訓練9-2
このバーに来たのは二月ほど前に上司に連れられてきたのが最初で、これが2回目だ。私はふだん酒を飲まないし、こういうオーセンティックなバーに行くこともなかった。店内は間接照明がほのかに灯された薄暗い雰囲気で、ラテン音楽がボリュームを絞って流れていた。マスターは50過ぎだろうか、白髪混じりのおしゃべりな関西人で、常連客と芸能人のゴシップや音楽談義など、楽しそうに話していた。会話の声はうるさい感じではなく、不思議と内装に溶け込んでいた。
マッチングアプリで知り合った女が、静かなところでお酒を飲みたいというから、ふとこの店を思い出して、連れてきた。酒が回って緊張がほぐれてきたのだろうか、女はハイボールを2、3、4杯と重ねるごとに饒舌になった。訊ねてもいない恋愛遍歴や、家族事情をべらべらと話し続けた。うるさい女は苦手だ。ホテルに行って一発やって適当に別れようとおもった。女は、私たちが座る二人がけのテーブル席からカウンターに移動して慣れたようにマスターに声をかけて、5杯目の注文をした。ドリンクが来た後も女はそのままカウンターに座り、マスターや常連客と話し始めた。初めて会う人たちの中に入ってなぜこうすんなりと打ち解けられるのか。私は物怖じしない女が恐ろしくおもえた。女はスツールを回転さして後ろにいる私に手招きした。私は渋々自分のグラスを持って席を移動した。「以前も来られましたよね」とマスターに声をかけられて私はハッと驚き顔をあげた。二月前に一度だけ来た客を覚えていることが不思議だった。酒の弱い私はその時かなり酔っていて、カウンターの前で猫のようにちびちびとスクリュードライバーを舐めていただけで、ろくに会話もしなかったはずだ。「ご迷惑をおかけしました」と私はマスターに言った。酔ったはずみで粗相があったかもしれないと思ったからだ。「迷惑なんてありましたか?」とマスターは笑った。女は私とマスターのやりとりを微笑ましく眺めていた。同い年であるはずの女が、私よりずっと大人にみえた。ある種の大人は家で飲むより遥かに金のかかるバーになぜ群がるのか、少しわかった気がした。
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