形で迎えるとは思わなんだ。と春樹は海老マヨ明太シーフードのピザを咥えて思った。目の前に座るピザ屋の男は、安藤という名の男で、彼は春樹と同い年、二十歳の時に大阪から引っ越してきたという。ひょうきんな人間かと思えば、シリアスになったり、急に沈み込んだり、情緒不安定な男というのが春樹の抱いた印象だった。安藤が部屋に上がり込んできた小一時間の間に、春樹は急に、なぜ自殺しようとしたのかと首を絞められながら問い詰められ死にかけた。ヤバいやつだな、と思えば今度はバイト先の同僚について愚痴を笑いながらこぼし始めた。――
「こないだ一緒に働いているインド人がな」と安藤は話を切り出した。「仕事中にトイレでババしたまま全然出てこーへんねん。ほいで、あいつ中でカレーでも食うとんのか言うとったら、25分後に出てきてさ。あいつ、ほんまにトイレでカレー食うとってん。皿持ってトイレから出てきて。なぜか照れ臭そうに笑ってたわ。ほいでトイレ入ったら、ごっつウンコ臭い! カレーの匂いもするし。あれは地獄やで。新手のテロ。ウンコカレーテロですわ」彼は饒舌に語りまくった。春樹は普通に笑った。やはり大阪人は面白いなと思った。少なくとも今この瞬間、自殺するなんて、アホらしいと彼は真面目に思った。それにしても、目の前に座るこの安藤とか言う男、つい10分前に馬乗りで首を絞めながら「おれの親父も首吊っって死んだんじゃ! お前も死ぬかあ!?」と怒鳴り散らした同じ人間とは思えなかった。
「ドライブいこか」と最後に一切れ残ったマルゲリータピザを食べて、安藤は言った。春樹の住む高円寺のアパートから、春樹の自転車で二人乗りした。
「バイクはどうするの?」と春樹は運転する安藤の肩に手を置いて話した。
「あれは明日取りに行くわ! とりあえず新宿に行くぞ!」と自転車は軽快に走った。春の生暖かい風がやけに心地よい。
終電が過ぎた時間でも都会では多くの人間が出歩いている。そんな当たり前の光景も、ずっと家に引きこもっていた春樹の目には新鮮に、映った。なぜか春樹は涙した。涙が溢れて止まらなかった。ずっと先の方に、新宿のビル群がプラネタリウムの星みたいに輝いている。生きようと思った。
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